教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2023年6月号

巻頭言 新主教メッセージ 「ご挨拶」

 

 

4月22日、公会の主教に聖別されました大きな大きなお恵みを感謝し、神さまを賛美いたします。みなさまには、ご臨証ご加祷また沢山のお祝いを賜り有り難うございました。

 

主教按手式約1ヵ月前、北海道北斗市にある厳律シトー会・灯台の聖母トラピスト大修道院で、3日間リトリートの時を過ごし、その後も私は修道士たちの祈りに支えられて立っていられると、根拠もなしに信じています。按手式では、聖公会と他教派の全国の信徒、聖職のみなさんの祈りの力で、この私が保たれているのだと強く確信させられました。これまで、聖餐式の代祷で、首座主教さまや教区主教さまのお名前を読み上げて祈ってきたように、私の名前も同じように唱えていただきますよう切にお願い致します。

 

 

さて現在、私たち日本聖公会は重大な地点に立っています。それは、宣教に関わる、伝道教区制導入による教区再編という喫緊の対応を迫られているからです。今回、東北教区が主教選出に至ったのは大きな決断でした。数少ない教役者からの選出です。それ故、各人がその後の牧会で疲労して倒れないような工夫、いわゆるチームミニストリーの確立と、信徒の奉仕をプラスするトータルミニストリーの発展が鍵を握っています。

 

東日本宣教協働区である東京教区、北関東教区、北海道教区と東北教区の4教区の協働体制の、その前段階となる北海道と東北の2教区間における宣教協働を進めなければなりません。その足がかりとしてすでに、昨年の両教区の教区会で共通の議案「東北教区・北海道教区宣教協働タスクフォース設置の件」を議決して、本年3月から動き始めています。

 

本協働体の名称は「チーム北国」といいます。チーム北国の会合開催地は1ヵ月毎に札幌と仙台を行き来することにしています。お互いの本拠地に訪ね合うのは、お互いを知るのに適しているでしょう。

 

両教区が所有してきた信仰の財産、宝、例えば幼稚園や保育園の幼児教育、キリスト教保育を実践してきていること、一個一個の教会間の距離は遠くても信仰で固く結ばれていること、長い辛い厳しい冬をやり過ごし復活の新しいいのちを待つ辛抱強さ等々沢山あります。

 

加えて、2011年の東日本大震災後は、被災者支援に両教区は人材派遣交流をして協働した実績を共有しています。もちろん全教区協力が今日まで継続しています。被災者との「いっしょに歩こう!」はいつまでも続く教区の重要な宣教の一つです。

 

過疎化の著しい東北と北海道が、持続可能な教区と教会に変革していくというこれ以上ない困難ではあるけれども、非常に歴史的な使命を私たちは神さまから委託されているのです。私は現在65歳です。チーム北国では、宣教協働区の一つの形の出現を5年後に想定しています。神さまがしつらえたかのようで、私の定年退職の年になります。それまで「私の軛(くびき)は負いやすく、私の荷は軽い」との慰めの言葉に、私は全く頼って参ります。私たちは、北海道教区と東北教区の将来のため一致・協働し祈り続けて行ければ誠に幸せです。

 

 

主よ、どうか、我と日本聖公会が行く道を守り導き、主の僕として御心にかないますように アーメン

 

 

第9代東北教区主教 主教 フランシス 長谷川 清純

 

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あけぼの2023年5月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「さあ、行こう~わたしたちのミッション 主から遣わされている一人として~」

 

 

野球の世界一を決める国別対抗試合WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に夢中になった方も多いと思います。私も無類の野球好きでありまして、WBC開催中は毎日夢中になっていました。試合前に日本代表の選手の一人が声出しをする場面があり、私は試合の内容もさることながら声出しの内容にも夢中になって聴いていました。決勝戦の日、声出しを務めたのは大谷翔平選手でした。第一声は「僕から一個だけ。憧れるのをやめましょう」でした。

 

その真意は、「決勝の対戦相手であるアメリカの選手は、野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるようなスーパースターばかりだと思う。僕らは今日超えるために、トップになるために来たので、今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう。」というものでした。

 

そして決意を込めた表情で「さ、行こう!」と選手全員を鼓舞し、この場に拍手が響きました。大谷選手の言葉によって最高のムードができました。私は大変印象的な場面として心に残りました。そして、選手たちに声出しの最後に決まっていう言葉があることに気付きました。それは「さあ、行こう」です。選手を自らも含めて送り出す最大の力強い励ましの派遣の言葉だと思いました。

 

 

