使徒聖ヤコブ


 十二使徒の中に加えられたボアネルゲ・ヤコブ、ヨハネの兄弟と言われている。ヤコブについて語るとなると材料が少なくて大変難しい。そこで個人的な繋がりからヤコブのことを述べる。この使徒の名前は、私にとっては洗礼のときの洗礼名である。小学生のときに洗礼を受けたが当時の牧師であるH司祭が考えてくれたのである。この受洗の瞬間からクリスチャン生活が始まった。聖洗式を執行した司祭は、この洗礼名を決める時にこう言われた。「あなたのお兄さんがヨハネだからその兄弟のヤコブにしましょう。また、ヤコブの殉教の記念の日7月25日で7月です。あなたの誕生月が7月だからヤコブにしましょう。」と。それ以来ボアネルゲ・ヤコブは私の生活となった。使徒聖ヤコブは漁師であり聖ヨハネの兄弟である。十二使徒の中で一番最初に首を切られ殉教した。
(使徒言行録12の1、2節)また、今日に至るまでスペインの守護聖人として崇められている。ヤコブとスペインの結びつきは、ヤコブの早い時期の殉教を考えると考えにくいと思われる。しかしヤコブへの崇拝は、今日なお止むことがないと言われる。スペインを旅行した教会の婦人よりお土産をいただいた。ヤコブの像の写真と白い貝殻である。ヤコブがスペインに流れ着いた海岸から取れた貝殻だそうです。それ以来白い貝殻はヤコブの象徴となっている。いつも私の机のそばに置いてある。使徒聖ヤコブは真っ直ぐで単純な性格だったと考える。師匠のイエス様から金(イスカリオテのユダ)も天国の鍵(ペテロ)も預からなかった。しかし、いつも主のそばに居た。必要なときに主のそばにいることを命ぜられた弟子であった。したがって金銭の煩いも無く、世の動向を気にもせずに生きられたのではなかろうか。
 ヤコブを描いた絵がある。手に聖書を持ち、もう一方の手には杖と袋を持っているそうです。この意味を考えると、聖書は福音を飽くこと無く宣べ伝えることを意味し、杖と袋は、どこまでも、すなわち地の果てまでも旅することをあらわしている。
 ボアネルゲ・ヤコブはイエス様に呼ばれたときに漁師の網や舟を捨てた。そして父も置いて従った。(マタイ4の18〜22、マルコ1の16〜20、ルカ5の1〜11)
 ペテロとバルナバ、ヨハネとをヤコブと比較するとペテロとヨハネが目立ち、バルナバとヤコブは目立たない。しかし、十二使徒の中では重要な働きをしたことは間違いない。私たちのクリスチャンとしての働きもまたそうである。ペテロのようにリーダーとして働きを要求される人。ヨハネのように最後まで生き残って仲間の殉教を見届ける役目の人と様々である。目立つ人だけが神様の御用をしているかというとそうではない。私は学生の時にホテルで皿洗いのアルバイトをしたことがある。食器や鍋、フライパンやグラス類が綺麗でないと料理は美味しく出来ない。皿洗いは華やかな食事の席にはもちろん顔を出すことはない。板長や料理長がお客様の前に顔を出し挨拶をする。この料理のために多くの人が関わっている代表者として挨拶をする。きれいな皿やグラス、皿に乗っている料理を作る鍋やフライパンを一生懸命に洗っている人のことを忘れてはならない。板前さんやコックさんたちはいつも皿を洗う人たちに感謝をしていたのを思い出す。華やかなフランス料理のフルコース、日本料理の会席料理など陰で支える人々がいて一流のホテルとなっていく。
 主の御用を仰せつかった使徒のヤコブ。ボアネルゲとあだ名されたが、他の弟子たちや兄弟をも引き立てる役目に徹した弟子として私たちは覚えることができる。
 ヤコブの激しさは表面に出る激しさではなく、仲間を支え、励ます激しさであったと想像しているのである。

                                                                                                                                                          
司祭 ヤコブ 八戸 功 




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使徒聖バルトロマイ

 
バルトロマイという名の弟子の正体は不明である。何故なら、新約聖書には名前以外には彼の何も記述がないからである。彼のようにほとんど個人情報がないか、あるいはほんのわずかしかない弟子も、例えばアルファイの子ヤコブのように数名いる。
バルトロマイが出てくる聖書箇所は、マルコ伝3章16〜19節、マタイ伝10章2〜4節、ルカ伝6章14〜16節の各福音書(=共観福音書)の並行箇所、そして使徒言行録1章13節のただ4カ所だけである。十二弟子・使徒任命と、使徒団として登場する。
バルトロマイはシモン・ペトロたちのようなイエスさまからの直接の招きを記述されることもなく、また徴税人マタイやトマスのように、主との直接的で劇的な出会いという感動的な信仰体験も分からない。あるいは、熱心党のシモンのような強烈な自己主張を持った人物でもない。
さらに、実はバルトロマイは姓名ではない。アラム語で「バル」は「(誰々)の子」の意であり、「トロマイ」は「タルマイ」だから「タルマイの子」の意味の言葉である。従って、彼は名前で呼ばれていない。彼の存在は氏名を覚えられず、通称、日常使われていた俗称で記憶されているだけなのである。要するにバルトロマイは目立たない弟子だったのだが、常に主イエスのそばにいて寝食を共にし、沢山の主のお言葉を聞き、目を見張る振る舞いを見、そして何よりも主に祈っていただいた。
マルコ伝によれば、十二弟子が立てられた理由は、主イエスと共にいること、宣教すること、そして癒すこと(悪霊を追い出すこと)の三点であった。マタイ伝、ルカ伝は共にその理由を、悪霊追放としている。その後使徒たちは宣教に遣わされている。主イエスに遣わされる(アポステロー)から、「遣わされた者(アポストロス)」すなわち「使徒」とイエスご自身から名付けられていた。
私たちは、バルトロマイを地道な宣教者、と形容すれば良いのかもしれない。バルトロマイは、無言で私たちに模範を示している訳だ。名を広めるというのでもなく、飛び抜けて優れた注目される派手な働きをするのでもなく、いつもイエスさまのお言葉を胸に抱き、淡々と主の命じられた三つの事柄を実行するに努めていた、そんなふうに私には想像される。
教会、共同体の中で目立たない、特別取り上げられるようなことがないとしても、バルトロマイのような方もまた弟子たち、使徒団のれっきとした存在であることを彼が証しているのではないだろうか。後の伝説では、彼は生きたまま皮を剥れ十字架にかけられ殉教している。
この聖人の祝日特祷は「・・どうか主の公会も使徒が信じたみ言葉を愛し、使徒が伝えた教えを宣べ伝えることができますように」と祈る。なるほど具体性には乏しく一般的な用語だが、このことがかえって、バルトロマイの人となりを的確に表現しているのだと思う。祝日は8月24日である。
なお、タルマイの子の名前はナタナエルだ(ヨハネ伝1章43〜51節)と、九世紀以来推測されてはいるが、確証はない。

