教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2019年10月号

巻頭言「敵意という隔ての壁を取り壊す方=イエス」

 

主の平和が皆さんと共にありますように。

 

 

近頃、私は耳が遠くなって不自由しています。「えっえっ」と聞き返す場面が多くなって迷惑な話です。という訳で、「障害」という言葉を調べますと、「障害」と書くようになったのは1947年制定の当用漢字表からでした。戦前は「障碍=障礙」と表記しました。「碍=礙」の意味は「さしつかえる」で、「何かことを行うときにさしつかえる」ということです。「碍」は「礙」の簡略形で、「人が顧みて立ち止まり、凝視する形」を意味します。人生や社会が進んで行こうとするとき「何か」があり災いをもたらしていますが、その何かの前で人は立ち止まり、じーっと凝視して見る、のが「障碍」の本来の意味です。従って「障碍」には深い考察が内在しており、人にとって大切なものを伝えている漢字なのです。

 

「害」とは、ものごとを傷つける漢字なので、他に対して危害を加えるとなり、「障害」には偏見の目が隠れています。役に立つ・立たない、優勢・劣勢等の見方を生じさせる訳です。簡単に二者に分ける、分裂・分断させるのです。旧優生保護法や、らい予防法は著しき人権侵害、人間の尊厳を踏みにじるもの、差別を助長するものでした。今日ではこれらの法律の誤りが正され、一応反省とお詫びがなされました。

 

私は、「ひかりおもちゃ図書館」でノーマライゼーションやスペシャルオリンピックスに接して喜びを覚えました。仙台基督教会2階で開く、みやぎ青少年トータルサポートセンター主催自己表現コンサートで、青年たちの活き活きした姿に励まされています。7月の参議院選挙で重度の障碍をお持ちの方2名が当選し、早速バリアフリー化が実行され国会に変化を起こしています。

 

 

私たちは、意図せず分断社会に組み込まれてしまっています。ですから、私たちは神の国実現に進もうとしているときに、「さしつかえているのは何か」をじっくりと黙想するのです。その際、わたしたちに与えられているのは「キリストの十字架」です。「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊された(エフェソ2:14)」十字架のキリストが、わたしたちに今立ちはだかっている壁の正体を明らかにします。私たちが自身で作り上げてしまっているかもしれない壁の前で、作り上げていること自体の誤りの赦しを乞うとき、和解が始まるでしょう。和解は、十字架を通して確かになされるのですから、そこに私たちの希望もあります。和解の道は決して平坦ではありませんが、キリストによって一つの霊に結び合わされることにおいて、平和へと歩んでいけます(エフェソ2:15~18)。私はそう信じています。

 

 

イエスは、人々と共に食事を取ることにおいて繋がり→救いをもたらしました。あなたが食事に招く人たちは、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たち、弱っている人たち、傷ついている人たち」です。小さい行い、わずかな光かもしれませんが、そこに恵みが確かにあって、そこから分断を乗り越える和解が始まり、平和へ通じるものと信じています。

 

皆さんに神様の御祝福がありますように。アーメン

 

 

司祭 フランシス 長谷川 清純(仙台基督教会牧師)

 

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