主教室より

主教メッセージ

2017年 イースターメッセージ「『すでに』と『いまだ』―復活の道を歩む―」

「すでに」と「いまだ」等という言葉は、神学校で、少なくともかつてはよく耳にし、また言葉にしたものです。あまり最近言われないのでしょうか?

 
「わたしたちはすでに救われている」という信仰と、しかし「いまだ未完成の途上を歩んでいる」という両面を、やはりわたしは大事に思っています。わたしは神学の勉強を始める時に―つまり何も分かっていない時に―たまたま最初に手に取った神学的書物が「終末論」だったので、とくに思いがあるのかも知れません。そこでは「すでに」と「いまだ」ということが話題となっています。

 
『テモテへの手紙Ⅱ』の2章で、「復活はもう起こった」と言っているヒメナイとフィレトをパウロは批判しています。「自分はすでに、完全な復活の体になった」と言っているわけです。しかし現実には自分の中にも破れはあり、またこの世界では多くの人が困難な状態に置かれながら呻いています。「すでに」だけを強調することは自己満足、現実無視となっていきます。

 
しかし一方で、「いまだ」だけを強調するならば、わたしたちは疲れ果てていくと思います。「まだ駄目だ」「これでは駄目だ」と。これは決して批判的な意味ではありませんが、日本のオリンピック選手等の試合の後のインタビューを聞いていると「まだまだ自分は駄目だ。もっと頑張る」という調子が目立ちます。凄い成績を挙げているのに、です。偉いな~と思いますし、本当にそう思っているのだと思います。調べた訳ではありませんが、海外の選手であれば、「自分はベストを尽くした!良かった」くらい言うのではないか。そんなことを思いながら、日本人は真面目だなあと思うのです。

 
しかし「いまだ」途上の状態ではあるけれども、同時にすでにキリストの復活の命の中に、喜びの中に招かれ、歩み出している、それがわたしたちの信仰、教会であると思います。パウロが言うように「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(『ローマの信徒への手紙』第8章)、また「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(『コリントの信徒への手紙Ⅰ』第13章)、そういう希望の中をわたしたちは招かれながら、歩んでいくのです。

 
聖公会ではあまり使いませんが、カトリック教会では教会のある一定の会議のことを「シノドス」と呼びます。語源はギリシャ語で「スン」(共に)「ホドス」(道)で、道を共にするのが教会の会議だと聞いたことがあります。

 
東日本大震災の後の日本聖公会の「いっしょに歩こう!プロジェクト」も思えばずいぶん良い命名だったのだと思います。もちろん問題はわたしたちが本当にそのように歩めたかでありましょう。そしてそのプロジェクト名は既成事実ではなく、祈りだったのだと思います。

 
今も、これからも、キリストの道を共に歩む、産みの苦しみもあるだろうということの中に、キリスト教の希望を見たいと思います。

主教 ヨハネ 加藤博道