主教室より

主教メッセージ - 2016年の記事

2016年 イースターメッセージ「雨ニモ負ケソウ 風ニモ負ケソウ考」

1面 巻頭原写真ある全国紙の一面の片隅に哲学者の鷲田清一氏の短いコラム「折々のことば」が掲載されています。鷲田氏は大阪大学の総長等もされた方ですが、2013年からは仙台の主教座聖堂の交差点を挟んだ斜め向かいにある総合文化施設メディアテ―クの館長になっておられます。そんなこともあって毎日、ちらちらと見ていたのですが。1月のある日の言葉が「雨ニモ負ケソウ風ニモ負ケソウ」でした。それは以下の内容を紹介したものでした。

 

 

盛岡在住の書家・沢村澄子さんが盛岡の公園で開催された庭園アートフェスタに牛乳パック300枚で「雨にも風にも負けない傘」を作ろうとしたところ、池の中に設置されたそれはあまりに頼りなくてどう見てもひ弱い、それで展示の時にはタイトルを「雨ニモ負ケソウ風ニモ負ケソウ」に変えられたそうです。それを見て「あら、私みたい」と笑った方もあったと。その後その傘は強風の直撃を受け倒れて「台風ニ負ケタフリ」というタイトルにさらに変わったということです(沢村澄子さんのコラム盛岡タイムス「風の筆74」より)。

 

 

「弱いことを弱い、苦しいことを苦しいと言える人は、実は強い人ではないか」と鷲田氏は書いています。

 

 

なぜこの言葉が素敵なのだろうと考えてみます。ずいぶん前ですが、アメリカの大統領が(よくあるシーンですが)ヘリコプターから降りて颯爽と手を振りながら歩いて行く時に、ちょっとよろめくと、たちまちもう体力が落ちているというような風評が立ったと聞いたことがあります。日本の政治家でもそうでしょう。答弁でも決して弱みは見せない。自分でも本当はおかしいと思っていても、強い言葉で相手を撥ね退けなければなりません。「いや、実は自分も悩んでいるんだ」等と言ったら、たちまち論敵からも味方からも攻撃されてしまうでしょう。本当はポッキリ折れそうなのに、自分は強いと必死で頑張っている様子がかえって痛々しく見えます。

 

 

「雨ニモ負ケソウ風ニモ負ケソウ」。もちろん言い方もあります。「負けそうだ・・・」と深刻な顔をして言えば、やはりそれは悲観的なのでしょう。しかし現代風の言い方をすれば、「マケソ」ですね。そこにはむしろ心の柔らかさを感じます。頑張っているけど、簡単にはいかない自分の状況を少し距離を置いて穏やかに見ているしなやかさ。ちょっと笑っているようでもあります。だから逆にあまり「負ケソウ」ではないのです。倒れても「負ケタフリ」なのかも知れません。聖書の言葉で言えば「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(コリントの信徒への手紙Ⅱ・6章)を連想します。

 

 

教会もどちらかと言うと、立派な言葉、「信仰的」な言葉が多く使われるところです。心を柔らかくして、率直に自分の姿や信仰に向き合うことから、むしろ本当の力が出てくるように思います。主のご復活の出来事も、固くなっていた一人一人の心が解きほぐれていくようなことだったのではないでしょうか。

 

主教 ヨハネ 加藤 博道

2016年 新年メッセージ「自分の命を救いたい と思う者は」

巻頭言写真ずいぶん以前に聞いて印象に残った話です。ですから細部は不正確かと思います。

 

 

フィリピンで一人の人が司祭になろうとした時、その必要な奨学金(援助)がアメリカの一教会から贈られてきました。やがてその人は司祭となり、自分を支援してくれた教会を訪ねたそうです。するとその教会は決して大きな資金力ある教会ではなく、本当に少数の高齢の信徒が支える小さな教会だったそうです。金額としては貨幣価値、社会状況も違うので経済大国からみれば大きな額ではないかも知れません。それでもその奨学金は「有り余る中から」ではなく、「乏しい中から」の献げものだったのです(ルカ21:4)。

 

 

また別の話。太平洋戦争後、日本のカトリック教会が空襲で崩壊した大聖堂を再建しようとしました。そうすると同じ敗戦国であるドイツの教区から多額の献金が送られてきました。やがて聖堂も立派に完成し、そのドイツの教区(司教座聖堂)にお礼に伺ったところ、その大聖堂自体は、まだ空襲の被害が残り、窓ガラスも割れていたそうです。

 

 

二つのエピソードは、たんなる美談ということではなく、教会というものの本質を教えてくれています。わたしたちは真面目な意味で、「まず自分のことをちゃんとしなければ」と考えがちです。まず自分のことをちゃんとやってから、他人の世話もしようと。しかし、それではおそらくいつまでたっても自分に満足できる日は来ず、結局最後まで自分のことで追われていくでしょう。主イエスさえ、あの十字架の上でののしられるのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)。イエスはただ黙って言われるままです。

 

 

『マタイによる福音書』に次のみ言葉があります。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(16:25~)。まことに逆説的な言葉です。通常わたしたちは、自分のことは自分で守らなければならないと必死に考えます。人のために何かをやるのは、余裕のある人のすることだとさえ思ってしまいます。しかし教会においては、この聖書の言葉は本当に当てはまるのです。自分たちの教会の建物を守り、組織を維持し存続させること、それも確かに一つの「証し」ではあるでしょう。しかしそのために教会がこれ以上内向き、「自己目的的」になってしまうならば、教会が教会である存在理由は薄れ、何よりわたしたち自身が元気をなくし、生き生きとした信仰の共同体とは見られなくなるでしょう。あえて言えば、苦しい時こそ、外に目を向ける、意識的な努力も必要と思います。少し無理をしているな、と感じるくらいでも、少しでも周囲に対して開かれた意識をもって献げていくこと、そこには教会としての生命線がかかっているとさえ思うのです。

 

自分たちの大切な教会、その働き方や「まなざし」のありかたをもう一度振り返りながら、今年もご一緒に新しい一歩を踏み出していきたいと祈ります。

主教 ヨハネ 加藤 博道

(写真:テジョン教区ボクデートン教会にて)