教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2022年1月号

巻頭言 クリスマスメッセージ 「個の物語から普遍の物語からクリスマスの出来事~」

 

 

クリスマスは今では世界中の人がお祝いをするお祭りです。しかし、世界での最初のクリスマスは極めて限定的でした。ある時代、ある特定の場所での小さな出来事でした。

 

ある時代とはいつか。それは「キリニウスがシリア州の総督であったあった時」(ルカ2:2)です。シリア州とはガリラヤ地方~サマリヤ~ユダヤまでの地域で、そこにはガリラヤ湖、ヨルダン川、死海があります。そしてイエス様がお育ちになったナザレ、お生まれになったベツレヘム、そしてイエス様の地上でのご生涯の目的地であったエルサレムもこのシリア州です。その地域を治めていたのがキリニウスという総督でした。さらにそのシリアはローマ帝国の支配下にあり、その時のローマ皇帝がアウグストゥスだったのです。

 

そして、ある場所とはどこか。それは「ユダヤのベツレヘムというダビデの町」(ルカ2:4)です。この状況の中にイエス様はお生まれになったのです。

 

 

私たちはアウグストゥス、キリニウスという名前をさほど心に留めることはないのではないでしょうか。 聖書は場所、人の名前がたくさん出てきます。カタカナですので読みづらい名前や地域がたくさん出てきて大変ですが……。

 

具体的な名前が登場するのには意味があります。それは神様のご計画は神の国を完成させること、すべての人の平和の実現にあり、そのご計画はぼんやりとしているのではなく、極めて具体的なのです。

 

イエス様の誕生も昔々あるところにイエス様がお生まれになりましたというのではなく、具体的な時代、具体的な場所が聖書に示されているのはそのためです。

 

 

個の物語がすべての人の物語(普遍的な物語)へとなっていくことを私たちは聖書を通して知ることが出来ます。きわめて個人的な出来事がいつしか多くの人の出来事になっていく。たった一人で始めたことが少しずつ紡がれて大きくなっていくことを私たちは経験したり、聞いたりしていると思います。

 

「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」(ルカ2:11)

 

極めて具体的な喜びの知らせだと思いませんか。

 

「今日」「ダビデの町」そして「あなたがたのために」救い主がお生まれになったのです。

 

最初にも申しましたが、クリスマスの出来事は小さな小さな出来事でした。貧しい羊飼いへと告げられた出来事が今や世界中の人たちが知る出来事になっていったのです。

 

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)とあります。

 

 

私たちが出来ることはそんなに多くありません。日々それぞれが生きている現場で出会う人、経験する出来事と向き合って心を込めて一生懸命生きていく。それはもしかすれば誰も知らないことが多いのかもしれません。それが時に重荷や虚しさになることもあると思います。でも安心してください。その心を込めて一生懸命生きた小さな行為はイエス様にしてくれたことなのです。私たち一人一人の物語を神様は祝福してくださっていることを信じたいと思います。クリスマスおめでとうございます。

 

 

盛岡聖公会 牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也

 

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あけぼの2021年12月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「天国の鍵とみ言葉の剣」

 

 

私の奉職する福島県にある郡山聖ペテロ聖パウロ教会は、郡山市街地の中心に位置する麓山の上に建っています。聖堂は、1932年(昭和7年)に、当時のジョン・コール・マキム司祭が尽力されて建立し、ビンステッド主教により聖別されました。鉄筋コンクリート造ゴチック様式の荘厳で神聖な趣が今も保たれ、登録有形文化財に指定されています。そして2011年の東日本大震災の際には、地震の大きな揺れに加えて、地域全体が原発事故による放射性物質の被害に見舞われ、大変な苦難を負わされました。その時、日本聖公会の取り組みの拠点となるべく、セントポール会館が建てられ活動が行なわれました。現在は、信徒会館としての機能や幼稚園関係の集会だけでなく、地域に開らかれた施設として英会話教室、学習教室、生け花教室、諸団体の会議などに用いられています。すばらしい聖堂が建てられたことや聖ペテロ、聖パウロという二人の偉大な使徒の名前が命名されたことは、先人たちの宣教伝道への意気込みとして今も受け継がれています。そして聖堂内部の聖書台の前には、その象徴となるべく高さ30cmほどの聖ペテロと聖パウロの像が並べて安置されています(写真)。

 

 

