東日本大震災被災者支援プロジェクト

説教

東日本大震災4周年記念聖餐式説教

「わたしは、あなたがたをみなしごにしておかない。」 

               
 沖縄教区主教 主教 ダビデ 上原 榮正

東日本大震災4周年記念聖餐式

 

 昨年10月末、沖縄教区の聖職、信徒数名で、福島の郡山聖ペテロ聖パウロ教会に寄せていただきました。その時、越山健蔵司祭と「原発と放射能に関する特別問題プロジェクト」を担当しておられます池住圭さんが、私たちを無人の町に、案内してくださいました。その車中で、池住さんが放射能の線量検知器で、車内の放射線量を計って見せて下さいました。車に乗っていて、目的地に近づくにつれ、放射線量がどんどんと高くなっていきました。私は正直、不安になりました。この中で生活をされている皆さま、怖くないのか、恐ろしくはないのか、本当に大変な思いをしておられることを、実感しました。

 お連れいただいた無人の町は、海浜近くの漁村でした。無人のはずが、ときどき大きな声が聞こえました。越山司祭の説明では、放射能の除染作業が行われているとのことでした。津波や地震で倒壊した家もありましたが、町全体としては家があり、車もあり、街灯がつき、一見すれば、普段よく見かける街並みでした。ただ一つ違うのは、家には光もなく、人影もなく、猫や犬の声もせず、話し声も聞こえないという、異常な状況でした。事故や事件で、町が無人となるような映画がありますが、これは世界の話ではなく、現実の出来事だと思うと、海風の寒さにより寒さを感じました。

 沖縄のように遠く離れていますと、震災の問題と原発の問題の大きな違いに気づかない所があります。地震、津波による被災者とその地域の人々は、復興に向けて歩みを始めることが出来ていても、原発事故による被災者の皆さまは復興も、元の生活に戻ることも、遠い将来のことになっていて、そこから発生している様々な問題を知らない方もおられます。

 私は、「いのちの川」5号の越山司祭の言葉が、深く心に残っています。「もはや原発問題は人権問題です。人が普通に生きる権利を奪っています。花を植えたい、畑で野菜を育てたい。猫を飼いたい。孫を呼びたい。子どもをおもいっきり外で遊ばせたい。・・・当たり前の日常に手が届かないのです。」読んでいて、涙が出てきました。それは、沖縄でも日常生活が奪われ、失われていることと重なったからです。何の変哲もない生活が、すごく重要、でもそのことに気づかないでいます。人は無くしてみて、愚かにも気づきます。

 私は遠く離れて暮らしていても、東北のことは自分の問題としなくてはならないと感じています。何故なら、特に原発の問題は、沖縄の米軍基地問題と似かよっているからです。

 よく他府県の方が、沖縄には米軍基地があるから、多くの政府援助や補助金が落ちて良いね、と、仰います。原発のある町や村でも、同じようなことがあると思います。でも、米軍基地も原発も、誰も自分の所にあって欲しいとは思っていないと思います。力がなく弱い所、多くの国民から目が届きにくく、自分たちとは関係がない、関わりがないと、思われている所に、原発も、基地も置かれていきます。そして、基地や原発があれば、生活や暮らしが豊かになる、楽になる、と踊らされて、誘致が行われます。反対する人たちには、お金や法律で縛り、あるいは脅し、小さな村や町に、置いているのが現実だと思っています。

 生活のために、家族のためにと、容認している人々と、家族のため、生活のために、命のために反対をしている人々が、原発でも米軍基地でも存在します。そこで起きていることは、地域を二分しての住民同士の争いや敵対です。政府は、わざと分裂を起こさせ、自分たちの施策を進めやすくします。家族の中でも、地域でも、社会にも、分断が起こっています。地域の人々が感じることは孤立感、悲壮感、誰も助け手がいないという孤独感です。

 今日の福音書(ヨハネ14:15~20、25~31)は、イエスさまの告別説教の一部で聖霊を与える、約束の箇所です。イエスさまは、イエスさまを愛し、従う人は、イエスさまのみ言葉を守り、掟を守る。そんな人々と、イエスさまが父なる神さまと一緒にいるように、いつもいっしょにいるようにする。そのために、イエスさまは、父なる神さまが、弁護者を送られるようにお願いします。と聖霊の派遣を約束します。

