教区報

教区報「あけぼの」

「『それでも…』は希望の言葉」2014年11月号

あけぼの11月号1ページイラスト 「ヨブの三人の友人が、ヨブの友人たり得たのは、この最初の一週間だよね」。

 大学院時代、ヨブ記をテーマにしたゼミでの恩師の言葉です。

 

 ご存知の通り、旧約聖書のヨブ記は、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(ヨブ記1:1)ヨブに、ある日突然、次から次へと災難・不幸が襲いかかることが記されており、神が正義であるなら、なぜ正しい人が苦しまねばならないのかをテーマにした書物です。そして、その内容の大半は、「ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやってきた」(同2:11)三人の友人とヨブとの討論で構成されています。

 

 三人の友人は、次から次へと災難が起こった理由・根拠について推測、ヨブにこれを語ります。それは、当初はヨブの苦しみを思い、おそらくは苦しみの理由を明らかにすることでヨブを立ち直らせたいという善意からの問いであり、また諭しであったのだろうと思われますが、純真無垢のヨブからすれば、語られる内容以前に、そのような理由付けが、より彼を困惑させたであろうことがうかがわれます。そしてヨブがそのような態度を示せば示すほど、それを頑なな態度と受けとめた三人の友人の語りはエスカレートしていきます。

 

 さて、三人の友人がそのような諭しを始める前、彼らはヨブの現状に語る言葉をもたなかったことが聖書には記されています。「彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(同2:13)と。

 

 そこで冒頭の恩師の言葉です。つまり、ヨブの苦しみを共に担いたい、慰める「友」でいたいとの思いで駆けつけた彼らはしかし、ヨブの現状に話しかけることもできず、七日七晩、ただ傍らに一緒に座ることしかできなかった、それが三人がヨブにとって友人たり得た時間だったというのです。

 

 語る言葉をもたず、ただ傍らにいるしかないのが真の友人?この日以来、私は「共感」とは何かを思い巡らしてきました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」など人間にできることなのだろうかと。「共感共苦」は、確かに耳には聞こえのいい言葉ではあるけれど、人が人と真に同じ感情をもつことはできるのだろうかと。

 

 正直に告白すれば、私の答えは「できない」ということになります。それはパウロの言葉を否定したいのではなく、またそれを諦めているわけでもありません。ただ、たとえ家族や恋人同士であっても、別人格の人と人が完全にアイデンティファイ(自己同一化)することはできないという意味においてそう思うのです。しかし、苦しみの最中にある愛する人を思い、何とか力になりたい、何とか励ましたいのにそれができない、語る言葉を持たないという自らの悲しみと、苦しみの最中にある人の悲しみはリンクする、そこで思いを共有することは不可能ではない、今は「共感」をそんなふうに捉えています。

 

 その意味で「共感」は、自分は本当に愛する人に寄り添えているのだろうか、他に何か方法があるのではないだろうかと正回答のない問いに悶々とし、しかしそれでも一歩踏み出し続けることではないだろうか、そう思っています。そしてそれこそが、共に重荷を担い、完全なる共感を果たすことのできるキリストの御跡を踏むことなのではないだろうかと。  そんな「揺れ動き」を受け容れつつ、それでも「前」を向いて生きる歩みを、「だいじに」していきたいと願っています。

 

 

あけぼの 2014年11月号より
司祭 ヨハネ 八木 正言