東日本大震災被災者支援プロジェクト

説教

東日本大震災1周年記念礼拝説教(新地町にて)

昨年3月11日午後2時46分に起きた大震災から今日で丁度一年が経ちました。

悪夢のような、と言うよりも、悪夢そのものであったあの大震災から一年。
忘れよう、忘れたいと思っても、あの大震災によって引き起こされた大惨事の情景は、繰り返し繰り返しフラッシュバックのように私たちの脳裏に鮮やかに浮かび上がってきます。
一年前、日本中の人々がテレビを通して映し出される大地震の被害、そしてそれに続いて広範な海岸線を襲った大津波から目を離すことが出来ず、日本中が、いや、世界中が、現実とは到底思えないほどの惨事に呆然とし、時間の経過とともにそれは大きな嘆きと悲しみに変わっていきました。
大震災1周年を迎え、どのテレビ局でも特集番組が組まれていて、私もいくつもの番組を見ました。その中で、特に大地震で激しく揺れる情景や、大津波が襲ってきて家屋などが流されていく映像が映し出される前に、これらの映像が人々、特に被災者や子どもに及ぼす悪影響について注意を喚起するテロップが表示されているのを見て、ことの深刻さを改めて感じました。
被災地から遠く離れた地に住む私でさえ、この一年間は精神的、心理的にかなりのストレスの中にあったこと、そして、すぐイライラしたり、涙が溢れたりという不安定な状態が続いていることを思いますと、実際に大地震や大津波に襲われた被災地にあっては、人々の心と身体の傷や悲しみがどれほど深く、いつまでも癒えるものではないということは想像に難くありません。

 

216312今、私たちが大震災1周年記念礼拝をお捧げしているこの地でも、多くの方が亡くなられました。
まだ行方不明になったままの方もいらっしゃいます。多くの方が愛する家族や友人を失い、また住み慣れた家を流されました。福島第一原発の事故により、立ち退かされ、避難をされている方々もおられます。
財産や仕事、生活の基盤を奪われた方々、仮設住宅や親戚・知人宅で不自由な生活を強いられている方々も、この礼拝にいらっしゃっていることと思います。直接被災していない私にとって、今日、この地での1周年記念礼拝に立つことは、何かとても申し訳なく、身のすくむ思いであるというのが正直な気持ちです。

 

私はこの礼拝を逝去者記念礼拝として、亡くなられた方々を追悼し、神様のみ腕の中での魂の平安を祈る目的で、今日ここに参りました。特に、磯山聖ヨハネ教会の信徒で亡くなられた3人の方々、イサク三宅實さん、スザンナ三宅よしみさん、グレース中曽順子さん、また教会関係者の三宅みさのさんを憶えて、魂の平安のため、ご家族に神様からのお慰めがありますように祈り、またこの4人のご生涯を通して人々に与えられた神様の豊かなお恵みを感謝したいと思います。

 

被災者の方々にとって、それぞれの置かれている状況によってずいぶん違うであろうと思いながらも、それでも、「生きる」ということがいかに大変なことか、また大きな生活の重荷を負っておられるかを思わされます。
そして、もし、その被災者が、ご家族の、あるいは身近な大切な人を失っておられるとしたら、もうそれは筆舌に尽くし難い苦しみと悲しみを負うことになるでしょう。
私たちは誰一人として、死から逃れることは出来ないと知っています。それども必ず訪れるはずの死について、自分自身のこととして真剣に考えることを避けているように思います。
毎日の生活で忙しく、生きることで精一杯。何を食べ、何を着、何をしようかということで思い煩っているのが私たちの現実です。そこでは死は意識的に避けるべき事がらであり、また無意識のうちにも考えないようにしています。
生きるということの対極に死があり、生きることを大切にするなら死などは忌むべきものとして排除しなくてはならないというのが一般的な考え方でしょう。病院でも入院患者が亡くなると、人の目に触れぬようにこっそり霊安室に移し、裏口や地下の出口から遺体を運びだします。生きようとしている病人に、死者の存在は不吉に映るのでしょう。また、家族や親しい人が亡くなると、私たちは驚き、悲嘆に暮れ、その事実を受け入れることがなかなかできません。それも、普段、死ときちんと向き合っていないからでしょう。しかし、私たちは死ぬべき体をもって生きています。限りある生命という大前提を無視して生きるということは、人生をごまかして生きることです。
一日生きることは、そのまま死に一日近づくことで、生と死はいつも隣合わせです。そこから目を反らさず、その事実を受け入れていくことができれば、私たちの人生はもっと豊かなものとなるでしょう。