教会を意味する「エクレシア」は「主によって集められた民の群れ」という意味があります。そして、宣教とは、主語は「わたし」ではなく神様であって神様が神の国の完成、つまりすべての被造物が真の平和の状態の内に生きることが出来る世界の完成のために働かれている「神の国運動」(ジーザスムーヴメント)に私たちは招かれている。そして神の国は教会という建物の中にあるのではなくこの世界にあるということを主イエスは私たちを「派遣」することで示されました。福音書でも主によって集められた弟子たちを派遣する箇所がいくつも出てきます。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(マタイ10:16)

 

これからあなたがたの人生には苦難が待ち構えているだろう。でも恐れてはいけない。私が必ずあなたと共にいると弟子たちを励まし彼らを送り出しました。その派遣の言葉はご自身にも向けられていたのだと思います。ご自身も幾度となく十字架の苦難の道を歩むことを躊躇され、苦難されている様子が福音書に記されています。

 

礼拝も主からの招きによってはじまり、「ハレルヤ、主とともに行きましょう」という派遣の言葉によって終わります。

 

エクレシアは主によって「集められ」、そして「派遣される」民の群れであることを私たちは忘れてはいけないと思います。私たちは新主教を迎えて新たな歩みを始めようとしています。私はワクワクしています。同時に、私たちがそれぞれ置かれている現実の課題や困難にしっかりと向き合い、恵みを発見していきたいと思います。私たちは神の国運動に主から招かれ、そして遣わされているのです。「さあ、行きましょう!!」

 

主とともに。

 

 

盛岡聖公会牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也

 

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あけぼの2023年4月号

巻頭言 イースターメッセージ 主の復活は全てを結び直す」

 

 

キリスト教における「復活」とは、もちろん主イエス・キリストの十字架の詩と葬り、そして復活と昇天によって完成された、人間の「罪の死」からの解放を指す言葉であり、私たちを罪から救い出し、永遠の命へと導いてくれる神様の恵みです。そしてそれは、女性たちが「恐れながらも大いに喜び~弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28:8)とあるように、人間を絶望から希望へと「復活」させてくださる恵みでもあります。

 

そんな大いなる恵みである主の復活ですが、すでに3年を過ぎた新型コロナウイルス感染症という未曾有の事態、あるいは1年前から起きているウクライナへのロシアによる軍事侵攻を目の当たりにして生きている私には、これらの恵みに加えて「全ての分断を結び直す」という復活の恵みも神様に与えられていると感じてならないのです。

 

 

世界は今現在様々な「分断」に溢れています。ウイルスは人々の顔に「マスク」という分断をもたらし、人の笑顔を見えにくくしてしまいました。またこの事態は、以前から進んでいた人々の「電脳空間」への依存を加速させ、本来人が直接出会うことで感じる温もりや喜怒哀楽といった人の心の間に「分断」を作り出し、心ない言葉の暴力を平気で世界に発信出来てしまう人間を増やしてしまいました。加えて1年前に始まってしまったウクライナ侵攻は文字通り世界を「分断」しました。

 

しかしこのような「分断」ばかりの世界にあっても、やはり希望は主イエス・キリストにこそあるとも感じられるのです。2023年の1月に久しぶりに開催できた「中高生プログラム」においては、教会に集い笑顔で未来を語り合う、子どもたちの姿を見ることが出来ました。またこの3年間、今まで通りとはいかない中でも、やはりイエス様を中心として集う日々の礼拝には信仰と祈りの輪が実現していましたし、そこにある「人と人」「人と神様」の繋がりは、確かなものとして存在していたからです。

 

 

これらのともすれば当たり前にも思えることが、今の世界で「復活」させなければならない「分断を超えて結び直すべきもの」であるのだと思います。そしてその中心にはイエス様がおられるのだと、私は確信しているのです。

 

そしてこの事実は私たちに、今のこのような世界にあっても、私たちは決して絶望することも、その必要も無いことを教えてくれます。何故ならこの未曾有の事態が広がる世界にあっても、主の復活の恵みは確かに働いているからです。確かに目に見える部分では、以前よりも後退してしまったと感じられる部分もあるかもしれません。しかし逆に言えば、私たちはイエス様が教えるように「最後まで耐え忍ぶ者」(マタイ24:13)として、今この時立ててもいるのだと思います。

 

だからこそ私たちはこの主の復活を祝うこの時に、ますます力づけられて、「今の世界に不必要な分断を無くして全てを結ぶ、神様の復活の奇跡が、確かに教会にある」ということを、少しずつでも広げていこうではありませんか。またこの4月には、新主教の按手・就任という、教区としてのまさに「新しい命」の歩みが始まろうとしているのですから。

 

 

福島聖ステパノ教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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