はじめての方へ

牧師からのメッセージ

キリスト教って外国の宗教でしょ?

わたしが教会に行き始めたころ「何で西洋の神様なんか信じるのか」と聞かれたことがあります。確かにキリスト教にはそんなイメージがあるのかもしれませんね。厳密にいうとイエス様が生まれた地はぎりぎり東洋なのですが、大きく発展したのが西洋だったからなのでしょう。それといまだに教会には入りにくいという雰囲気があることも確かでしょう。子どものころに神社仏閣の境内で遊んだ経験がある方もたくさんおられると思いますが、生活の一部にもなっているところには安心感もあります。そんな中で教会の幼稚園を卒園した、日曜学校に通っていたという方が懐かしいと訪ねて来られることがあります。わたしたちにとってもうれしいひと時です。これはもっとキリスト教会も社会に溶け込まなければならないという課題でもあります。悲しいことに宗教というと「怪しい、高額の献金を迫られるのでは?」という警戒感が付きまとうような現状もあります。宗教をかたって宗教とは言えない活動をしている団体も確かにありますので、興味はあっても足が向かないということもあるでしょう。そんな時には教会の幼稚園を出られた方などに行っても大丈夫な教会なのか聞いてみるのも良いでしょう。ネットの記事も全てが正しいわけではありませんが、明治、大正時代など古くからある教会についてはそんなに心配しなくても良いと思います。まず触れてみて自分には雰囲気が合わないなと感じたら、教会サーフィンをしてみるのも良いかもしれませんね。教会の中にいる私が言うのも変かもしれませんが、聖公会は安心して祈れる教会です。ぜひ訪問リストにお近くの聖公会を入れていただけましたら感謝です。

司祭 ステパノ 涌井 康福

教会へようこそ

「教会を訪ねてみたい」、「聖書というものを一度は手に取って読んでみたい」、「教会でお祈りしたい」と思ったことはあるけれど、教会は自分には縁遠く、敷居が高くて気軽に入れないのではと思ったことはありませんか?
教会はどなたも歓迎いたします。どうぞご遠慮無く、安心して門を叩いてみてください。教会は世界中に拡がり世界の様々な人たちが仲間となって心を一つにして礼拝し、神様に心を向けて祈り、聖歌を歌い、特別な時間を共有しています。

 

聖書に「人はパンだけで生きるものではない」という言葉があります。人間には食べ物や着る物、そしてお金も大切で必要です。でも一方で確かに人はパンだけでは満足に生きられないということにも気がついているものです。私たちは、自身の人生や健康のこと、幸福、平和、命、健康、家庭の問題など様々思い巡らしながら生きているのですが、大切なことは、心配ばかりを先取りせずに、人生という旅をしながら道を探し求めることです。教会には仲間が居り、ともに聖書の言葉に聞き、礼拝に参加し、心を一つにして祈り、自分自身を縛り付けているものから解き放たれ、真の命の尊さや人を愛すること、愛されることの大切さ確かめようとしています。教会には礼拝の他、聖書を読む会、聖歌隊などもありますので、どうぞ教会にお問い合わせください。

司祭 ヤコブ 林 国秀

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 13:13)

 

私たちは誰もが例外なく死を迎えます。
大金持ちであれ、社会的な地位を上り詰めた人であれ、世界の英雄と称えられた人であれ、古今東西、不老長寿を夢見てきた人類誰であっても、です。
にもかかわらず、どうせいつかは死ぬのだと分かっていながら、誰もが毎日を必死に生きようとしています。
怪我をしたり病気になれば、何とかして助かろうとします。災害に遭えば、当然のことながら必死になって復興しようとします。どうせ死ぬ存在なのだからそんなにがんばっても仕方がない、藻掻いてみてもくたびれ損、などとは思いません。

 

なぜでしょうか?科学万能の時代といわれ、最終的に自分に利益が返ってくる、何らかの見返りがある、最後には報われることには必死になれても、何の利益も返ってこない、何の見返りもない、自分の存在は無に帰してしまうのならできるだけ関わるのは止めよう、などと思いがちな今に生きる私たちであるのに生きようとするのです。
それは、私たちが意識しようがしまいが、あるいはそれが最終的には無に帰する―死を迎える―ことであろうが、「生きる」ことには死をも越える「意味」が包含されているからではないでしょうか。そして、死をも越える生きることの意味、それを私たちは「愛」と呼んでいるのだと思うのです。
たとえば目に見える所有物―家や財産―が一瞬にして無に帰してしまうような目に遭っても、共に支え合い、励まし合う存在が側にいれば、人は再び立ち上がることができます。逆に目に見える所有物に恵まれ、どんなに富んでいても、愛する者を失うことによって、たとえようのない喪失感に苛まれることがあります。この真実こそが、愛を分かち合うという生きることの本来の意味なのではないでしょうか。

 

私たちは今、この生きることの意味を受けとめ、精一杯毎日を過ごしているでしょうか。自分に利益をもたらしてくれるからとか、自分が心地いいからとか、楽しいからとか、そんな根拠を土台にしてしまっていないでしょうか。

 

生きることは愛すること…。この真実をしっかりと胸に刻む一人ひとりでありたいと思います。

司祭 ヨハネ 八木 正言