教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2020年1月号

巻頭言 クリスマスメッセージ「インマヌエル」

 

 

クリスマスおめでとうございます。

 

偉大なお方の死後、そのお方の一生を振り返る時、その誕生も物語られるでしょう。ご復活されたお方の誕生は、さぞかし輝かしい瞬間として歴史に刻まれたでしょうか?マタイ伝とルカ伝の記録は、あまりにも普通と言えば普通、ごくありふれた庶民の場合と同じと言えば同じご様子でした。

しかしながら、その日常の中に神様の御業が現れてきます。その神の御業を御業として、きちっと受け止められるかどうかで、状況は180度違う方向、結果へと誘われていきます。エリザベトは敏感に感じ取り恵みを分かち合い、羊飼いたちは自分の目で確かめようと行動し、3人の博士たちは後々の事態を暗示する品々を献上し、マリアとヨセフはこの出来事を心深くに留め続けて、その後の人生を営んでいくことになりました。

 

 

「インマヌエル」これが御子の存在意義を表現する、伝統ある言葉です。その意味は「神は、我々とともにおられる」です。御子と神がごいっしょされておられるように、神は私たち人類とごいっしょしておられるのです。ここに、神の愛が現れました。

 

神は人類の罪を赦すために、神の独り子をこの世にお遣わしになられました。その独り子の名をイエスとされました。その時まで神を見た者は一人もいませんでした。神を知らない世界ではなくて、神を知る世界を到来させるために、御子を現されたのです。その御子を人類が目の当たりにして、神を信じる為です。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたが私を知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ伝14:6-7)

 

 

御子に神の愛が詰まってます。12弟子たちは傍近くでこの方を見、お話を聞き、語り合い、触れ合ったので、神の愛に出会ったのです。その弟子たちが後世に語り伝えた物語が、福音書に満載されているのです。ですから、私たちは聖書特に福音書を通して、御子イエスに出会うのです。出会いによって、神の愛に触れる訳です。また、私たちが経験する出来事の中でも神と出会っていきます。その出会いの中でやはり神の愛を感じ取っていくのです。

 

私たちは、それ故イエスの言動を注意深く、信仰深く読み取って、イエスのお心を探ります。イエスの人間理解、人としての生き方、考え方、神に対する信頼が分かりますと、それを私の生き方としたいと強く求めるようになります。そうして、イエスの思考が私の思考になり、イエスの生き方が私の生き方になり、イエスの行いが私の行いになりますようにと願うようになります。イエスの生き様を捉えて、そのまま私の生き様になるようにイエスに倣いたいと切に思うようになります。聖パウロが言うキリストをこの身に着たいのです。キリストという服を常時着用していたいのです。この服には「愛」「大事に」「大切に」というプリントが付いています。この服を着て互いに大事にし合えば平和を呼び寄せ、平和へと歩を進めていけます。

 

クリスマスのお恵みが皆様一同にありますように。
アーメン

 

 

司祭 フランシス 長谷川清純(仙台基督教会牧師)

 

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あけぼの2019年12月号

巻頭言「ウェルカム・ミニストリー」

 

 

かつて英国のある主教座聖堂の礼拝に参加した時、ちょうどその日に「ウェルカム・ミニストリー」を担う信徒の人たちの祝福式(礼拝とパーティ)があり、大変印象的に思いました。日本の現状に一番近い働きでいえば「アッシャー」というところです。ただもう少し活動の範囲は広いものでした。海外の教会、とくに大聖堂に行かれた方は、何か目立つしるし(腕章等)をつけて、観光客のガイドをしている親切な、そして大体は年配の男女を見られたことがあると思いますが、あの方たちのことと思ってよいと思います。まさに「教会にようこそ」という役割です。もちろんボランティアです。

 