                                                                        
司祭 フランシス 長谷川清純



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使徒聖マタイ

 
 
マタイは十二使徒の一人で、《マタイによる福音書》の著者であると信じられてきましたが、近代の聖書の批判的な研究の結果、マタイが書いたのではないとのことです。従ってマタイについて書くことは簡単なことと思ったのですが、これは意外と難しい作業です。
 マタイはガリラヤ湖の近くにある交通上重要な町カペナウムの収税所に勤める取税人(徴税人)の一人でした。イエス様の最初の宣教の舞台がこの町だったのでイエス様のなされた病人の癒しや奇跡の業を目のあたりにし、話された言葉を耳にしていたのでした。
 当時評判の悪かった取税人は、人々から嫌われていたのですが、イエス様はマタイに声をかけられ、「私に従いなさい」と言われました。このとき、ザアカイの場合と同様の劇的な出会いが起こったのでした。マタイの心が揺り動かされ、ただちにイエス様の後に従うこととなりました。マタイとレビは同一人物だったと広く考えられていますが、別人だったようです。
 『黄金伝説』から少し引用してみましょう。
マタイには「急ぎの贈り物」または「助言を与える者」という意味がありました。イエスの言葉に、すぐ回心し従ったので「急ぎの贈りもの」であり、有益な説教をしたので「助言を与える者」でした。
聖霊降臨のときに聖霊の力を受け、多くの国の言葉が分かるようになりましたのでエチオピア、ペルシャ、マケドニア地方に宣教に行ったと伝えられています。
エチオピアで宣教していたときナダベルの町で二人の魔術師に会いました。二人は人々をだまし、自分たちを神として拝ませていました。マタイは、女王カンダケの高官で、ピリポから洗礼を受けた宦官(かんがん)の家に泊まり、魔術師たちのうそを暴き人々を救いました。
そしてエギップス王の王子が死なれたときには、祈りによってただちによみがえらせることができました。お礼にと王の持参した金銀を元に教会を建立し33年間人々を指導しました。エギップス王も王妃も国民も共に洗礼を受けました。
エギップス王の死後、位を受け継いだヒルタコス王はエピゲネイアという女性に心を寄せ、マタイに縁を取り持ってもらうと思いました。しかし、マタイは主日礼拝の説教で結婚は尊いことであり、ことにエピゲネイアは修道女として永遠の王の花嫁になることを決意しているので、これを奪って自分の花嫁にするのは良くないと話しました。
これを聞いたヒルタコス王は立腹し、マタイを逮捕して剣で殺したと伝えられています。
聖遺骨は後に運ばれ、今はイタリア南部の町サレルノの大聖堂にあるそうです。
マタイではないかもしれないが、マタイと何らかの関連のある人々がマタイによる福音書を記したのです。聖書を紐解くときに、最初に出会う福音書に記されているイエス様の多くの言葉が、信仰の入門書でしたし、今も大切な言葉として、信仰の礎となっています。
(※『黄金伝説』‥ヤコブス・デ・ウォラギネ著、人文書院。最近、平凡社ライブラリーから文庫本サイズで再版されている。)

                                                                                                                         司祭 フランシス 中山 茂


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使徒聖シモン


 使徒聖シモンはルカ福音書(6・13〜16)では、イエスが任命した十二人の使徒の人名表で、十番目に「熱心党のシモン」と記されています。新約聖書では、彼の名を記すだけで特に何も語られていません。シモンについては、熱心党であったということから、彼の信仰と使徒としての歩みを見ることにします。
 熱心党はユダヤ人の党派の中で、最後に現れたものでありました。パレスチナはローマの支配下にあり、ヘロデ大王が長い間ユダヤ民族を統合してうまく治めていました。しかし、パレスチナはローマの圧政に抵抗する感情を休火山のように抱いていました。ヘロデの死後に領土は息子たちに分割され、パレスチナへの圧政に対する感情が爆発し、そこでガリラヤ人のユダ(使徒5・37)が指導して反乱を
起こし、武装して革命に入りましたが、ローマの軍勢に鎮圧されました。
 ヘロデの息子アケラオは暴政を行ない、不適当とされ、総督キリニウスがユダヤを治めました。(ルカ2・2)総督は徴税と行政のために人口調査を行ないました。すると、直ちにユダヤは反乱に入りました。これは単にユダヤ民族主義による政治的動機によるものではなく、深い宗教的信念によるものでありました。ユダヤ人は神が唯一の主権者で、神聖政治を妨げるものに抵抗したのです。この熱心さは、旧約続編のマカバイ記一の言葉「おまえたちは律法に情熱を傾け、我らの先祖の契約に命をかけよ」(2・50)をユダヤ人は受け継いで、彼らの民族と信仰を妨げる者から守ってきたと言われています。    
ユダは再び指導者になって反乱を起こしたが、弾圧されて殺害され、この流血の聖戦から熱心党が起こっています。熱心党の熱心さは狂信的になり、ローマの圧政と暴虐と戦っただけでなく、ローマ人と癒着しているユダヤ人とも戦い、暗殺者に発展し、紀元74年エルサレムが包囲された時、彼らは集団自殺しました。
これが熱心津シモンの背景で、民族主義者であり、律法に身を献げ、ローマに妥協する者には短刀を保持して憎しみを抱く人でありました。
シモンがイエスの使徒になった時、ローマの徴税人をしていたマタイがいました。彼にとってマタイは憎しみの対象であったと思われますが、キリストの愛によって敵意が滅ぼされ、仲間となったのです。シモンはキリストの十字架の後も、使徒の仲間と共にいました。彼は武力政策の改革から短刀を捨て、犠牲的愛を受け入れる人に変えられたのです。伝説によると、シモンは使徒聖ユダと共に、エジプト、メソポタミアにも宣教し、後にペルシャでも宣教したといわれています。そこで彼らは二人の魔術師に説教の邪魔をされ、国中にシモンとユダの中傷をして反対するように扇動されました。スアニルの町で二人は神殿に連行され、人びとの犠牲を献げますが、自分たちの死を選ぶかを迫られました。
二人は祈り、天使は彼らに選択権を与えました。二人は他の人びとの命の犠牲で、自分たちの命を救うことを望まず、殉教を選びました。二人は祭司と人々によって引き裂かれて殉教しました。殉教日は紀元47年7月1日と伝えられ、使徒聖シモンの標章はのこぎりを持っています。シモンはイエスと出会い、イエスに触れることで悔い改めて変えられたのです。熱心さのあまり、革命の故に人を殺そうとした人が、神の愛を理解できる人になったのです。使徒聖シモンはキリストの十字架と復活とに直接触れて、革命の武力ではなく、精神は永遠の命であることを悟らせている人であります。

