東日本大震災被災者支援プロジェクト

説教

東日本大震災10周年記念の祈り(盛岡聖公会)

「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」

コリントの信徒への手紙2第12章10節

 

 

東日本大震災からもう10周年となりました。心から震災による犠牲者に哀悼の意を表し、被災者を苦難を覚え心から主のみ守りをお祈り申し上げます。

 

 

私の手元に震災から2年後の被災の状況の記録があります。福島、宮城、岩手の3県で、亡くなられたかたは1万5854人、行方不明者が3155人、仮設住宅などに暮らす人は26万4000人、また、東京電力福島第1原子力発電所事故により福島県から県外に避難している人はおよそ16万人となっています。

 

一方で10年目の今年、亡くなられた方、行方不明の方々の数はその性質上大きな変化はありませんが、仮設住宅で生活をされている方々はさすがにいらっしゃらなくなり、それでも岩手県では昨年末にようやく釜石市での最後の方が仮設住宅から出られたという報道がありました。また、東京電力福島第1原子力発電所に伴う避難者、福島県からの故郷を追われる生活を強いられている方々がはいまだおよそ43,000人(福島県HP調べ)もいらっしゃることを決して忘れてはならないと思います。

 

冒頭で「もう10年」ということを申し上げましたが、震災からの時間経過の感じ方は、一人ひとりに貴重な人生があり、思い出があり、家族あるの同様に、それぞれに違いますし、今日の日を迎える思いや感じ方もそれぞれ違うと思います。

 

思い返せば、3/11の経験は私たちの想像を超える自然の力がもたらす脅威、そして地震や津波という自然の力によって起こる災害、原子力発電所事故がもたらした放射能の恐怖等、どれもこれも「これで世も終わり」と思わせられる出来事でありました。宗教学者の山折哲雄(母堂が花巻出身)は、ジャーナリストとの対談で、宗教者あるいは宗教団体によるボランティアについて、「阪神淡路大震災(1995年)、東日本大震災の両方で一生懸命やっていても一般のボランティアと同じレベルで、宗教者の言葉が現代の人々に届きにくくなっている中、このような時にこそ、しっかりした言葉も発して欲しい」というふうに語っています。私たちもこの言葉を受け止め、この10年の節目を機に、私たち教会が歩んだ道を振り返り、特に日本聖公会が主体となって行なった「いっしょに歩こう!プロジェクト」の活動についても、今後の日本聖公会のボランティアの在り方という点からその活動について振り返り、検証されることも必要なのではないかと思います。

 

 

そして、今日は東日本大震災10周年の日に当たり、冒頭拝読いたしました聖書のみ言葉に思いを寄せたいと思います。ここでパウロは人間の弱さということについて語っています。確かに人間は弱い者と私も思いますし、強いように見えるものほどポキンと折れることがあるものです。強いように見えても、心が追い付かないこともあります。強くあるのも大事ですが、むしろ人間の弱さを認めることが必要ではないかと思います。これが東日本大震災で私自身が心底味わった思いです。

 

そして人間の弱さにもかかわらず自分は今なお生かされてあります。そしてパウロは弱いときにこそ強いのだと逆説的に自分の強さを語っています。とても不思議です。弱いときにこそ強いとは、どうすれば言うことができるのでしょうか。それは、弱さのなかにあっても、その弱さが何かによってあるいは誰かによって支えられていることや、弱さを知っていてくださるかたがおられるということに気づくことにこそあると思います。パウロは「弱いときにこそ強いからです」と言いましたが、この言葉の直前で次のように言っています。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 すなわち、弱さのなかにあっても、キリストの力がわたしの内にあるので、再び生き、立ちあがることができる、パウロはそのことにより自分は強くあれるというのです。

 

 

神さまは、私たちの叫びや祈りを聞いてくださり、全能であられる方であると同時に、悲しみのどん底もご存知で、私たちが味わう苦しみをはるかに超えた苦しみをもご存知である方でいらっしゃいます。このことは主イエスが十字架にかかられ死なれた事実を通して、聖書のなかの随所に示されているところです。

 

教会が信じていることは、主イエスは十字架にかけられ、死なれて、3日目に甦られたということです。これがわたしたちの信仰です。そしてわたしたちもその主から甦りの命をいただき復活の力をいただいています。

 

わたしたちは、本当に弱い存在であると思います。東日本大震災から私はそのことを知り、傷ついた葦、くすぶる灯心のような存在でることを思いました。けれども、そのようなわたしたちの叫びや祈りを、神さまは聞いてくださり、その叫びに応えて、今も御子イエス様をわたしたちとともにおらせ、十字架の死をもってわたしたちの苦悩を担い、分かち合われようとしてくださり、さらに、甦りの命さえを惜しまず与えようとしてくださいます。その神様の愛により、私たちが味わう苦しみや痛みも分かち合われることによってやわらげられ、癒されてまいります。どのような困難のなかにあっても、主を信頼し、主に拠り頼み、弱さのなかに働く復活の主のみ力に生かされて、これからも祈り続け歩んでまいりたいと願います。祈ることによって、この出来事が風化されず、忘れられることなく覚え続けられてまいりますことを望みます。

 

 

盛岡聖公会牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

(2021年3月11日 盛岡聖公会にて)

司祭 ヤコブ 林 国秀