東日本大震災被災者支援プロジェクト

説教

東日本大震災10周年記念の祈り(主教座聖堂 仙台基督教会)

10年前の今日、起った出来事は、まさに激甚としか言いようのない激しさと驚きに満ちていました。自然の力の前に、人間の営み、文明が築き上げたと思っていたものが、いかに無力であるかを思い知らされた日となりました。同時に、危機的状況の中にあって、それに立ち向かう人々の責任感や勇気、また善意が示された時でもありました。

 

 

あの日を境に、多くの人の人生が変わりました。多くの人が愛する家族や親しい人、仕事や故郷を失いました。直接の被災者ではない方たちでも、あの日から自分の人生は変わったと感じ、生き方を変えてこられた方々も少なくありません。それぞれの人にとっての10年、どのような思いや状況で過ごしてこられたかは、とても簡単に言葉にすることは出来ません。

 

東北教区の中でも、この10周年の日をどのように迎えたらよいのか、以前から少しずつ話し合っていました。大震災発生後に出会った方々や、被災地と東北教区を訪問してくださった海外聖公会の方々、日本聖公会の各教区の方々をお招きしての記念礼拝や、大きな災害に向き合った時に、教会が担えること、その使命は何なのか、各教区の経験を分かち合う協議会のようなものを開催してはどうかとも話し合っていました。

 

しかし今、新型コロナウイルス感染症流行の中で、そのようなことは出来なくなりました。当初、東北教区としての記念礼拝も、津波によって3人の信徒の方―イサク三宅實さん、スザンナ三宅よしみさん、グレース中曽順子さん―が犠牲となり、教会も解体され他の場所に移転した磯山聖ヨハネ教会の元の礼拝堂跡地、「祈りの庭」で行う予定でしたが、やはり人の移動を極力減らす観点からそれも取り止めることとなりました。

 

それでも今日の礼拝は、東北教区の7つの教会で同時にささげられ、日本各地の他の場所でも、祈りの時が持たれていることと思います。海外からも、祈りの時を持つという知らせがいくつも届いています。

 

 

大勢の方とご一緒に集まっての礼拝が出来ないことは残念なのですが、実は今、わたしの中に、これで良かったのかも知れないという思いが起こってきています。もしかしたら、大勢の方を迎えた大礼拝や集会が終わった時に、何か「一段落したような、一区切りついたような」気持ちや雰囲気がどこか芽生えてしまうかも知れません。そういう意味では、今日、10周年とは言っても、限定され分散された形での礼拝とならざるを得ないことを通して、わたしたちは、今も「決して何かが終わったわけではない」ということを、改めて確認させられているのではないだろうか。そんな風に思い始めています。

 

 

東日本大震災の被災地は、地域の回復に向けて懸命の努力を続けてこられました。10年間のその労苦が報われますように、少しでも生活の落ち着きが取り戻されますようにと祈ります。しかし同時に本当の回復への道のりはまだ途上にあり、目に見えない傷ついた部分、癒されていないことは多々あるでしょう。復興という作業の必要な土台ではあるでしょうが、被災した沿岸部の多くは高くかさ上げされて、もとの生活のあった街並みや風景を想像することは困難です。世界最悪レベルと言われる原子力発電所の爆発事故によっては、いまだに事故処理そのものが収束せず、将来的な展望も見えない中、帰還困難の状態に置かれた人々の避難生活が今このときも続いています。被災地では高齢化もあり、心と体の不調を訴える人は増え続けていると言われます。そういう状況の中でわたしたちは今日、10年目の日を迎えています。

 

東日本大震災だけでなく、その後日本の各地には台風、暴風雨、洪水、土砂災害と大きな災害が続き、世界を見れば、やはり多くの自然災害と共に、政治的な対立、紛争地域における殺戮や憎悪、難民の置かれた苦難の状況があります。
問題がすっきり解決して、何の心配もないというような状況は、地球上、おそらくどこにも見当たらないのだと、思わざるを得ません。

 

 

聖公会の新約聖書学者として活躍された速水敏彦司祭の『新約聖書 わたしのアングル』という本があります。1985年の本ですが、当時大変話題になりました。その中でお若い時の速水先生ご自身が抱いていた「救い」のイメージとして、「救いとは、この苦しみや悩みの生活の中からすくいあげられて、苦しみや悩みのない世界、つまり天国とか極楽といったような所へ連れていかれることだと考えていた」という部分があります。先程読まれた福音書の中の主イエスの言葉「重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」に関係しての話です。「休ませてあげよう」という言葉は、とても心に優しく響いてきます。そしてこれはかなり日本人の持つ「救いのイメージ」ではないかと、少なくともご自分はそうだったと言われています。

