教区報

教区報「あけぼの」

「これからも私たちにできること」2014年10月号

 「いっしょに歩こう!パートⅡ だいじに・東北」の働きが始まって2年目を迎えました。被災直後のパートⅠの働きが、まず必要な物的支援から始まり、徐々に被災された方々の心に寄り添う、正に「いっしょに歩く」ことが働きの中核となって行ったことを引き継いでの働きが「だいじに・東北」の働きだとわたしは理解しています。そしてその働きを担っているのが私たち東北教区の各教会であり、そこに集う一人ひとりです。もちろん何をして行けばよいのかを探り、働きを調整してくださる事務局の働きがあり、現在も多くの教区外からのご支援もあります。しかしその働きは各教会との連携があってこそ本当に生かされていきます。うれしいことにその主旨が理解され、教区内の教会に具体的な動きが生まれ、継続されている働きも生まれています。そのひとつに「被災の地を訪ねる」ということがあります。被災直後は立ち入りを制限されている地域も数多くあり、訪ねてみたいと思っても「ただ行くだけなんて、見に行くだけなんて申し訳ない」という思いも多くの方が持たれていたことでしょう。

 

あけぼの10月号1ページイラスト また、「自分たちはたいした被害も受けていないのに」という思いが被災された方々に「申し訳ない」という思いになったり、後ろめたさを覚えたりという告白を数多く耳にしました。あの大震災は直接の被害を受けた人たちにも、そうでない人たちにも多くの傷を残しているのだなと思わされます。だからこそ今は多くの人に被災の地に直接立ってほしい、その地の人たちに出会って欲しいと願うのです。

 

 私の教会でも昨年から被災地訪問を続けています。初めて行かれる方はやはり少し不安もあったようです。「ただ見に行くなんてことを、して良いのだろうか?」という思いはぬぐいきれません。被災地からは「見に来てくれるだけで良い。見て、知って、感じて欲しい」というメッセージも届くようになっていましたが、最初のうちは緊張の被災地訪問でした。ところが驚いたことに躊躇している私たちに先に声をかけてくださったのが地元の被災された方々でした。「どちらからいらっしゃいました?山形。遠くからありがとうございます。」そんな出会いから始まった会話、被災時の出来事のお話はもちろん軽いものではありません。情報としては知っていても、体験者から直接聞くお話は各々の魂を揺さぶるものでした。ところが別れ際には両者とも何かわだかまりが解けたような不思議な感覚を覚えたように感じています。それは「聞いて欲しい」「聞かせて欲しい」という思いが出会った時であったかもしれません。

 

 ビートたけしの、こんな言葉を思い出しました。「(よく犠牲者の数で災害の大きさが比較されるが)そうじゃなくて、そこには一人が死んだ事件が2万件あったってことなんだよ。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えているんだから。」この言葉からこの聖句を連想しています。「その小さな者一人にしたことは、私にしてくれたことなのである」という主イエスの言葉です。「だいじに・東北」の働きには終わりの時が来ます。でもその後にもできることが私たちにはあります。これからも同じ苦しみを負わされる方は、残念ながらおられることでしょう。私たちは無力に見えます。でも祈り続けること、小さな出会いを大切にしていくこと、等々ができます。私には何ができるでしょうか。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福

あけぼの 2014年10月号より