「教会を開く」ということが、今東北教区の大事なテーマになっていますが、私は例えばですが、教会の扉を、ともかく毎日開けておく、誰でも入れるようにしておくことだけが「開かれた教会」ではないと感じています。逝去された野村潔司祭がかつてカナダに留学され、その帰国の報告を伺ったことがあります。カナダで、もし教会の扉を常時開けていたら、礼拝堂はたちまちホームレスの人たちの住居になると言われていました。そして教会も扉を開けているのであれば、それを前提に、教会に社会福祉士のような人を配置して前向きに対応していると(すべての教会ではないでしょう)。
いきなり、私たちもそうすべきだと言う積りはありません。しかし私見では、毎日ただ扉を開けておくよりも、例えば「火曜・木曜・土曜は午前10時から午後4時まで教会の玄関は開いています。そして信徒のボランティアがお待ちしています」と言えた方が、余程よくはないかと思うのです。もちろん誰もいない礼拝堂で一人祈りたい方もあるでしょう。扉が開いていることが無意味だとは決して申しません。しかし扉は開いているけど誰もいません、「今日は牧師がいないので、何もお話は出来ません、聞けません」というのはあまり「開いている」感じはしないのです。週に一度でも、交代で信徒のボランティアが教会の中に居られたら。人が来ない時は何か教会の事務(誕生日カードや逝去記念カードの宛名書きとか)をされたらよいのではないか(すでにそうされている教会もあるでしょう)。ここまで話をしたら「いや~、それは信徒には無理です」と言われたことがありました。牧師がいないと駄目だというわけです。確かに専門的なカウンセリングのような応対は誰でも出来るわけではないでしょう。しかし専門的な話ではなく、この教会はこういう所ですよ、わたしもこんな感じで教会に来ているんですよ~、と普通の会話でいいと思います。それ以上の特別な悩み、課題があれば、それこそ牧師はいついついますからその時に、と訪問予約をしてもいいのではないでしょうか。

 

こういうことが出来る教会と、もはや人数的にもとても無理だという教会とがあるだろうことは承知しています。

 

私の申し上げたいことは「教会が開いている」ということの一つの側面として、物理的な扉だけではなく、信徒の方たちが教会について、自分の信仰について、もう少し積極的に語る、ということもあるのではないか、ということです。

 

主教 ヨハネ 加藤博道(磯山聖ヨハネ教会牧師)

 

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あけぼの2019年11月号

巻頭言「365日が祭り」

 

少し季節外れの話題なのですが、先日あるインターネット番組を視聴していた時に、ある社会学者の方が、日本の「お祭り」について面白いことを述べていました。そこでは「日本のお祭りとは、元来自然信仰から始まっている訳ですが、何故そのようなお祭りが連綿と続いているのかというと、お祭りという行為によって人間が正気を保つためであるから。」とし、人間は古代から現代に至るまで、常に神の領域(自然)を侵し続け、破壊し続けている、自然と神としつつもそれを壊している現実がある。そんな自分たちの現実を一度意識してしまうと、その罪悪感と葛藤から人間は正気を保てなくなり、ついには刹那的に「自分さえ(人間さえ)良ければ」という志向に囚われ暴走を始めてしまう。そこにストップを掛けるために年に一度祭りを行い、自分たちのすべてを献げる気持ちで神々を祀る、その瞬間だけはすべてを神に委ねてその裁きすら受け入れる覚悟をもってお祭りをする。そうすることで自分たちの罪悪や葛藤と折り合いをつけて、正気を保って生活を続けることが出来るようになるという考察でした。

 

 

なかなか面白い考察だなと思う一方、その「お祭り」の性質は、私たちとは正反対でもあるとも感じました。私たちキリスト者がいう所の「祭り」とは、祈祷書の聖餐式中で「み子が再び来られるまでこの祭りを行います。」とあるように、聖餐式を代表とする日々の祈りであり、神の国を実現するための献身、宣教そのものであると私は思います。それは日曜日だけでも52(53)回あり、さらに日々の祈りや聖書を開く時、宣教者として生きる生活を考えれば、それは一年365日の時を占めるものである。そしてその「祭り」は、むしろ自分たちの罪深さを「忘れるため」ではなく、「記憶し続けること」、そして自身を神の国のために「献げ出し続けること」を私たちに求めます。また「折が良くても悪くても励みなさい」(テモテⅡ 4:2)と教えられている通り、私たちの「祭り」という名の祈りと宣教は、自分の都合で止めるものでも、止めていいものではなく、まさに「年に一度」ではなく「常に」であり、そこにある働きも正反対であるのです。

 

 

しかしそうなると、ただでさえ弱い私たち人間はその突きつけられる罪、担わされた任務、献げることへの躊躇で潰れてしまいそうになる。でもそこに私たちの「祭り」と日本の「お祭り」の決定的な違いとして、ともに歩くイエス様がいることが見えてくるのです。人間では耐えられない罪も、不可能な献身も任務も、共にイエス様が担ってくださると知るときに、私たちが続ける「祭り」は一時の贖罪でも重荷でもなく、喜びを伴う救いと希望の発露であることが分かります。

 

あるいはそれは、分かりやすく「楽になる」といった救いとは違うかもしれません。しかしこの「祭り」を献げ続けることは、真の救いになる、人にとっても世界にとってもその場しのぎではない救いであり、前進となるでしょう。現在のw足したいを取り巻く状況は決して易しいものではありませんが、この「祭り」を一人一人が「献げ続ける」ことで、イエス様と共にある私たちの道は開けていくと信じています。

 

司祭 パウロ 渡部 拓(福島聖ステパノ教会副牧師)

 

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