教区報

主教コラム - 欅並木からの記事

欅並木から 第23回「オ~、お互いを忍耐して~」

かつてわたしはカトリックの学校で学ぶ機会を与えられました。いわゆる「典礼学」(聖公会では礼拝学)の当時の大家・土屋吉正神父のもとで学ぶためでした。もう四半世紀も前ですが、当時そこにはなかなか優れた内外の神学者が揃っておられたと思います。そのお一人がペトロ・ネメシェギ神父という方で、世界のローマ・カトリック教会の神学会議にも属する、イエズス会の司祭であられました。その方の講義が充実していたのは勿論ですが、時に教会や修道会のことをユーモラスに語られることもありました。ある時の話。

 
「修道院は大変で~す。世界中の修道者が集まっています。ドイツ人は理屈ばかり言っていま~す。イタリア人とアメリカ人はいつもうるさい、賑やかで~す。英国人は頑固で~す。日本人はむっつりと黙っていま~す。でもわたしたちは~お互いを忍耐して~、神様の栄光を顕すので~す!!」。

 
教室は笑いに包まれました。もっとも信仰的な成熟した共同体である筈の修道会、修道院です。しかし、ただ皆が気心が知れて仲良しなのではない、まったくありませんと。しかも修道院は基本的には一生付き合うのですから大変そうです。しかし「お互いを忍耐して、神様の栄光を顕す」のですと。

 
わたしは笑いながら、大変印象的な言葉として記憶しました。お互いに仲良く、すべてを認めあえていれば理想的でしょう。しかし修道院でもそんなことはない。いやイエスの十二使徒でさえ、まったくそうではないようです。

 
多様であるということは時にお互いに忍耐を要する、ということと同義なのではないかとさえ思います。それでも同じ神様に召され、「神の栄光を顕すために」、その大きな目的の中に召されているのです。

 
わたしたちの中ではどうでしょうか?

(教区主教)

 

 

あけぼの2017年6月号

 

 

* 主教コラム「欅並木から」は今号をもって終了いたします。ご愛読、ありがとうございました。

欅並木から 第22回「信徒の分餐奉仕」

東北教区の信徒奉事者の働きの中に「分餐奉仕協力」を加えることとなり、すでに数名の方が教会委員会、常置委員会を経て、主教の認可を得ておられます。各国の聖公会では幅広く、また日本聖公会でもすでに行われていますが、東北教区では初めての経験となります。

 

聖餐式はもちろん教会にとって最も重要な礼拝です。一方、重要視するあまり、その中で聖別される「聖体」(聖別されたパンとブドウ酒=御体と御血)に対する信仰が過剰に強調され、中世期にはやや迷信的ともなって、そのことがカトリックとプロテスタントの分裂の原因となった歴史もあります。聖職者でなければチャリス(杯)やパテン(皿)に触れることも出来ないと教えられた時代もありました。「聖体」がキリストの真の体であるということ、それはわたしたちの信仰です。しかし同時に聖書でパウロが一生懸命語っている「キリストの体」は教会のこと、わたしたちのことです。またキリストの臨在は「聖体」だけではなく「み言葉」、聖書の中にも認められるべきものです。聖書朗読が重要な理由もそこにあります。

 

「キリストの体」である教会の中で、祭司的な務めを分かち合う信徒も共に、「聖体」を分かち合う奉仕に参加すること。その意義は大きいと思います。陪餐者数が多いから、あるいは司祭がご高齢で補佐が必要だから、という現実的理由もあっていいでしょう。しかしそれだけではなく、今申し上げたことも心に留めてくださって、この奉仕がますます豊かになっていくようにと願います。さらには信徒の方が聖体を持って病床の方をお訪ねし、一緒にお祈りするようなことも出来れば。

 

東北教区の未来は、教会全体がそれぞれの賜物を生かし合いながら、豊かに奉仕職を分かち合う、そのことにかかっていると信じています。

(教区主教)

あけぼの2017年5月号

欅並木から 第21回「ルイジアナ教区主教をお迎えして」

長く「祈りのパートナーシップ」として、親しい関係を保ってきましたアメリカ聖公会ルイジアナ教区のモーリス・トンプソン主教の東北ご訪問が無事に終わり、10月19日に帰国されました。

 

東日本大震災被災地としては新地・磯山、また野蒜(東松島市)方面へご案内、合わせて松島で日本的な雰囲気にも触れていただきました。八戸聖ルカ教会の宣教120周年記念礼拝、行事へのご参加、仙台の聖ルカ幼稚園への式典ご参加等、そして17日(月)には2時間にわたって、ルイジアナ教区のご様子を力を込めて語ってくださいました。

 