聖ペテロは、主イエスの最初の弟子となり、「あなたがたは、わたしを何者だというのか。」と主イエスから問われ、真っ先に「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をし、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ16:19)と言われました。それゆえこの像の聖ペテロも立派な鍵を抱えており、聖ペテロが教会を「守る」使徒という思いが湧いてきます。しかしその聖ペテロは、主の十字架の際、主の仲間であることを三度も否定するという罪と汚点を残してしまいます。一方聖パウロの像は、左手に剣を持ち、右手には聖書を抱え、み言葉を武器に何事をも恐れずぐんぐんと前に切り開いて進む、力強いイメージが沸き上がります。パウロの持つ剣と聖書は「霊の剣、すなわち神の言葉」(エフェソ6:17)を表し、さらにその剣は「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4:12)と証されています。しかし聖パウロは他の使徒とは異質で、回心し、主に従う以前は主の働きに加わる人々を迫害して捕らえ、殺しさえする人物だったことが包み隠さず伝えられていることを加えます。教会は、信仰や礼拝を「守る」一方で、外に向かって切り「開く」姿勢を持ちますが、聖ペテロのもつ鍵と聖パウロのもつ剣は、教会に備わるべきその二つを表しているといえます。

 

聖ペテロと聖パウロの働きが全く違う性質のようにも記しましたが、二人には前述のように人間の弱さから犯した罪を「神様に赦され、愛に包み込まれた人」という大きな共通点があります。それは復活の主との出会いの中で変えられ、その後自らも人を赦し、希望に満たされ立ち上ったという点で同じです。さらに偉大な使徒にも拘わらず人間としての弱さや負の人生も包み隠さず聖書に残したことや神様に愛された喜びを証したことが、この二人の偉大さであることに気づきます。私たち誰もが、主イエスとの出会いの中で神様に赦され、その恵みによって歩み、愛され立っている者です。私たちも懸命に信仰を守り、心を開き、捧げ、主イエスの愛の生きた証し人、その肢として教会の働きを共に強めてまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会 牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

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あけぼの2021年11月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「諸聖徒日によせて~憶えて祈る~」

 

 

秋も徐々に深まり、11月1日には「諸聖徒日」という祝日を迎えます。

 

教会が諸聖徒日を守るようになったのは、5世紀始め頃のシリアの教会で、よく知られている全ての殉教者と、全く知られていない殉教者を記念して祝ったのが、その始まりだそうです。そして後には全ての逝去者を憶えて祈るようになりました。

 

よく知られている殉教者逝去者を記念することは、それほど難しいことではないでしょう。それは丁度、自分の親族や知人の死を記念する時のように、それらの人々の痛みや苦しみ、あるいは暖かい最後の交わりの時などを思い起こすことができるからです。けれども、全く知らない人を記念することは、とても難しいと思います。しかしそれが難しいと言って、私たちが記念しないなら、私たちにとっては、それらの人々は無に等しくなってしまうでしょう。

 

父なる神様はそのようなことをお望みではないと思います。イエス様は人が無視してしまうような「これらの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言われ、私たちが知っていようといまいと、一人ひとりの人を大切にすることを望んでおられるのです。私たちが知っていようといまいと、その人の人生があり、死があるのです。その事実は空しいものではなく、私たちが考える以上にイエス様、神様にとって大切な人生なのです。そのことに私たちの想像力を、思いを巡らせることが大切なのだと思います。

 

 

2005年の夏、「聖公会国際礼拝協議会」に出席するために加藤主教様とチェコのプラハに行ったことがありました。その協議会終了後、私たちは2つの経験をしました。

 

1つは、8月6日、旧市内の聖ミクラーシュ教会で、広島の犠牲者を憶えるレクイエム・コンサートが開かれていたことです。日本から遠く離れた中欧の教会が、60年前のヒロシマの出来事、原爆犠牲者の苦しみを憶えて祈って下さる。とても感激しました。

 

もう1つは、翌日に訪れたユダヤ人町の会堂(シナゴーグ)で見た出来事です。プラハに残る6つのシナゴーグの1つに、ピンカス・シナゴーグがあります。そのシナゴーグの壁面一杯に、人の名前と生年月日が書かれていたのです。(写真)それはナチスの大量虐殺によってチェコで殺されたユダヤ人犠牲者、約7万8千人の名前だそうです。それは人々の生きていた証しであり、痛みと苦しみの記憶でもあると思いました。まさにここでも人々は「憶えて祈り続けられて」いるのです。

 

 

諸聖徒日(に近い日曜日)、私たちはそれぞれの教会で神様のもとに凱旋された方々のお名前を呼んでお祈りします。それらの方々は私たちがよく知っている人、記憶に新しい人たちであると同時に、私たちが直接には知らない多くの信仰の先達たちです。その祈りは私たちの祈りだけではなく、すでに召された方々も天上の教会でイエス様と共に私たちを憶えて祈ってくださる、共同の祈り、交わりの祈りです。この世で神様と隣人を愛して生きられた一人ひとりの人生を憶えて祈り、神様がその人々を迎え入れてくださっていることを感謝して祝う時、そこには真実の聖徒の交わりがあるのではないでしょうか。

 

 

東北教区主教 主教 ヨハネ 吉田雅人

 

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