教区報

教区報「あけぼの」巻頭言

あけぼの1月号「2019年新年メッセージ」をアップしました。

あけぼの1月号、新年メッセージ「わたしにできることを献げます みんなで力を合わせて献げます」を主教室より内、主教メッセージに掲載いたしました。

下記リンクよりご覧ください。

2019年 新年メッセージ

クリスマスメッセージ「和解の王として来られたイエス・キリスト」2018年12月号

 東北教区の皆様にご挨拶申し上げます。12月より、大韓聖公会テジョン教区から移籍し、日本聖公会東北教区司祭として働くことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 神に似せて造られたはずの人の姿が、美しくではなく、むしろだんだん醜くなっているようで胸が痛みます。誤った人間の姿が、あちこちに現れているように感じます。それにもかかわらず、愛である神様は、人間の姿で私たちのもとに来てくださいました。皆さんの上に豊かな恵みと、世には平和と愛が豊かにありますように願います。

 

 神様の姿から遠くなってしまった私たちのために、神様はご自身で私たちのところに来られました。預言者アモスを通して義を、預言者ホセアを通して愛を示され、預言者エレミヤは涙を以て私たちが新たに生まれることを叫び続けたのです。洗礼者ヨハネは「悔い、改めよ。天の国は近づいた。」と叫びました。また、続けてこうも叫びました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マタイ3:1〜3)

 

 

 人と人との間に、隣人と隣人との間に、国と国との間に、憎しみと紛争がいつもあります。その憎しみのあるところに、幼子イエス・キリストは来ました。憎しみがいっぱいあるところに愛が溢れるようにするために、メシアとして私たちのところに来られたのです。

 

 人と人との間、隣人と隣人との間、国と国との間の対立と紛争は、まさに人の高慢さが生んだ競争心理からくるものです。しかし、平和の王、イエス・キリストが来られたので、いと高きところには栄光、地には平和が訪れました。正しいことにより過ちが、明るさより暗さが、真実より偽りが横行するこの世に、幼子イエス・キリストが光としていらっしゃいました。光は闇を追い出します。

 

 

 幼子イエス・キリストは仕えられるためではなく仕えるために来られたので(マタイ20:28)、私たちも人から慰められ、理解され、愛されるより、他の人々を慰め、理解し、愛さなければなりません。イエス・キリストは、この貴重な教えを十字架の上で実現するためにいらっしゃいました。

 


 和解の王として来られたイエス・キリストは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言います。許しと和解は、キリスト教の最も大切な教訓です。神様は愛の神であり、同時に許しの神です。許さなければ許されません。他人を許して、それによって自分も許しを受けて、まさに私たちが飼い葉桶で生まれ変わることに、クリスマスの本当の意味があるのでしょう。許しと和解、そして愛の幼子イエス・キリストが東北教区共同体に言われます。「私が生まれた飼い葉桶で、東北教区共同体も生まれ変わるでしょう。」

 

 

仙台聖フランシス教会 牧師
司祭 ドミニコ 李 贊煕

「『はだしのゲン』に思う癒しの原点」2018年11月号

 大館へ出張する際、途中で時間があれば道の駅で昼食を食べ、そこにあるマンガ本を読むことが楽しみになっています。ここ数回は中沢啓治作『はだしのゲン』を読んでいます。

 

 この話の舞台は原爆投下前後の広島。その広島で生きる中岡元(ゲン)という少年が主人公。父親は戦争反対者で、官憲や周りの人々から「非国民」として目をつけられ、拷問も受けています。それでも考えは変わりませんでした。そして原爆投下―。広島の街は焼け野原になり、まるで地獄の様相と化しました。火の海となり、原爆の熱線で全身を焼かれ、皮膚が垂れ下がっている人、ガラスが体中に突き刺さっている人、手足がちぎれ、目玉が飛び出し…そのような人が水を求めて歩いていました。ゲンの家族も父親・姉・弟が犠牲になりました。そして敗戦。戦争は終わりましたが、同時に人々の生きる闘いが始まっていきます。ゲンは母親と新たに生まれた弟とその闘いに立ち向かっていきます。この作品は、その闘いの中で逞しく生きるゲンの物語です。

 

 つい先日も大館へ出向く途中、昼を食べながら前回の続きを読みました。ゲンはある時、かつての仲間に出会います。その仲間はヤクザのに拾われ使いっ走りをしていました。に頼らず自分たちの力で生きて行こうと呼びかけますが、混乱した時代、自分たちのような子どもは何かに頼らざるを得ないと突っぱねられます。しかしゲンはあきらめずに働きかけていきます。その仲間に勝子という少女がいました。勝子は原爆で家族を失い、おまけに顔や体中がケロイドに覆われていました。周りの人たちも気持ち悪がって勝子を避けていました。勝子の心は荒んでいました。ゲンはそんな勝子の心を汲み取り突然、勝子の腕の袖をまくり上げケロイドを舐め回しました。舐めて舐めて舐め回しました。それがきっかけとなって勝子の心は少しずつ和らいでいきました。

 

 「ゲン、わたし、嬉しかったんだよ」

 

 

 

 今年の聖餐式聖書日課はB年。その特定8の福音書は、キリストが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという物語です。キリストはヤイロの娘の手を取って「タリタ、クムー少女よ、起きなさい」と言うと、少女は起き上がって歩き出しました。特定18の福音書では、キリストが自分の指を相手の両耳に差し入れ、さらに指に唾をつけて相手の舌に触れることで耳が聞こえるように、口が利けるようにされたという物語でした。この二つの癒しの物語で共通していることはキリストが相手に触れているということです。ゲンも勝子の腕に触れ、そして舐めるという行動に出ました。キリストの癒しの行動、そしてゲンの行動が私の中で重なり、何かに感じ入り、珍しく食が進まなくなってしまいました。勝子は自分に降りかかった苦しみ・悲しみに苛まれ心が荒んでいました。しかしその心はゲンがケロイドを舐めることで氷解していきます。心が起き上がりました。勝子は生き返ったということが出来るでしょう。

 

 

 人に寄り添うことは並大抵のことではありません。苦労知らずの私には不可能かもしれません。私にできること、それは人の苦しみ・悲しみをキリストに委ねる、祈ることかもしれません。だからこそ祈りはわたしたちの務めなのだと思います。

 

司祭 アントニオ 影山 博美(秋田聖救主教会牧師)