そうした中でルイジアナ教区が現在「回復」recovery ということを宣教のテーマとしておられることを伺いました。主教自身が、すでに40人の刑務所に服役中の人たちに堅信を授けられたこと、アルコール中毒や麻薬からの回復のプログラムにルイジアナ教区が力をいれておられる様子を伺いました。社会状況の違いもあるとは言え、やはり教会の働きの積極性に強い印象を受けました。ハリケーンのこと、東北の大震災のことも合わせて、広い意味で「回復」―失われたものを再び生かしていくこと―は教会の中心的テーマなのだと改めて感じさせられました。

 

そうした教会の働きの背骨は「信徒」であること、また「執事」には社会の必要を教会に伝える重要な役割があることも語られました。「信徒・執事・司祭・主教」は決して身分の違いなどではない。みんな同じ「洗礼の約束」に基づいた平等の関係であること、ただそれぞれに独自の役割を持っているのだとも。

 

毎週、代祷の中で覚えているルイジアナ教区が、ぐっと身近になってきた数日間でした。これからも祈りあう関係を続けること、そして機会があれば、お互いに訪ねあい、交わりを続けることを約束してお見送りいたしました。

(教区主教)

あけぼの2016年12月号

欅並木から 第20回「ルイジアナ主教をお迎えします」

トンプソン主教プレゼント写真2005年の4月13日から19日まで、わたしたち―教区主教と信徒・聖職計10名はアメリカ聖公会ルイジアナ教区から、ニューオリンズにある主教座聖堂クライスト・チャーチの200周年記念礼拝にお招きいただいて参加してまいりました。ジェンキンス主教はじめ皆様から大歓迎を受け、特別な思い出となる訪問でした。

 

しかしその年、2005年8月に全米史上でも最大規模と言われるハリケーン・カトリーナがニューオリンズを中心にルイジアナを直撃、大災害となったことは皆様のご記憶にあると思います。わたしたちがホームステイでお世話になった瀟洒な街並みの美しい関係者のお宅も、すべて全壊しました。ルイジアナ教区の教区機能は他の街に避難移転。そこからジェンキンス主教は、大変な労苦をしつつこの大災害と向き合われたのです。「わたしたちは信仰に堅く立って揺るがない」という当時のメイルのメッセージは忘れられません。

 

2008年のランベス会議で再会し、その翌年には必ずご夫妻で東北を訪問されると言われていました。ハリケーンの時には東北教区は日本全体に復興支援募金を行い、約500万円近い献金をしていました。その感謝のお気持ちもあったと思います。しかしその後、再びハリケーンがルイジアナを襲い(これはカトリーナのような大被害にはなりませんでしたが)ジェンキンス主教は退任されました。

 
1892年に初めて青森にこられた宣教師、ミス・ジョージア・サザンはルイジアナ教区所属と言われます。その後、もちろんドレーパー司祭を通しての交流がありました。

 
ジェキンス主教の後継者モーリス・トンプソンJr.主教様も東日本大震災に思いを寄せてくださり、東北訪問を希望しておられました。このたび、それが実現することを喜び、皆様と共に歓迎したいと思います。

 (教区主教)

あけぼの2016年10月号

※東日本大震災の際にトンプソン主教から送られた、再生を祈る写真

 

欅並木から 第18回「やっぱり人!?」

160627_1455444月下旬に開催された宣教部会は、ゲストに東京の社会福祉法人葛飾学園理事長の山口千晴氏をお招きして、お話を伺う時を持ちました。実は私は東京教区の執事時代約7年間、葛飾にある葛飾茨十字教会(葛飾学園と同じ敷地)で主日勤務をしていたので、大変懐かしく思う一時でした。

 
しかし私が関係した四半世紀前には葛飾学園という一つの保育園であった働きが、今や加えて10カ所に近い学童保育クラブと、さらに軽費老人ホーム・ケアハウス サンピエールおよび他に2か所の高齢者への奉仕の働きを展開しておられ、そのお働きからのお話を伺ったわけです。「すごい」と思わされますし、いろいろと具体的なご苦労も(そのほんの一部でしょうが)伺うことができました。その中での一言、こうした働きに不可欠のこととして「地元出身で、事業として、ライフワークとして、他の道を諦めて」献身する人が必要と言われたこと、そして何をやっても大変有能であろう同氏ですが、「他の道を諦めて」やってきたと、自分の人生、大変残念だとニヤッと笑いながら言われたのが印象的でした。

 
東北教区の働きは教会と共に幼児教育に大変重きをおいています。それを突き詰めていく道もあるでしょう。同時に高齢者に対する働きが機関としてはないことも気になっています。何をするにも「お金がない」と。しかし決してお金について楽観視するわけではありませんが、同じかそれ以上に、「人」なのでしょう。「他の道を諦めて!地域にしっかりと足を下ろして専念する人」。何事においてもそうなのだろうと思います。聖公会の聖職者は、異動していくことにプラスとマイナスもあるでしょう。一つの地域を動かない「特任」聖職の召命もありますが。むしろ聖職者に限らない、信徒の召命にこそ、将来の大きな可能性があるのかも知れません。

(教区主教)

あけぼの 2016年7月号