                                                                                                                                                     
    司祭 サムエル 秋山久之 




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使徒聖アンデレ

 
 知っている人は知っていると思いますが、かつてアンディ・ウイリアムズという歌手がおりました。甘いソフトな声と、歌唱力にあこがれたものでした。ちなみに私の洗礼名はアンデレです。アンデレの愛称がアンディですから、私が憧れたのも無理のないことでしょう。
 ある時、村上主教様の洗礼名をウィリアムズと記して、村上主教様からやんわりと咎められた経験があります。個人名とファミリー名の用い方の違いがあるのだ、と。
恥ずかしい、と思いました。知らなかったのですが、活字等公的なものに表記されてしまってからはどうにもなりません。教えていただいて「ありがたい」とつくづく思いました。
 さて、教区報編集担当から使徒聖アンデレについて書くようにといわれました。しかし、個人名や洗礼名、ファミリー名にも用いられるほど親しまれている?アンデレの名前ですが、使徒聖アンデレについて教会がどれ程知っているのか、といわれると些か恥ずかしい限りです。ほとんど知らないからです。
 聖書の記述によれば、誰よりも先にイエス様を認め、受け入れ、人々を主イエスのもとに導いたのは、アンデレその人でした。ところが、福音書の中ではそれ以降、どんどん影が薄くなっていきます。
アンデレとは男らしい、との意味であるとの記述はありますが、パンの奇跡の時に子どもの持っていた貧しい、パンと僅かな魚を主イエスに取り次いだ、という福音書の記述以外には、聖アンデレの名前は見あたりません。自分の名前がアンデレであるが故に、一抹の悔しさ、残念な思いがあります。福音書の中の、十二弟子の名前が列挙されているところですら「ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ」・・・といったように、最初に主イエスに従った者でありながら、第一番目は聖ペテロにその座を譲っています。アンデレである私は「なんでだー」と思わざるを、叫ばざるを得ません。歴史的に見ても、アンデレの名を頂いた人で注目されるほどの事跡を残している例はあまりありません。ペテロやヤコブやヨハネといった人々の陰に隠れてしまって、使徒言行録という初代教会の姿を記した書物から、既に取り上げられておりません。
 聖アンデレ、使徒のうちに数えられつつも、詳しい記述のないこの人物は、一体どんな人であったのでしょうか。
ガリラヤ湖の漁師で、ペテロの兄弟であり、ピリポと親友であったらしい(マルコ3・18、ヨハネ1・44、使徒言行録1・13)その関係でギリシア語を話せたピリポと共に、主イエスの十字架の前に、ギリシア人を主イエスに紹介したようです。(ヨハネ12・22)教父といわれるエウセビオスによれば、黒海沿岸に伝道したといわれますが、それも定かではありません。
けれども、アンデレ十字の名は残っております。Xの形をした十字架が聖堂の外壁や内壁の装飾のように刻まれている様子が見て取れます。それは注意して見ないと見つけられない程、目立つものではありません。伝承によれば、まさに十字架に付けられようとした時、聖アンデレが刑吏に「主イエスと同じ十字架に付けられるのでは畏れ多いので、バッテン型の十字架にして欲しい」と申し述べたことによるといわれています。やたら目立ちがり屋のペテロやヤコブ、ヨハネの類が多い弟子たちの中にあって、地味であっても、全体に目を配り、注意の行き届いた聖アンデレの存在は、私たちに多くの示唆を与えてくれているように思います。聖アンデレに憧れ、聖アンデレを模範として生き、聖アンデレを洗礼名にと望む人の排出が今ほど期待されている時代はないのでは、と使徒聖アンデレについての記述を求められて、心に深く思っております。あなたも聖アンデレを目指しませんか。

                                                                                                                                                           
司祭 アンデレ 宇田正行




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使徒聖トマス

 
 トマスはディディモ(Didymos 双子)と呼ばれました。一般に若く髭がない人物として描かれます。トマスは非常に疑り深い人物でした。この事は「トマスの不信」や「トマスの懐疑」と呼ばれしばしば絵画の主題にもなっています。そのような彼も主との出会いにより変えられ、最後はインドに渡り宣教し、殉教したと伝えられています。   
彼は十二使徒の中でも全く目立たない存在でありました。トマスはキリストが生き返ったという事を他の使徒たちから聞かされましたが、なぜかトマスだけが復活の主が現われた時、その場に居合わせなかったため、一人キリストの復活を信じようとせずにいました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてれてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)
「わたしは決して信じない」という言葉には、完全に自分の殻に閉じこもっているトマスの姿が現されていると思います。ところがそのような状態にあるトマスのもとへ主イエスが近寄ってきて、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:27)と呼びかけられました。
この言葉は特別な響きとなって彼の心に届きました。自分の殻に閉じこもってしまったトマスに主は人格的な触れ合いをもって接近していかれました。こんな人間の心の奥深くまで介入していけるのは主だけであります。
 主イエスは、トマスの要求どおりに応えられました。何も隠さず、すべてをさらけ出している主の姿を見て、それとは対照的に自分は、殻に閉じこもっていたと、彼は気付かされたのだと思います。
十二使徒の一人として、師匠のためにすべてを捧げようと思っていたのに、現実には自分の行動が逆に師匠を悲しませてしまった。それにも関わらず主は十字架にかかってくださり、自分自身を救ってくださり、「シャローム」と声を掛けてくださったという事実に、彼は深く心打たれ、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と告白したのではないでしょうか。
私たちもトマスと同じでないでしょうか。「主イエス様のために自分のすべてをささげます」と告白しながら、現実の信仰生活、教会生活ではなかなか自己の殻を飛び出すことが出来ていないのではないでしょうか。
 私たちの信仰において最も大切なことはキリストに倣うということです。ですから「自分を捧げる」ということが求められます。主イエスが共にいてくださるからこそそれが出来るのです。トマスや他の弟子たちもそうです。あれだけ疑い深かったトマスの迷いが晴れたのも主の徹底した献身的な姿勢があったからでした。
聖公会聖歌集184番(古今聖歌集101番)の4節に「トマスの迷いも 晴れわたりて イエスを主とたたえ 神とあがむ われらもいさみて 救い主の 力とみ栄え たたえまつれ」とあります。復活節に歌われる有名な聖歌なので皆さんもよくご存知だと思います。
現代は、「混迷の時代」とも言われ続けてもう何年にもなります。そのような迷える時代にあっても、どのような状況にあっても「信じる」ことです。「信じること」を忘れてはいけません。
「あなたがたに平和があるように」との主イエスの御言葉を心に響かせながら、自分自身をを主に捧げるという心を持って生きて参りましょう。
尚、使徒聖トマスの祝日は12月21日です。