イエスさまは、ご自分が十字架刑でこの世を去ると、弟子たちがみなし子のように、孤独になり、悲しみに陥り、自殺するのではないかと心配されます。私たちにとって、特に親しい人、家族との別れは、不安や恐れを呼び起こします。イエスさまに特に親しく、信頼されていたとも言われながら、イエスさまを裏切り、弟子たちからも離れたイスカリオテのユダは、自殺しました。

イエスさまは弟子たちにいつでも一緒にいるようになるため聖霊を送る約束をします。聖霊は、真理の霊、弁護者、パラクレートスと呼ばれ、この世の悪からイエスさまに従う弟子たちを守り助けます。聖霊は、どこか遠い所ではなく、弟子たちのただ中に、私たちの中に来られます。イエスさまを信じる人々の体を聖なる宮としてお住みになり、いつもイエスさまが共におられるという安心と平和を与えます。孤独や不安、恐れの中にいる人々に勇気、力、励ましを与えます。聖霊は不安、恐れに打ち勝つ平安、平和を与えます。その聖霊を、イエスさまは弟子たちに送られると約束しました。

 イエスさまは、「私の平和」という言葉を使います。聖餐式の時の「主の平和」です。イエスさまが与える平和は、この世が与える平和とは異なると、仰います。イエスさまの平和は、真の平和です。思い煩い、不安、恐れから解放する平和です。自分の力ではなく、神さまを信頼し、イエスさまを信頼し、全てを委ねる時に与えられる平和です。

 私たちは、いつも多くのことで、思い煩っています。将来のためにお金が必要だと考えます。身の安全や社会の秩序のためには警察が必要、国の安全のためには、軍隊が必要だと言います。病気になれば、病院も必要です。暮らしのためには電気も、だから原発も必要だとなります。周囲にあるのは、すべて必要なものです。しかし、あれこれと考えれば考えるほど、私たちは、不安や恐れに捕らわれていくばかりです。

 でも、世界が神さまの支配される神の国となり、平和になり、誰もが平等で、食べて、住むことが出来、行きたい学校に行き、自分のなりたい職に就き働き、必要なものが与えられるなら、お金は必要でしょうか。世界が神さまの支配の下に置かれ、犯罪がなくなり、うそがなくなれば、裁判所も警察も必要ありません。神さまの国には、人種も国籍も、国境も戦争も、軍隊も必要ありません。

 現実には、今は軍隊も裁判所も、警察も必要とする国や社会です。私たちの間に対立や争いがあります。震災から復興への考え方、原発の有無、米軍基地や自衛隊についても考えが違います。同じ震災被災者でも、避難できる人、できない人、避難した人、避難先の住民、避難せず、留まり生活している人たちなど様々です。みんな考え方、歩む方向、立場が違います。そのため、対話をしない、交わりがないなどと、分裂へと向いがちです。

 この世界は分離、分別、分断でコントロールされ、支配されています。自分の敵か味方かでレッテルを張り、個別化、孤立化を図ります。分裂は、社会では争い、紛争、戦争の種となります。個人については、不安や恐れを招き、孤独、悲壮感、孤立感を生み出し、自殺の原因になります。分裂や分断からは恐れや不安以外何も生まれません。

 イエスさまは「心を騒がせるな。おびえるな。」と語ります。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」述べ、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と仰いました。

 私たちの中に、イエスさまが送られた聖霊なる神さまが宿っておられます。私たちの中に働かれる聖霊なる神さまは、真理の霊であり、私たちを一致へと導きます。神さまを信じる信仰の一致、神さまを愛し、神さまから愛されているという愛の一致です。一致から平和が生まれます。イエスさまが与えようとする平和、真の平和です。その平和が、思い煩い、不安、恐れから解放します。自分の力ではなく、神さまを、イエスさまを信頼し、全てを委ねる時に与えられる平和です。ですから、私たちは、分裂や孤立してはいけません。敵、味方をつくってはいけません。神さまが恵みや力を示されるのは一致し、協力し、助け合っていくときです。

 教会の力は、一致が生まれる時に現れます。人は愛し合い、互いに助け合い、支え合う時にのみ、何かを生み出す力や勇気を持ち得るのだと信じます。

 

東日本大震災4周年記念聖餐式

 原発問題も、沖縄の米軍基地問題も、短期間で終わる事柄ではありません。これからも長く続いていくことです。沖縄と東北、遠く離れてはおりますが、神さまが共に歩んでくださることを信じ、同じ神さまを信じる兄弟姉妹として、共に歩んでいきましょう。

「わたしは、あなたがたをみなしごにしておかない。」
                (ヨハネ14:18)

 

 

2015年3月11日 主教座聖堂・仙台基督教会