主教室より

主教メッセージ

2015年 イースターメッセージ「闇の中で出会う復活の秘義」

レンブラント  主のご復活を祝う礼拝は、聖土曜日の日没から真夜中にかけて行なわれ、「入信の式」(洗礼・堅信・初陪餐)もその中で行なわれ、夜明けを迎えるのが古来の教会の実践であったことは、近年比較的知られてきました。復活ろうそくの新しい火の祝福をはじめ、暗闇の中で、「キリストの光」を祝う礼拝を行う教会も少なくないと思います。但し、実際に(いわゆる)土曜日の夜に集まり、また翌日の日曜日の(いわゆる)イースター礼拝に集まることは、信徒の方も高齢化した中、都市部でなければなかなか難しいというのも現実で、悩むところです。一方でクリスマス・イブがこれ程までに教会生活や社会にまで浸透したことを思えば、イースターの祝い方ももう少し考えられてもよいのでしょう。ある「先進的?」なアメリカの教会では、聖土曜日夜から明け方までの礼拝を行い、いわゆる日曜日には教会全体でピクニックに行くとまで聞いたことがあります。あるいは聖土曜日の日没から夜明けまでの礼拝は、「今まさに起こったキリストのご復活の秘義・神秘に触れる礼拝」で、日曜日の午前中の礼拝は「すでに起こったキリストのご復活」をみんなで喜び祝う礼拝―翌朝になって知らせを聞いた弟子たちのように―であるという、多少苦しい説明も聞いたことがあります。

 

 

確かに聖土曜日の日没から始まり、真夜中を経て、明け方まで祈られる礼拝は、「まだ夜が明けきらない」「朝ごく早い時間」(マルコ16章2節)、実際にはまだ暗さが残っている中での礼拝です。日曜日の午前中の礼拝は、すっかり夜が明けて明るくなった、いわば青空のもとでの礼拝です。

わたしたちが主のご復活を祝うという時、そのどちらのイメージがふさわしいのでしょうか。すっかり晴れ渡った明るさこそ、主のご復活にふさわしいと感じる方もあるでしょう。「イースターおめでとうございます!」という言葉が似合います。

 

 

しかし、わたしにはまだ暗い中で、何かまだはっきりとわからない、畏怖すべきことが起こり始めていると感じる感覚も、イースターのものであるように思えます。マルコ福音書の16章末尾が「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と終わっているように。

 

 

東日本大震災から四度目のイースターを迎えます。あの状況の中で、どのように「ご復活」「死者のよみがえり」を語るのか、困惑したことを覚えていますし、それは今も変わっていません。何かが解決し、明るい希望をはっきりと持てたことが復活なのだろうか、そう思うと、とても語る言葉がみつからなくなります。

 

 

「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは。目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」とはロマ書におけるパウロの言葉です(第8章)。

 

 

まだ夜の明けきらぬ、薄明かりの中で、不安と共に起こりつつある神のなされる業、秘義(神秘・奥義)におののきながら触れていくようなイースターの祝いもあるのだと思います。

 

主教 ヨハネ 加藤 博道