                                                                                                                                                          
司祭 ステパノ 越山哲也





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使徒聖マッテヤ



 全能の神よ、あなたは忠実な僕マッテヤを選び、み子イエスを裏切ったユダに代えて十二使徒に加えられました。どうか常に主の公会を守り、偽りの使徒を防ぎ、忠実な牧者によって治め導かれるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
(使徒聖マッテヤ日特祷)
・・・・・・・・・・
 今年度の教会委員・代議員選挙で同数票があり、取り決めがなかったので受聖餐者総会に同数票の取り扱いについて議題を上程いたし、「くじ引き」にすることを決めていただきました。教会によっては色々な方法があるかと思います。冒頭のお祈りは2月24日が記念日になっている聖マッテヤ(新共同訳聖書表記は” マティア”ですが、私は” マッテヤ “で通します)日の特祷です。この祈りにもありますように、マッテヤはイスカ リオテのユダに代わって使徒の一人に加えられた人物です。マッテヤが使徒に選ばれた方法はくじ引きでした(使徒言行録1・26)。聖書では物事を決める時にくじ引きで決めることがよく出てきます。そう言えばヨナがタルシシュへ向かう船が大嵐に遭い、誰のせいで大嵐が起こったかをくじで決めることになり、ヨナが大当たりと言う話を思い出します(ヨナ1:7)。
 ところで本日の主役のマッテヤ。ユダが抜けた穴を補充するくじ引きに当たり、使徒に加えられました。しかし、マッテヤ自身がどういう人物であったかについて、聖書は殆ど語っていません。くじに当たったとはいえ、最終選考のくじ引きまで残った人ですから、使徒団にとって魅力のあった人なのだと思います。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が・・」が後任使徒の条件でした(使1:22、23)。
マッテヤは後任使徒の候補者120人ほどの兄弟たちの中からこの条件に合い、そして神意を示すくじ引きによって選ばれた訳ですから、かなりの人物であったことと思います。これほどの人物でありながら、マッテヤについての聖書の記述はここで終わってしまいます。その後、このマッテヤに取って代わったのが使徒パウロだ、と言う考えもあるそうです。確かにパウロは偉大な伝道者です。しかし、ユダの補充としての使徒の条件にはパウロは合いません。使徒と言うならば、パウロは番外使徒と言った方がいいのかもしれません。正式な使徒というならば矢張りマッテヤでしょう。『使徒』と言う称号と実績は違うものである、と言うのが聖書の考えなのかもしれません。勿論どちらがいい・悪いと言うようなものではありません。聖書には記述されていませんが、マッテヤは使徒の務めを忠実に果たしていたことでしょう。また、マッテヤはその後エチオピアに布教に赴き、石打ちにされ、十字架に掛けられ、その上、首を切られて殉教した、との言い伝えもあるそうです。
 マッテヤに限らず、使徒に数えられながらも聖書に余り記述が見られない多くの使徒たち。確かに『使徒』と呼ばれるには条件があるようですが、主のために働くには称号は必要ありません。主の働き人であるとはこう言うことなのだよ、と教えられているような思いです。反省・・・。
 マッテヤの名には『ヤハウエの賜物』との意味があるそうです。


                                                                                                                                                       
司祭 アントニオ 影山博美

 



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使徒聖ピリポ


  主イエスの最初の使徒でありながら、共観福音書からはほとんどピリポについての記述はありません。何故か後発の聖ヨハネ福音書には、ピリポの人となりの様子がうかがえる内容が四ヶ所ほど見受けられます。聖ピリポについて聖書大辞典を開けると以下のように記述されています。
ギリシャ語でフィリッポス「馬を愛する者」の意味があります。二世紀の終わりまでピリポは伝道者ピリポと同一視されていました。この同一視観はアレキサンドリアのクレメント(AD190年)等によって論じられていたようです。すなわちピリポに関する独立した記事がほとんどなかったからと推測されます。ヨハネ伝からピリポについて学んでいきましょう。
 ピリポはベッサイダの町(現ヨルダンのガリラヤ湖の北東8キロに位置する湖畔の町です。)の出身です。当時この町は不信仰に満ちて、しばしば主イエスに叱責されていました。主イエスは弟子たちとともにヘロデや群集をさけ、この地に身を置いたとも言われています。
 ピリポがナタナエルに出会った時、次のような会話をしています。

―「わたしたちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人でヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言ったのでフィリポは「来て見なさい」と言った。―