 

昨年、この大震災が起きたために、多くの人々の命を、その方々の人生を見送ることとなりました。
人数に数えられていない胎児もたくさんいたことでしょう。
私は、今日、1周年の日を迎え、改めて亡くなられた方々の魂に思いを馳せます。その方たちの魂の平安を祈る者として、私自身が向き合わなければならないのは、やはり「死」そのものだと思うのです。キリスト教徒として、ただきれいごとだけで魂の平安を祈るのではない、そうであってはならない・・・・。
今まで自分が信じ、人々に伝えようとしてきた復活の信仰に、私自身、本当に喜びと希望をもって生きているであろうかと。正直なところ、愛する人を亡くして悲しむ方々を慰める力は私にはありません。
この大震災によって亡くなられた方々の、その死に至るまでの肉体の苦しみを想像すればするほど恐ろしさに震えます。九死に一生を得た人にとっても、黒い波に呑まれた恐ろしい記憶に、また、その中で愛する人を助けることができなかったという悔やんでも悔やみきれない思いに、これからどれほど苦しみ悩まされることになるでしょうか。それは、生きている中でも、「死」の影を背負っていくことを意味するのかもしれません。

 

ただ、そのような中でも、私は、「死」に勝利されたキリストを伝えることしかできないのです。十字架上での完璧な贖罪によって、すべての人が「罪の死」から解き放たれたことを、そして、甦りの初穂としてのキリストの復活に私たちすべての者が与るということを。

この震災によって亡くなられたお一人お一人は、この礼拝で祈られるように、確かに魂の平安が与えられ、神様の御国で安らいでいらっしゃることを信じ、ただただそのことをお伝えしたいのです。この世で愛した人々、家族、楽しいこと嬉しいこと、これからの夢や希望・・・、それらすべてを残したままで去らなければならなかった人々の無念さも、きっと主のみ前で、この世に残る皆さんのための執りなしの祈りに代えられていることと信じます。私たちは亡くなられた方を偲びます。思い出を語り合います。その方の死に至るまでの苦しみに涙します。しかし、そこから私たちは毅然と立ち上がるのです。それは決してその苦しみや悲しみを忘れることではありません。それを克服することでもありません。亡くなられた方の死をその身に帯び、泣きながらも生きることの苦しさに従順に従うことです。キリストはすでに死に打ち勝っておられるからです。

 

この大震災で愛する人を亡くされた方々、皆様の寂しさはつのり、これからの生活に希望を持てない、暗黒のトンネルから抜け出せない状態が、これからも続くことでしょう。心が弱り果てるのを感じるかもしれません。でも、そこから毅然として立ち上がるのです。キリストが死から生命に復活なさって生きておられるからです。

 

この残酷な大震災に意味というものがあるのかどうか、今の私にはわかりません。確かに、このような震災は起きてほしくなかった、起きるべきではなかった。しかし、この一年、その大きな傷跡に、神様のみ手が確実に触れてくださり、今日、私たちはここに集まっています。被災者の方々の間には、怒りと恨み、呪いの言葉が渦巻いていてもいいはずなのに、私がお会いする被災者の多くの方から返ってくるのは、「ありがたくて・・・」という感謝の言葉でした。十字架に架けられたキリストの手足の傷から流れ出る血によって私たちが生かされたように、この大震災によって犠牲になられた方々、被災された方々の流された血と涙によって、この国の多くの人々は、真実に大切なことに向き合わなければならない心を取り戻しつつあるように思われます。

 

私たちの生活、人生、生命、そして魂は、すべて尊い犠牲の上に成り立っているのです。私たちは人の苦しみや涙を食べて生かされていると言っても良いでしょう。そのことに真摯に向き合い、謙遜にひれ伏すことから、私たちは毅然とした新しい一歩を歩みだす、今日をその記念の日にしたいと思います。

 

401703

日本聖公会首座主教 主教ナタナエル 植松 誠