 

しかし、後に先生は『共同訳聖書』翻訳の仕事を始められ、聖書を初めてドイツ語に訳した宗教改革者のルターが、この「休ませてあげよう」の部分を「元気づける」「元気づけてあげる」と訳していることに気がつかれます。そしていろいろ調べていく中で、キリスト教の救いは、悩みの中からすくいあげられて、苦しみのない世界に連れていかれることではなく、力を与えられて、もう一度その重荷を負って生きていけるようにされること、だと考えるようになられます。人間には休息-よく休むこと―が必要ですが、しかしそれは「もう一度力を回復して立ち上がる」ことと切り離すことは出来ないでしょう。

 

「病人を立ち上がらせる」「起き上がらせる」という言葉が新約聖書の中には多く見られ、究極的には神がイエスを死者の中から「立ち上がらせた」、復活の出来事がキリスト教信仰の中心であると書かれています。

 

もう一度生きる力を与えられて、再び立ち上がっていく、「復活」ということがキリスト教信仰の中心である、ということを深く思い、この大震災によって傷ついたすべての人の上に、また地域の上にご復活の主の御力を祈りたいと思います。

 

同時に、その「ご復活の主の御力」はどこか遠くにあるものではなく、わたしたちの日常の思いと行いの中で働いているものではないかと思うのです。

 

 

以前、テレビでスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼のドギュメンタリ―番組を放送していました。いろいろな国から来た巡礼者たちが、大きな重い荷物を背負いながら歩いていく、その姿を追った番組でした。

 

巡礼者の中に、一人の中国系の若い女性がいました。巡礼は初めての経験のようでした。小柄な女性なのですが、何よりも背負っている自分の背中よりも大きなリュックサックのバランスが悪く、背中から大きく離れて、まるで首を後ろに引っ張られるようにして、本当に苦しそうに歩いていました。とても目的地にまで辿り着けるとは思えませんでした。その時、数人の他の巡礼者が声をかけあい、「まず、あの人の荷物をなんとかしよう」と言って近づき、荷物を降ろさせ、荷物の詰め方のバランスを整え、リュックサックのひもの長さを調整して、背中にぴったりとあって、背負いやすいようにしたのです。その後、彼女は見違えるように元気に歩き出し、目的地の大聖堂にも到着することが出来ました。彼女を助けた人たちは、この場合は彼女の荷物を減らしたり、代わりに背負ってあげたわけではありません。しかし「まず、あの人を、あの人の荷物をなんとかしよう」と、お互いに声を掛け合い、必要な手助けをしました。自分も自分の重い荷物を背負って歩く旅ではあっても、他の巡礼者の状況にも無関心ではありませんでした。番組の中でも短い小さな出来事でしたが、印象的な一場面でした。そしてその女性が気力を回復していったのも、実際に荷物が背負いやすくなったということと同時に、自分が一人ではないということに気づいて、力づけられたことにもよるのではないか、そう思えるのです。

 

 

「我々に課せられたものの中で何が過酷であろうとも、愛はそれを軽くする」とは、古代の神学者アウグスティヌスの言葉です。「まず、あの人の荷物をなんとかしよう」という言葉とそこでなされた行為は、決して大袈裟なものではありませんが、やはり愛に通じるものではないかと思います。思えば主イエスの軛は「互いに愛し合え」という、新しい掟であるでしょう。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との新しい掟です。「わたしがあなたがたを力づけたように、あなたがたも互いに力づけあいなさい」と、少し言葉をかえさせていただいても、聖書の心から離れてはいないと思えるのですが、いかがでしょうか。

 

 

東日本大震災をはじめ、様々な被災地にある方々の労苦を思います。どうか必要な休息が与えられますように。そしてまたそれぞれの仕方で、再び立ち上がっていく力が与えられますように。わたしたちの教会もその歩みを共にするものでありますように。あまりに複雑で見通しがきかないと思える世界の中にあっても、お互いの担っている状況への関心を失わない、感受性と必要な行動力とが与えられますように。

 

そして東日本大震災をはじめ、多くの災害の中で地上の生涯を終えて、天の主のみもとにある方々が、今は本当にすべての重荷を下ろし、永遠の平安のうちに安らぐことが出来ますように。お祈りいたします。父と子と聖霊の御名によって、アーメン

 

 

主教 ヨハネ 加藤 博道

 

(2021年3月11日 主教座聖堂 仙台基督教会にて)

主教 ヨハネ 加藤 博道