教区報
主教コラム - 2014年の記事
欅並木から 第6回「沖縄の旅・主教会」
6月24日(火)から27日(金)まで、定期主教会が沖縄で開催されました。定期主教会は基本的に年3回で、一回は東京のナザレ修女会で開催し、あとは各教区を順番に回ります。その教区の宣教課題があるところ、是非紹介したい働き等を訪問する良い機会になっています。最も通常2泊3日の日程の大半は会議室に缶詰で、数十に及ぶ報告や協議事項があり、大変疲れる会合ですが、同時に教区主教という同労者がお互いの状況を知合い、また日本聖公会としての一致と方向性を確認する貴重な機会ともなっています。
とくに今回は沖縄の直面している状況を学ぶため、日程も3泊4日1日長くして、その1日は沖縄の戦跡、基地のフィールドワークに充てられました。宿泊した那覇おもろまちのホテル自体が高台にあり、そこは沖縄の命運を分けた激戦の丘であったとのこと。普天間基地の見学(もちろん外から)オスプレーも見えました。基地のために埋め立てが進められようとしている辺野古では全員小舟に乗って海に出て、その状況の説明を受けました。本当に戦い続けている島という印象を強くしました。
沖縄でのもう一つの話題は、沖縄教区が現主教を総会で与えられるまで、主教選出に難渋し、教役者数、信徒数も少ない中で教区としての将来をどう考えるのかということでした。しかし教役者や信徒数の減少・高齢化は沖縄に限らず、全国的な問題です。沖縄教区は確かに小さな教区でしょうが、しかし非常に大きな課題に取り組みながら、独自の歴史と文化をもって大変生き生きとしていると感じました。教区でも教会でもそうなのでしょう。規模の大小の問題よりも、自分たちの現実に真剣に向き合う中から、信仰的な力も与えられてくるのだと感じさせられた沖縄の主教会、旅でした。
欅並木から 第5回「ヘイトクライム、ヘイトスピーチ」
5月27日から29日まで、第61回の日本聖公会定期総会が開催され、29の報告、35の議案が審議されました。多くの重要な報告や議案はありますが今は一つだけ。「ヘイトクライム(人種・民族憎悪犯罪)、ヘイトスピーチ(人種差別・排外表現)の根絶と真の多民族・多文化共生社会の創造を求める日本聖公会の立場」を明らかにしようとの議案が審議され可決しました。その中で実際に路上で行なわれている「ヘイトスピーチ」の映像が紹介されたのですが、本当に凄まじいものでした。韓国・朝鮮の人たちへのものが中心でしたが、「いやがらせ」等というレベルを超えて、本当に「殺すぞ」「出てこい」と激しい声で絶叫し、実際に身の危険を感じさせるものでした。その絶叫している中には中学2年生の女子だという映像もありました。対象とされる国の学校の生徒等は、恐怖で堪ったものではなく本当に申し訳なく思いますが、同時にそうした日本の若い人は何故そうした行為に駆り立てられるのだろうかと思わされます。おそらく実際に韓国、朝鮮の人たちと利害関係にあって対立した経験は少ないだろうと思います。何でもいいから、何か異質、あるいは少数者と感じるものに思いっきり憎しみをぶつけたいのでしょうか。理由が乏しいだけに余計恐ろしく感じます。「誰でもいいから殺したかった」という言葉も最近聞く言葉です。世界170か国が「人種差別撤廃条約」に批准している中、日本もそれは入っていますが、こうした「ヘイトクライム・ヘイトスピーチ」を規制し、犯罪と認める条項には批准していない、わずか5か国の一つだそうです。日本聖公会と韓国聖公会は、今年宣教協働30周年の記念の年を迎えています。歴史認識等を巡る厳しい国際関係も知りつつ、しかし信仰の交わり、宣教協力の経験、友情を積み重ねてきました。短絡的にならずに一歩ずつ歩むことを日本社会全体が重んじる必要を感じています。
欅並木から 第4回「『文字数厳守』のこと」
この『あけぼの』を毎月製作してくださっている広報委員会の労に感謝しています。またもちろん多くの方の協力、とくに寄稿がなければ出来ないことで、皆様に感謝いたします。充実した紙面ですが、少しデザイン的に写真が小さくないですかとか、文字が多過ぎませんか、と言うことがあります。その時の広報委員のお答の一つが、皆様からの原稿が、どうしてもお願いした字数より多くなるので、というものでした。いろいろと書くべき内容があるので当然とも思います。同時にわたし自身の自戒も含めて、印象的な話を思い起こします。
今では高名なある作家が若い時代、渾身の力を込めて書き上げた長編小説を大家に読んでもらったそうです。アドヴァイスは一言、「半分にしなさい」。その若い日の作家は怒りに震えましたが、しかし仕方なくその通りにして、やがてその作品は大きな賞を得て、出世作となりました。