ピリポの主イエスに対する確信が、第三者に「有無」を言わせない力となって迫ってきます。これはその前の記述に現れます。

―ピリポはイエスに出会って「私に従いなさい」と直接言われた数少ない使徒です。―

筆頭使徒であるペテロにしても又今のナタナエルにしても、必ず仲介を通して主イエスの弟子になっていることを見ればすごいと思うのです。主イエスの直感でピリポは指名を受けました。
ここで私個人の信仰経歴になりますが、私の洗礼名はピリポをいただいています。中学一年生の時、札幌キリスト教会で仲間五人(一人は京都教区の松本正俊司祭)と受けました。実は当日私は洗礼堅信を受ける予定のメンバーではありませんでした。たまたま予定されていた一人が取りやめたため、一つ席が空いてしまいました。礼拝堂の後ろにすわっていたのですが、司祭(林稔司祭)と目が合った瞬間、突然「健蔵君、前に来なさい。」と声をかけられました。まさに有無を言わせず洗礼堅信に与ってしまったのです。洗礼名もその場でピリポとつけられてしまいました。後からピリポの記事を読むわけですが、主イエスからお叱りを受ける場合「ピリポ、こんなに長い間いっしょにいるのに、私がわかっていないのか」と言われます。とてもさびしく悲しい想いにかりたてられます。私はあなたを心から信じているのにあなたは私をわかっていない。「長いつきあいなのに頼むよ、健蔵君」と言われたような気がします。
今は亡き林司祭ご夫妻に今の今までお世話をかけたのは、やはりピリポの人生と重なってきます。最初の出会いの確信から終わりに至る時の信仰のブレ、ピリポの姿に垣間見られるように、年を重ねることで信仰の達人者になれるとは限りません。むしろ人生のツケというか負の部分が表面化し、死を迎えるその時まで、主イエスの「私を信じる者は私が行なう業を行い、もっと大きな業を行うようになる」という言葉に突き動かされていくのです。ゆれる心の重荷がありつつもそれを恥とせず、ピリポが生き抜いた大変な時代に思いを馳せ、今を生きていかねばならないのでしょう。
今も昔もキリスト者であることは、時には逃げ出したくもなり、時にはがむしゃらに従いつつということの連続です。感謝と喜びのうちに明日がありますように。


                                                                           
司祭 ピリポ 越山健蔵
 



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使徒聖バルナバ


 バルナバとは一体どんな人物なのか。この問いに対する答えは、使徒言行録に書いてあります。使徒言行録4章36節、37節には次のように記されます。「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―『慰めの子』という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」
 この文章から解るように、バルナバ(慰めの子)とは、云わばニックネームで、本名はヨセフ。キプロス島生まれのユダヤ人で、所有していた畑を売却して、その代金を教会にささげたのであります。また、バルナバはヨハネ、マルコの叔父であり、パウロと共に異邦人伝道に出掛けた時に、助手としてヨハネ、マルコを連れて行きました。3人は伝道の為、キプロス島に向け船出し(使徒言行録13章)、バルイエスという魔術師と対決して、彼を打ち負かしました。その結果、地方総督セルギウス・パウルスという人物が入信しました。彼らのキプロス伝道はこのような成果を収めたのですが、ヨハネ、マルコだけが途中でエルサレムに帰ってしまったのであります。(理由は不明)
 このことが原因で、後日パウロとバルナバが第2回の伝道旅行に出発する際、ヨハネ、マルコも連れて行きたいと主張するバルナバと、以前伝道旅行の途中で勝手に帰ってしまったような者は連れて行かないと主張するパウロとの間に、激論が展開されました。その結果パウロとバルナバとは別行動を取るようになり、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ行き、パウロはシラスと共にシリア、キリキアに向け旅立ったのであります(使徒言行録15章36節以下にこの間の事情が記されます)。この後、バルナバの名前は聖書から消えてその後の消息は不明であります。
 話は前後しますが、パウロがダマスコ途上にて、キリスト様のみ声を聞いて劇的な回心を成し遂げ、エルサレムへ行って弟子たちの仲間に加わろうとした時、弟子たちは誰もパウロを信用せず、相手にしなかった為、バルナバは親切にパウロを使徒たちの所へ案内して行きました。そこでバルナバはダマスコ途上のパウロの回心の次第を説明し、パウロを弟子たちの仲間に加えてくれるように頼んだに違いありません。このバルナバの親切のお蔭で、パウロは使徒たちとの自由な交わりが出来るようになりました。(使徒言行録9章36節以下)困っている人の為に親身になって世話をするバルナバの人柄が良く表れている出来事です。
 また、クラウデイウス帝のときに起こった大飢饉の際には、弟子たちから寄せられた救援の品々をたずさえて、バルナバとパウロとがエルサレム教会へ向かったのであります。
 異邦人改宗者にも割礼を受けさせるべきだと主張する者たちが出現した時には、問題を解決する為にバルナバはパウロや他の数名の者たちとエルサレムに上り、使徒たちの意見を聴き、妥当な結論を得ることが出来て、異邦人伝道の障害を取り除いたのでありました。
 バルナバの生涯と人柄から学ぶべきメッセージは、親切さと優しさを持ちながら、時には毅然として困難に立ち向かう勇気も発揮しましょうということです。ちなみに、私の知っている限り、バルナバの洗礼名をいただく方々は皆、親切で立派な人たちばかりです。また、バルナバの記念日は6月11日です。


