主教室より

主教メッセージ - 2018年の記事

2018年 イースターメッセージ「復活の主と結ばれる」

「イエス様の復活」という出来事は、誰にとってもなかなか理解しがたいことです。これは何も現代人に限ったことではなく、イエス様と共に生きた弟子たちも同様でした。では、ご復活の主との出会いとは、どのように起るのでしょうか。

 

 

クレオパの出会い

 

復活の日の夕方、クレオパという弟子ともう一人がエルサレムからエマオの村へ逃げる途中、一人の男と出会います。彼らはその男とイエス様の出来事について語り合いますが、それがイエスだとは気づきませんでした。彼らが主と出会うことが出来たのは、復活の主がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき、即ち共に聖餐の交わりに与ったとき初めて、「イエスだと分かった」とルカは報告しています。

 

 

見ないで信じられるか

 

復活の日の夕方、他の弟子たちと一緒にいなかったトマスは、自分の目で見、手で触れたもの以外は信じないと主張しました。そのトマスに対して復活のイエス様は「見ないで信じる者は幸い」と言われます。このトマスの体験は自分の目で見て確認できることだけが真実であると考えている現代人に、大きな問題を提起しているように思います。

 

私たちは、自分の目で見て確認したから信じるのでしょうか。いや、自分の目で見、声を聞いても信じることが出来ないこともある、ということを、クレオパの体験が明らかにしています。彼らが復活のイエス様を信じたのは、自分の目で見、声を聞くということとは、もう一つ次元の違う事柄でした。つまり見る・体験することと、信じることとの間には、それを結ぶもう一つ別の何かが必要です。それは一体何なのでしょうか。

 

 

体験と信仰を結ぶもの

 

クレオパは復活のイエス様の姿を見、話しを聞いたのに、イエス様とは認めることができませんでした。トマスは目で見、手で触れたもの以外は信じないと言っていたのに、復活のイエス様に会った途端、それを自分の方法で確認することなしに、「私の主、私の神よ」と告白します。

 

トマスとクレオパに起った出来事は、全く正反対のように見えて、同じ事柄なのです。一つの共通する出来事が結びつけたからこそ、彼らは信じる者にされたのです。その共通する出来事とは、イエス様が彼らに関わられたということです。トマスに対して主は、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われ、クレオパに対しては、聖餐という交わりの中に迎え入れて下さいました。イエス様は、信じないからお前は駄目だ、認めないからお前は駄目だと切り捨てることなく、彼らを受け入れて下さったのです。

 

イエス様が信じることのできない自分をも大切にし、受け入れて下さっているということが、彼らに復活の主の真実を信じ、認めさせたのです。

 

これは現代を生きる私たちにも、そしてすべての人にも体験できることです。イエス様が私たちを大切にし、受け入れて下さったことを、私たちが他者を愛し、受け入れることを通して、その人と復活の主を結びつけるのです。

 

私たちはこのために召された小さな器です。この召しにかなうよう、感謝と喜びをもって主と他者に仕える者になりたいと思います。

 

主教 ヨハネ 吉田 雅人

新主教メッセージ 「耳を傾けて聴く」

東北教区の諸教会・伝道所にあって、キリスト・イエスに結ばれている信徒・聖職の皆様へ。主のご降誕をお祝いし、新年の始まりのご挨拶を申し上げます。

私は2017年使徒聖アンデレ日に公会の主教職に按手聖別され、東北教区主教として着座いたしました、ヨハネ吉田 雅人と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

少しだけ自己紹介

 

私は1953年に兵庫県姫路市で生まれ育ちました。大学・神学校の7年間は東京でしたが、神学校卒業後は23年間、神戸教区の諸教会で牧会者として働いてきました。その後2002年から15年間、京都のウイリアムス神学館で奉仕職養成と牧会の働きに携わらせていただきました。

 

 

思いもかけないことが

 

定年までの何年かは、顔と顔が見える規模の教会で、一牧会者として信徒の方々との交わりを通して仕えたいと、心密かに願っていました。しかしそのような私の勝手な願いをはるかに超えた出来事、思いもかけないことが起こりました。
お知らせをいただいたとき、まず脳裏に浮かんだのは「自分はそのような器ではないのに」ということでした。存じあげている主教様方をみても、自分にその職務を果たす能力などないことは、よく分っているつもりです。
8月下旬には常置委員長さんがお見えになり、いろいろお話をうかがいました。ことに3回にわたって、聖職や信徒代議員、信徒有志の方々が集まり、学びと話し合いの時を持たれたことをお聞きしたとき、誰が選出されるにせよ、教区の皆様の並々ならぬ思いを、とても強く感じました。
とはいえ、「自分はその器ではない」という思いは、簡単に消えるものではありませんでした。

 

 

「・・・にすぎないと言ってはならい」

 

「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。・・・わたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。・・・わたしがあなたと共にいて・・・」(口語訳聖書 エレ1・7-8)
これは私が神学生時代に、自分は本当に聖職に召されているのかと悩んでいた時、使徒聖パウロ回心日の前夕晩祷で朗読された日課の一節です。この御言葉によって、祈ることすらできなくなっていた私は、新たな召命感をいただくことができたと思っています。この御言葉は、その後の私の人生の中で、折に触れて心に浮かんでおりました。
この度も、この御言葉が私にも与えられたと信じて、歩み出したいと思いました。

 

 

皆さんと共に歩む

 

主教職は、私にとって未知の職務です。もちろん理屈ではある程度分かっているつもりですが、それも理屈でしかありません。
主教按手式文で「あなたは仕えられるためではなく、仕えるため・・・に来られた方に従うとき」と言われ、司牧のしるしである牧杖を渡されることが、その職務を現していると思います。つまり、自らを主張する前に教区の皆さんの声に、被災地の皆さんの声に耳を傾けて聴くこと。これが最初の任務だと思います。そして東北教区の全ての教会が、イエス様に従う器として用いられるよう、皆さんと共に歩んでいきたいと思います。

主教 ヨハネ 吉田 雅人