主教室より

主教メッセージ

2016年 新年メッセージ「自分の命を救いたい と思う者は」

巻頭言写真ずいぶん以前に聞いて印象に残った話です。ですから細部は不正確かと思います。

 

 

フィリピンで一人の人が司祭になろうとした時、その必要な奨学金(援助)がアメリカの一教会から贈られてきました。やがてその人は司祭となり、自分を支援してくれた教会を訪ねたそうです。するとその教会は決して大きな資金力ある教会ではなく、本当に少数の高齢の信徒が支える小さな教会だったそうです。金額としては貨幣価値、社会状況も違うので経済大国からみれば大きな額ではないかも知れません。それでもその奨学金は「有り余る中から」ではなく、「乏しい中から」の献げものだったのです(ルカ21:4)。

 

 

また別の話。太平洋戦争後、日本のカトリック教会が空襲で崩壊した大聖堂を再建しようとしました。そうすると同じ敗戦国であるドイツの教区から多額の献金が送られてきました。やがて聖堂も立派に完成し、そのドイツの教区(司教座聖堂)にお礼に伺ったところ、その大聖堂自体は、まだ空襲の被害が残り、窓ガラスも割れていたそうです。

 

 

二つのエピソードは、たんなる美談ということではなく、教会というものの本質を教えてくれています。わたしたちは真面目な意味で、「まず自分のことをちゃんとしなければ」と考えがちです。まず自分のことをちゃんとやってから、他人の世話もしようと。しかし、それではおそらくいつまでたっても自分に満足できる日は来ず、結局最後まで自分のことで追われていくでしょう。主イエスさえ、あの十字架の上でののしられるのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)。イエスはただ黙って言われるままです。

 

 

『マタイによる福音書』に次のみ言葉があります。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(16:25~)。まことに逆説的な言葉です。通常わたしたちは、自分のことは自分で守らなければならないと必死に考えます。人のために何かをやるのは、余裕のある人のすることだとさえ思ってしまいます。しかし教会においては、この聖書の言葉は本当に当てはまるのです。自分たちの教会の建物を守り、組織を維持し存続させること、それも確かに一つの「証し」ではあるでしょう。しかしそのために教会がこれ以上内向き、「自己目的的」になってしまうならば、教会が教会である存在理由は薄れ、何よりわたしたち自身が元気をなくし、生き生きとした信仰の共同体とは見られなくなるでしょう。あえて言えば、苦しい時こそ、外に目を向ける、意識的な努力も必要と思います。少し無理をしているな、と感じるくらいでも、少しでも周囲に対して開かれた意識をもって献げていくこと、そこには教会としての生命線がかかっているとさえ思うのです。

 

自分たちの大切な教会、その働き方や「まなざし」のありかたをもう一度振り返りながら、今年もご一緒に新しい一歩を踏み出していきたいと祈ります。

主教 ヨハネ 加藤 博道

(写真:テジョン教区ボクデートン教会にて)