主教室より
主教メッセージ
2014年 新年メッセージ「励ますこと、祝福すること」
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(『ルカによる福音書』第22章32節)
25年以上も前、聖職志願をし、東京の神学院に学ぶことになって2年目、当時はその2年の夏の必修のプログラムとして「臨床牧会訓練」というものがありました。3週間、病院の中に居住し、聖公会、プロテスタント、カトリックのシスター等、約8名の参加者と指導者によって行われるもので、主な内容は病床の訪問と、そこでの会話記録(どんな会話を患者さんと交わしたか、相手の言葉を本当に聴けたのか、むしろ話をそらしてしまったのではないか等々)と、それに基づいたセミナーでした。まさに臨床での牧会の訓練です。そこから見えてくる自分はあまりにお粗末で、結局自分はいい加減な気持ちで神学校に入ったのではないか、自分には信仰などないのではないかと、日を追うにつれて落ち込む気持ちになっていきました。指導者からも厳しい指摘も受け、聖職志願も辞めようかと思い始めていました。そんな時、ある日のチャペルの「夕の礼拝」の聖書日課がこの個所でした。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。ふつうに考えれば、自分に信仰があるから神を信じる、祈ることが出来る、信仰があるとかないとか悩んでいたわけですが、主イエス御自身が「あなたのために、信仰がなくならないように祈った」と言われるのです。その日の実習としての説教はルーテル神学校の学生で、それも大変印象的な説教でした。もちろんこの個所の前半にある「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)と言われるような本当の危機、苦難と較べれば、わたしの召命感の悩み等、話にもならない小さなものです。しかし、その時はこの言葉に救われたのです。しかし言葉は続きます。
「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。自分の信仰が「あってよかった」「守られて良かった」で終わるのではないのです。
東日本大震災・被災地の生活、その中にある教会のことを考えれば、まだまだ「自分が立ち直ったら」とは言えない現実があろうと思います。いろいろなレベルでの困難、複雑な状況があります。しかしどこかで、わたしたちは人から祈られ、何よりも主イエスによって祈られていることを心に刻み、もしも立ち直ったなら、今度は兄弟たちを力づけたい、励ましたいと、望むのだと思います。
わたしは、教会の極めて重要な務めは「励ますこと」「祝福すること」だと思っています。しかし伝統的には「自分の信仰の正しさを守る」ことがより強調されてきた歴史もあるように思います。自分は「正しい」と思っても、それが人を励ますよりはスポイルするものであるならば、神様の喜びとはならない筈です。「祝福」ということも、何でも安易に肯定することとは思いません。本当にその人が、その人として立っていけるように願い、祈り、励まし、聖霊の後押しを祈り求めることです。どうか東北教区のこの1年が、お互いへの祝福と励ましに満ちた1年でありますように、祈り求めます。