教区報

主教コラム

欅並木から 第8回「分けあったミカン」

DSC_152510月に韓国・済州島で開催された日韓聖公会宣教協働30周年記念大会で、テジョン教区の主教被選者ユ・ナッジュン師とお会いすることができました。ほぼ初対面の同師ですが、まったく些細な、しかし印象的な出来事を一つ。

 

 

たまたま小さなミカンを一つ手にとっておられた同師(済州島はミカンが銘産)、わたしの方に歩み寄って来られながら剥いたミカンを割って、数房をヒョイとわたしに差し出されました。それだけのことですが、皆さんはいかがですか?わたしはあまり一つのミカンを分け合って食べた経験はないように思います。そしてそれはユ師だけではなく、大会中、ミカンを食べている人の傍にいると、必ずヒョイと数房分けてくれるのです。

 

 

大会中、別の機会に大韓聖公会ソウル教区主教、首座主教の金根祥師父と何人かで食事をしていた時、魚の食べ方の話から韓国と日本の食事のマナーの話になりました。韓国では一匹の魚に、何人もが箸を出して一緒に食べるのは普通です。日本人は一人できれいに骨だけ残して食べてしまいます。そうでないと行儀が悪いことにもなるでしょう。韓国ではかなり身を残したまま、魚が下げられることがありますが、「残した部分は、貧しい人の取り分なんだ」と金主教。現在はそういう貧しい人はいないかも知れませんが、しかしそれは『レビ記』にも見られる思想です(19章)。一人一人が自分の皿に自分の分の食べ物を載せ、それは自分できれいに食べ尽くす、というのは、「だから日本人は親しくなりにくい」と、今は大変親しい金主教の言葉でした。

 

 

「分かち合う」感覚について、韓国と日本の違いのようなものを感じた瞬間でした。小さなパンを割って食べ、杯を回し飲みするのが聖餐式だとすれば、大変近いものを感じます。

                                教区主教

 

あけぼの 2014年12月号