                                                                                                                                                      
司祭 コルネリオ 斎藤雄一 



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使徒聖ヨハネ


  洗礼のおりにつけられるクリスチャン・ネームにヨハネとつけられた男子は、おそらく一番多いのではと思われます。ただヨハネと言うだけで、福音記者なのか施洗者なのか、はっきりしない方も、また多いのでは。私もただヨハネなのだが、自分では確かめることなく今日まできていますが、多分、福音記者(使徒)ヨハネだと思っています。
では福音記者(使徒)ヨハネという聖人について、その人となりを簡単に記すと(公会の祝祭日参照)、記念日は12月27日に記されています。
新約聖書のヨハネ伝福音書はこの使徒聖ヨハネが書いたと言われ、近年その説を支持する学者も増えてきました。最後の晩餐のとき、彼は主の胸に寄りかかり、十字架上の主から聖母を托されエルサレムの自宅にともなって行きました。伝説によれば彼は聖母の死後、エルサレムを去り、エペソで伝道しました。ドミシアヌス帝の迫害のときローマに護送され、ラテン門の前で煮え立つ油壺に入れられたが害を受けず、パトモス島に流されました。のちに、エペソに帰って紀元101年頃までに生きていたと言います。
晩年の説教のとき『若き者よ、互いに相愛せよ』と繰り返して教えたと伝えられています。
降誕後二日目にこの使徒を記念するのは、彼が清い生涯をもって主をあかししたからであると。
ヨハネとは『神の賜物』の意。女性名にはヨハンナ、ジェーン、ジーン等があります。
以上が簡単な人となりの紹介でありますが、彼の福音書の中での特殊性を考えてみると、次のように要約できるのではないかと思います。
他の福音書で説かれる伝承の教えではなく、長らく小アジアで宣教した彼独自の教え
であります。つまり、キリストを中心とし、さらにキリストを通じて父なる神と人間への愛を教えている点であります。
では具体的にはどんなことが私たちにたいしてのメッセージなのでしょうか。
それはヨハネ福音書の始め「初めに言があった。…」より全体を貫く三つの主題です。一つはみ言葉の受肉。二つ目は人々の拒絶。そして最後は信仰告白。そしてその頂点がトマスの物語とされています。トマスの心が開かれるのは、十字架の中に無限の愛があり、復活したイエスの中に、永遠の生命があるということを体験した時に、懐疑から信頼へ、そして絶望から希望へと転換したのです。
つまり、イエスを直接見ることのできない私たちに、イエスが私たちの救いであるという事実を確信させるものとなったのです。
 また、復活節第三主日の福音書に記されているガリラヤ湖畔でのお話。聖ペテロを通して人間は弱く、醜いもの、過ちや罪を避けられる人間は一人もいない。人間の素晴らしさは、過ちや罪を直視してゆるしを願い、そこから立ち上がることにあります。過ちを直視することです。
ペテロの弱さも強さもすべてを知っているイエスの愛とあわれみの上に、ペテロは再生するのです。
私たちの教会の活動は、弱い人間の真ん中に立って、その弱さを担い、ゆるし、支える復活されたイエスの愛と力強さの体験から始まっていったことを忘れてはならないのです。ヨハネという人となりを見ても他の使徒たちの人となりを見ても、今日の私たちには手のとどかない考え方と行動力をもっていると思われるが、その百分の一でも近付く勇気が与えられるよう祈る毎日です。


                                                                                                                                                              司祭 ヨハネ 佐藤真実
 




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使徒聖ヤコブ(アルファイの子、小ヤコブ)


 

  聖書にはヤコブの名を持つ人物が数多く記されています。まずは旧約聖書創世記に登場するアブラハムの孫でイスラエル十二部族の父ヤコブです。「イスラエル」の名を拝領し、偉大な信仰の祖として尊敬を受けています。次に十二使徒の一人でヨハネの兄弟ゼベダイの子ヤコブの名前を挙げたいと思います。「雷の子(ボアネルゲ)」との異名を持ち、主イエスから召命を受けた経緯が詳細に記され、主イエス変容の目撃者ともなります。また、主の復活の証人としてコリントの信徒への手紙T15章にその名が記されていますが、最期はヘロデ王の手にかかり、剣で殺されました(使徒言行録12章2節)。次に主イエスの兄弟ヤコブです。
聖霊降臨後の教会で指導的な立場におかれ、特にエルサレムで行なわれた使徒会議における演説の詳細が使徒言行録15章に記され、また「ヤコブの手紙」の執筆者として伝えられています。そして、4人目のヤコブはイスカリオテではない方の使徒ユダの父の名前として十二使徒のリストの中に記されています。
いよいよ本題のアルファイの子ヤコブですが、このヤコブは主イエスの十二使徒の一人でありながら、伺い知ることのできる記述は新約聖書のなかにも僅かしかありません。また、ゼベダイの子ヤコブと同じ名前であったゆえに、小ヤコブとも呼ばれています。その名が最初に出てくるのは主イエスが十二使徒を任命されたときで、マタイの次にその名が記されています。そして、次の登場は、主イエスが十字架刑に処されたとき、遠くから見守っていた婦人たちの中に「小ヤコブとヨセの母マリア」がいたと記されているところで(マルコ福音書15章40節)、最後は、使徒言行録1章13節の主イエスが死んでよみがえり天に昇られた後に集まっていた使徒たちの名前のリストの中です。ここに名前が記されるということは、大変重いことであったと考えられます。
さて以上のように小ヤコブについては未知の部分が多いのですが、かえって詳細に伝えられた使徒たちよりもイメージが広がってもきます。特に主の十字架の際に、他の弟子たちのほとんどが逃亡するという事態の中で、捕らえられる危険を冒してもあのゴルゴタに近づき、主の十字架の苦しみと死を見届けた使徒として記録されたことに着目したいと思います。小ヤコブが主の十字架の「苦しみと死」の証人となり、その後教会の中で主の受難と死の出来事が非常に詳しく伝えられたという事実について、小ヤコブの存在が大きな影響を与えたのではないかと考えても否定できないでしょう。主イエスの復活の証には、主イエスが確かに死んだという証も重要だったと考えられますし、使徒信経にも「十字架につけられ、死んで」という言葉が明記されました。ところで、苦しみを忘れないことが、大変つらいことを私たちも知っています。できれば忘れてしまいたいと思うのが人間です。小ヤコブにとって主の苦しみと死を目撃し、使徒であったゆえに、その出来事を脳裏から消すことなく、伝えなくてはならぬという使命があったとすれば、如何なものだったでしょうか。教会も多くの痛みや苦しみを背負う中、そこにこそ注がれる恵みによって成長し、理不尽なこととも思われますが、中には小ヤコブのような役割を与えられる人があるかもしれません。思い巡らすことの多くない使徒小ヤコブですが、神が様々な役割を多くの人々に与えながら、私たちのもとまでこの福音が伝えられていることを改めて知り、感謝の念が湧き出てまいります。ちなみに、小ヤコブの聖日は聖ピリポとともに5月1日に守られています。


