主教室より
主教メッセージ
2015年 新年メッセージ「窓としての教会 宿屋としての教会」
昨年宣教部が実施したアンケートへの応答を拝見すると、それぞれの教会の「良いところ」について、大変家族的、家庭的であると応えておられる方が目につきました。「そこに帰ってくると安心する、楽しい」ということは本当に素晴らしいことです。教区内のある教会で、週に一度、教会で親しい方々と会い、礼拝と昼食の後も夕方まで会話を楽しんでいる、そして元気になって帰っていく、というお話を聞いた時には大変嬉しく思いました。その教会は小さな会衆の教会ですが、大震災に関わること等にも、とても思いをもって熱心に活動されてきました。そうした家族的な良さ、温かさを活かしながら、それが少しずつ広がっていく、そんな可能性もあると思います。
わたしがかつて勤務した教会の一つは、その教区の中ではかなり小人数の教会でした。ただ立地条件だけは恵まれていました。教会委員会で「自分たちだけでは大きな働きは出来ない。でもこの立地条件の良い場所を、出来るだけ多くの人に活用してもらおう」と話し合いました。「自分たちは直接には活動できない」と決めてしまうのも問題はあるかと思いますが、ともかくその時はあえて「場所貸しミニストリー」に徹しようと考えたわけです。キリスト教の超教派の団体の会議、教区の会議や集会、オルガンコンサート、週に数回の合唱団の練習、AA(アルコール依存症から抜け出すための同志的な会合)等々、そして礼拝堂では空いている時はオルガニストの練習、もちろん教会の聖書研究会。会館が中心ですが礼拝堂も含めて、連日何かのプログラムが目白押しだったのを覚えています。その教会もその後はまた新しい方針に変わっていったでしょうし、今申し上げたことが望ましい例だと言うつもりはありませんが、多くの人が教会と接する接点を増やしてみようという試みではありました。
その教会の120周年を祝い、多くの方の祝辞をいただいた中で、立教大学の新約聖書の教授であった速水俊彦先生が「宿屋としての教会」という一文を寄せてくださいました。決まった家族だけが中に住んでいる家ではなく、いろいろな旅人が訪ねてきては、そこで荷を解き、リフレッシュして、また旅立っていく、そういう宿屋のような教会のイメージです。教会の固定的な信徒数を増やすという発想とは相いれない面がありますが、しかし素敵な考え方だと思いました。
「教会は窓」という考え方も、わたしは時々口にしてきました。外から覗くことも出来ますが、教会の中にいる人、とくに青年たちが、教会を通して世界を見る時に、世間一般とはずいぶん違う世界が見えると思います。一般のツアーで韓国に、あるいは沖縄に行くのと、教会のプログラムで行くのとでは、行くところが違います。出会う人たちが違います。まったく別の経験があります。それは大きな恵みです。アングリカン(聖公会)の良いところは、世界中にネットワークを持っているところでしょう。どうぞ、それぞれの教会が、その中にある宝を埋めてしまうのではなく、宿屋として、窓としても開いていっていただきたいと、そして新しい風が吹きますようにと、新しい年の初めに願います。