「文章は短いほど良い」のが鉄則のようです。わたしは自慢ではありませんが、締め切りには遅れても文字数はぴったり依頼に合わせようと思ってきました。わたしも書くとまず長くなります(とくにパソコンで書くようになってから、その傾向があります)。しかし一度出来た後から、どうやって規定の文字数に合わせようかと奮闘します。同じことを重ねて言っていないか、もっと適切な表現はないか、平仮名を漢字にして詰められないか、何より内容が明瞭か。大体、自分が書きたいと思うことを書いている時には、つい勢いで言わなくても良いことまで書いていたりします。もう少し禁欲した方が、文章として良くなることの方がほとんどのようです。人に悪文を書かせるもっとも良い方法は、「制限なしで自由に書いてください」ということです。なにか自分の首を絞めるような話をしてしまいました。笑ってお許しください。
欅並木から 第3回「福音主義の教会は伸びている!?」
3月15日に英国のサザク教区・主教座聖堂で行われた東日本大震災の記念礼拝に参加してきましたことは、今号「あけぼの」に特集されています。約1週間の短い訪問でしたが、その中で何度も耳にした言葉が「福音主義の教会は伸びている。伝統的な教会はそうではない」という主旨のものでした。「福音主義」という表現が正確かどうかわかりませんが、具体的には伝統的な祈祷書や祭服も用いず、音楽もギターやドラムのバンドが担い、自由なスタイルの説教や柔軟な形の信徒の参加の雰囲気が溢れている、そういう感じと言ってよいかと思います。今回訪ねた中にもそうした教会がありました。聖公会でも、他の教派でも、とくに聖公会の場合は伝統的な祈祷書の礼拝を続けている教会は、ご高齢の方々がほとんどという印象です。
どのように考えたらよいのか、わたし自身特別な意見を持ちあわせていません。絶対に伝統的なかたちは守るべきだと固く考えてもいないし、ギターやドラムにも抵抗はないけれども、それで礼拝をすれば「現代的」で若い人もどんどん教会に来るだろうとも、とくに日本においてはあまり思えないのです。少し理屈っぽい言い方をすれば、わたしたちには「神様の遠さ」と「近さ」、両方への思いがあるのではないかと思います。「静」としての神、「動」の神、「秩序」の神、「自由」の神。
月並みの言い方ですが、教会の礼拝にもいろいろあればよいのでしょう。主日の午前中には伝統的な形がしっかりと守られ、夕方にはギター等で若者(だけとは限りませんが)中心の礼拝、あるいは実験的な礼拝や新しい歌が多く歌われる礼拝・集会がある。そういうことは海外の教会、とくに主教座聖堂等では当たり前に行なわれていることと思います。様々に経験を広げていく寛容さが必要なのでしょう。
欅並木から 第2回「川端先生と今橋先生 〜日本キリスト教団に属するお二人の先生のこと〜」
川端純四郎先生は、昨年2013年5月に逝去されました。東北学院キリスト教科の教員として、ドイツに留学された神学者ですが、同時にバッハの研究家として名著を著し、教会のオルガンも弾き、賛美歌を愛されたご生涯でした。さらに原発への反対、憲法9条を守る運動についても指導的な方でした。内には大変強い情熱を秘められながら、しかし本当に温厚な方で、わたしは『礼拝と音楽』という雑誌の編集企画委員として10年ほどお付き合いをさせていただきました。一度仙台駅でお見かけした時、「アレッ、大江健三郎かな」と思ったと言えば、なんとなく風貌が浮かばれるかもしれません。『3・11後を生きるキリスト教』(新教出版社)という著書も出されました。
今橋先生は今年1月に帰天された、日本キリスト教団の牧師、神学者です。川端先生同様、日本キリスト教団の礼拝と讃美歌に関する優れた指導者であられました。東京の目白にある聖書神学校の校長も務められましたが、聖公会の礼拝の伝統に対しても温かい関心を持ち続けられ、私も何度か学びの時をご一緒することがありました。最後の出版となった書物は、聖公会のオックスフォード運動の指導者の一人、詩人であったジョン・キーブルの詩集の翻訳でした。『光射す途へとー教会歴による信仰詩集』(日本キリスト教団出版局)です。最後の書評を書く光栄を与えられましたが、是非皆様にもご紹介したく思います。なじみ深い朝の聖歌「来る朝ごとに」、夕の聖歌「わがたまの光」、そして「心清き人はつねに」等、キーブルの詩数曲が『日本聖公会聖歌集』に入っています。
優れた他教派の先生方との交わりとその恵みを覚えたく、ここに書かせていただきました。