                                                                                                                                                                 
司祭 ヤコブ 林 国秀




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 使徒聖ペテロ


使徒のうち一人の人物像を検証せよ」という課題に対応するなら、ペテロが最も手っ取り早いでしょう。なにしろ、ペテロの言葉や行動が何度も福音書の中にちりばめられています。更に、最近の聖書学によるとマルコの福音書の構成において、聖ペテロの目撃者としての役割を強く裏付ける証拠が掘り起こされています。これを念頭においてペテロの言行にここで迫ってみましょう。
 すべての始まりに(後のペテロである)シモンという船の持ち主がおり、当時としてはそれなりに裕福な方にあたるでしょう。しかし、この福音書で描かれるシモンは説明もなくただ一途にそれまでの生き方を捨てて、イエスに従った、となっています。理由が書かれないのは「その後の出来事に目を向けよ」ということでしょうか。なるほど、その後の出来事は「目を見張るようなもの」と表現するにはまだまだ何かが足りないようなものばかりです。その中に、イエス様の権威が何度も示されていくのです。
シモンは間もなくイエスの使徒の一人になり、同時に新しい愛称「岩やん」という意味のペテロを、名として主イエスからいただくのです。
ペテロやヨハネがイエス様に召されて、すべてを捨ててこの召し出しに従ったのはすでに触れましたが、すべてを捨てることはマルコ書に描かれるペテロの歩みでとても重要なテーマになっています。なお、ひたすら神に従う姿はいろんな宗教でよく見かけるパターンですが、ペテロのいつもしゃべり出してしまう性急な性質は、このありきたりの宗教家のイメージとは対照的です。このペテロがいきなりイエス様について偉大な信仰告白をします。マルコ書では最も簡潔な形(「あなたはキリストです」)になっていますが、イエス様が迫りつつあるエルサレムでの死を予告すると、「十字架?!滅相もございません!」とストップをかけようとします。これを受けて、イエス様はペテロなど自分に従う者すべてに対して、自分を捨てて十字架を背負う必要性を命じるのです。弟子となった者らにさらに深い意味で自分を捨てることを促しています。その後、金持ちの男がなかなか裕福な生活から「足を洗う」ことができないくだりで、ペテロは弟子たちを代表するように「私たちはすべてを捨ててあなたに従いました」とアピールします。これに答えて、イエス様は福音のために多くを捨てた者に天から多くの報いを約束します。
しかし、このときのペテロにまだ捨て切れていないものもあったのです。最後の晩餐でペテロが「私だけは絶対見捨てません」と主張する。しかし、イエス様が予言したように鶏が二度鳴くまで、イエス様が連行される、自分も危険になり、という条件設定の中で自分を捨てることができず、主をものの見事に見捨てました。自分の決心のほどが熾烈に試されて、もろくも崩れたのです。
しかし、ペテロの物語は感謝すべきことにここで終わりません。ペテロは復活した主と出会うように呼ばれ、その後に聖霊の降臨と教会の立ち上げ、癒しなどの驚くべき業、更に異邦人たちが教会に最初に招かれるときの器となります。イエス様の十字架の働きと聖霊の働きがあって、ペテロが大胆に神の業を成し遂げられたと思うのです。ペテロの福音の中核に使徒たちの無能さ、イエス様の偉大な力、自分を捨てること、そして何よりも十字架が基盤として主張しているようです。これを忠実に宣言しながら、ペテロは最後まで主の業を行い、教会に貢献したと言えましょう。


                                                                                                              聖職候補生 ジョン・ストーゼンバック 




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使徒聖ユダ(聖タダイ)

 
 
ベレー帽をかぶり、画家を装った男が言葉巧みに女性をだまし、次々と殺害するという猟奇的事件が日本を震撼させたことがありました。
犯罪史に残るO・K事件です.理不尽なことに、事件の被害は、犯人が逮捕された後も同姓同名、同姓、同名の人にまで「いじめ」と言う形で及び、遂に自殺者まで出す事態となり、大きな社会問題となりました。法的に改名は簡単なことではありませんが、この時ばかりは比較的簡単に認められたというのも、事態の深刻さを物語っています。
 キリスト教史、と言うよりも人類史で「ユダ」というとまず思い浮かべるのが「裏切り者」というイメージでしょう。戦前のスパイ事件に連座したとして逮捕された方が、「日本のユダ」などという汚名を着せられたこともありました。ユダという名は部族名であり、國の名前にも使われたこともあるのですが、どうも未だにイメージが悪いようです。福音書でもルカには「ヤコブの子ユダ」ヨハネには「イスカリオテでない方のユダ」と区別され、マタイとマルコには別名である「タダイ」と記されています。聖公会祈祷書の祝日規定の中には堂々?と「使徒聖ユダ」と書かれていますが、一般的には「あのユダをお祀りするの?」と驚かれたりします。新約中の「ユダの手紙」も、「あのユダの手紙ですか?」という質問は後を絶ちません。時代を超えた「汚名」となってしまったユダですが、ユダヤ人の中ではそれほど珍しい名前と言うことではないようで、初代教会の中では名前がユダだからと言うことで、何か不都合があったと言うことはないようです。
 しかし、後に西方教会では「裏切り者」ユダとの混同を避けるために、意図的に軽視されたようであり、洗礼名にも用いられることのない「忘れられた聖人」と呼ばれていました。私もまだ洗礼名yuダの名を頂いている方にはお会いしたことはありません。また、なぜか聖ユダは「敗北者の守護聖人」であり、米国シカゴ警察の守護聖人でもあります。
ところで、当の本人はどのようなでしょうか。どうも私が心配するほどは「裏切り者・背教者ユダ」と同じ名前のキリストの弟子である、と言うことを気にしてはいなかったのではないかと思います。また、私たちには分からない、もう一人のユダへの思いもあったかも知れません。弟子たちの中にも、驚くほどもう一人のユダに対する批判の声は見あたりません。
 新約中にあまり登場することのない聖ユダですが、ヨハネの福音の中で「弟子たちに現すように、世に自分を現さないのはなぜか」とイエス様に質問しています。(14章22節)それに対して「私を愛する人は、私の言葉を守る」という答えが与えられています。聖霊降臨の後、使徒とされた者たちはそれぞれの働きに出て行きましたが、ユダは伝承によるとバルトロマイと一緒にアルメニアに宣教し、最後はシモンと共にペルシャで殉教したと伝えられています。そのため、10月28日は使徒聖シモン・使徒聖ユダ日として祝われるようになったのです。決して目立つ存在ではありませんが「私を愛する人は、私の言葉を守る」と言う主の言葉に、最後まで忠実に従ったのでしょう。その遺骸はローマに運ばれ、現在サンピエトロ寺院がある場所に葬られたという伝説があるのも、彼の純朴な主への忠実さ故だったように思います。ユダと言う名も祝福された名なのです。


                                                                                                          司祭 ステパノ 涌井康福




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イスカリオテのユダ  


 この『あけぼの』紙上で「十二使徒に学ぶ」シリーズが続いているのを見ながら、「最後にイスカリオテのユダを書きたい」とうっかり言ってしまいました。何か特別にユダに関する新奇な考察が出来るというのではありません。もっと身近なこととして、私にはイスカリオテのユダに関するちょっと大切な個人的な記憶があったのです。私事になることをお許しいただきたいと思います。
                                   *   *   *
 神学校を卒業して後、私は約七年間を執事として働きました。「終身執事であろう」「執事職の大切さを回復するべきだ」という考えがあったのです。早く司祭になって聖餐式を司式しないと困ると言われたり、司祭試験に受からないので執事のままなの?と聞かれたりしましたが、そのたびにいや執事職が大事なんだと、
私も多少意地になっていた気もします(ちなみに司祭になっても主教になっても、執事でもあるのだ、執事職の上に司祭職、主教職を着るのだという理解には、わたしは神学的・実践的に反対です)。
 そのようなある時、勤務していた教会に主教巡回があり、当時の教区主教が説教をしました。「ユダは自分で決めようとした。ペテロたちは自分で決めることをせず(出来ず)、しかし復活の主に出会うことになった」というような趣旨であったと思います。ある意味ではユダの「裏切り」にも匹敵する、一番大事なときに主を否認するという大きな過ちを犯しながら、ペテロは自分の運命を自分では決めません(決められません)。優柔不断、無責任とさえ言えます。そのペトロを主は赦し、用いられるのです。その点、ユダの方がよほど人間的には「真面目」です。真面目にイエスに従おうとしたでしょう。しかし理解出来なくなった時、自分の決断である行動を起こします(聖書はそのことを「サタンが入った」と表現します)。そして自分の行為の恐ろしさに気がつくと再び自分で決断して、自分の人生に自分で答えを出してしまいます。責任をとったとも言えるでしょう。
 当時の主教の説教が、傍に座った頑固な若い執事に向けられたものなのかどうかは分りません。しかし私には、自分のこととして聞こえてきました。執事職の大切さを思う気持ちは変わりませんが、自分で決めるのは止めよう、周囲の思いに出来るだけ委ねようと感じ始めたのです。
 難しい問題ではあります。自己決断や自己責任は大事なことです。若い人の歌の歌詞でも「自分で決めた道を歩む」ことの素晴らしさが謳われます。ただ優柔不断であろう、無責任に、人の言うなりになろうと言いたいのでは勿論ありません。しかし「自分で答を出してしまう」真面目さこそ、イスカリオテのユダの、使徒としての問題点であったのではないかと、私は今でも思っています。誰かに相談もしなかったのでしょう。そして私自身が何かを考え、行おうとするとき、これは単に自分の信念とか主義主張となっていないだろうかと、未熟ながら思い返してみるのです。
                                                                                 *   *   *
 「十二使徒」についてのシリーズが終るようですが、「使徒」とは誰か、どのような人々なのかという問いは終わっていません。「私は使徒ではないか」というパウロの主張もあれば、復活の主に最初に出会ったマグダラのマリアはじめ女性たちのこともあります。そしてその最初の人々の使命を引き継いでいる私たち教会が、どのように「使徒的教会」であれるのか、これも根本的な問いかけです。


                                                              主教 ヨハネ 加藤博道 




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使徒聖パウロ  


  シリーズ「十二使徒に学ぶ」も今回がいよいよ最終回。そんな大切な紙面をいただけることに感謝し、また「十二使徒」ではないパウロでシリーズを終える意義も思い巡らしています。異邦人伝道という召命に生きたパウロの働きによってキリスト教が世界規模の宗教に広がったのみならず、教会はその後も、歴史の節目節目、激動の時代に、教会のあるべき姿と向かうべき方向を見つめ直すにあたって、パウロの福音理解を大きな拠りどころとしてきました。そんな私たちキリスト教会にとって大切な存在であるパウロも「実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われていたことを思うと何とも安心します。
熱心なユダヤ教徒であったパウロは、キリスト者を迫害するためダマスコへ向かう途上、イエスと「出会い」劇的な回心をし、迫害者から一転キリストの福音の熱心な伝道者となりました。その後伝道者パウロが遭遇した幾多の困難と迫害は枚挙にいとまもなく、またその宣教内容はこの上なく豊かなものですが、ここではただ人間パウロの一側面にスポットを当てることに留らざるを得ません。
それまで教会の迫害者であったパウロが回心したと言っても人々の疑念がそう簡単に晴れるはずはなく、またイエスの直弟子でないことでその使徒としての正統性も疑われ、ユダヤ人キリスト者からは最後まで疎まれていました。若き日にステファノの殺害に加担したことは当然エルサレム教会の人々にとっては許し難いことと思われていたでしょうし、パウロ自身にとっても消し去ることのできない傷となったことでしょう。加えて当時の社会にあっては神の宣教者としての働きを妨げるいくつかの肉体的な障碍もまた抱え持っていました。目が不自由であったと言われていますし、また突然に発作が起きる病気にも苦しめられました。キリストの福音を伝えようというそのパウロ自身が、当時サタンの使いとも言われた病を抱えていることが伝道にとってどんなに妨げになったかということは想像に難くありません。パウロはこのことを悲しみ嘆き、このトゲを取り去ってほしいと繰り返し熱心に主に祈りました。そのパウロに主から与えられた言葉が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Uコリント12:9)でした。
脛に消えることのない傷を持ち、イエスの弟子としての権威もなく、どうにもならない病を抱えるパウロが、キリストの福音の宣教者として立ち続けることができたのは、まさにこの「そのままの姿で良いのだ」という恵みの言葉に拠る以外にはあり得なかったでしょう。自分にはどうにもならない事柄、自分にはマイナスとしか思えない弱さと傷を通して働くキリストの福音の奥義、その豊かさと力強さがこの時パウロの腹に落ちたのではないかと私には思えるのです。
誇るべき何物もなく、罪と弱さに沈むしかないような自分が、神の恵みによって、赦され、慰められ、生かされる、そして召されてイエス・キリストの使徒として遣わされる。これに勝る人生の内容、人生の喜びはあるでしょうか。神の恵みと憐れに拠ってのみ宣教の務めに遣わされる。そこにこそ尽きることのない喜びと希望の源がある。その意味での使徒職を誇ったパウロの使徒としての歩み、その苦悩と喜びは、人間としての弱さを抱え持つ私たちをいつも励まし続けてくれるのです。


                                                                                                                                                 
 司祭 パウロ 矢萩栄司

 



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