教区報

主教コラム - 2015年の記事

欅並木から 第15回「野村潔司祭への感謝」

9月10日に、中部教区司祭、テモテ野村潔師が逝去されました。63歳という若さでした。東北教区に奉職された野村義雄司祭のお孫さんですし、秋田の教会にご縁があります。長く中部教区の司祭として、とくに名古屋学生青年センター等、教会の社会宣教の現場で、多くの人たち、とくに若い人たちに大きな影響を与えながら働き続けられました。

 
東日本大震災発生の1週間後、名古屋から新潟、山形を経由して管区のスタッフも共に仙台に駆けつけてくださった中に、もちろん野村司祭の姿がありました。それ以降、「いっしょに歩こう!プロジェクト」の設立メンバーとして、2年間、本当にしばしば仙台に通い、プロジェクトの屋台骨であり続けたと言って過言ではありません。非常にラディカルな社会活動家的な顔、社会的な弱者に対する徹底した共感の姿勢と共に、生ぬるい面も多い教会、とくに東北教区の現実に対しても理解を示しつつ一緒に歩いてくださったと思います。「聖公会というのは、周りから、『まだそんなことやってるの?』と言われるくらいに、急に目覚ましいことは出来なくても、しつこくやり続ける教会なんだよ」と、プロジェクトの初期に言われていた言葉は、震災後の現在の東北教区に対して、今でも意味深い言葉だと思います。2年間のプロジェクトの後、日本聖公会の「原発と放射能に関する特別問題プロジェクト」の長となられましたが、その頃から体調が思わしくないような話も聞いていました。

 

震災直後支援実は2003年に行われた東北教区主教選挙で、候補のお一人としてお名前が挙がっていたことを知っています。野村司祭が東北教区主教だったら、ずいぶん教区の姿勢や雰囲気も変わったのではないかと、時々思います。感謝と共に改めてその姿勢から学ぶ必要があると思うのです。

(教区主教)

あけぼの 2015年12月号

写真:東日本大震災直後、支援にかけつけてくださった野村司祭(右端・山形聖ペテロ教会にて)

欅並木から 第14回「韓国との交流、協働のこと」

李贊煕司祭がご家族と共に、日本、東北教区に来られたのが2009年11月、それから東北教区での働きが始まりました。大韓聖公会と日本聖公会の間で交わされている宣教協働者派遣の協定によって李司祭はこの11月で2期6年を終えられますが、さらに3年の延長の契約を交わすことになっています。李司祭の健康と働き、またご家族のためお祈りし、ますます多くの教区の皆様との良い交わりが出来ますよう願っています。

 
一方、東北教区と大田教区の交流、宣教協働は2005年から始まり、現在10年目となりました。1期3年の3期9年が過ぎ、昨年教区会から新たな5年間の交流延長が始まっています。

 
東北教区の長い歴史の中で、ルイジアナをはじめ、いわゆるアメリカ、ヨーロッパのキリスト教には馴染みがあっても、アジアのキリスト教、韓国との交流はほとんどなかったのではないでしょうか?

 
それでも皆様が李司祭との交わり、韓国との交わりを自然に喜んで受け入れてくださったことは素晴らしいと感じています。

 

テジョン教区ポクデードン教会にて

テジョン教区ポクデードン教会にて

わたし自身、聖公会の司祭の家庭に生まれ育ちましたが、目はいつも「欧米」を向いていたと思います。神学生になって初めて、韓国との出会いがありました。日韓の歴史のこと、在日韓国朝鮮人の人たちの日本社会での労苦のこと、それらを知るにつれ、また最初は緊張感を持ちながらも韓国の友人が出来るにつれ、わたし自身が「自分が日本人である」ことを自覚し、いわば「自分は何者なのか」という問いに向き合うためには、どうしても韓国が必要だと思うようになったのです。政治的には難しい状況が続いていますが、そういう中でも絆を強めていく日韓聖公会の交わり。どうぞこれからも積極的な関心を持っていていただきたいと願います。

(教区主教)

あけぼの 2015年11月号

欅並木から 第13回「沖縄・広島・長崎」

広島写真今年は6月に沖縄・慰霊の日の礼拝に参加、そして8月には広島、長崎における戦後70周年・原爆投下70周年の記念礼拝、記念行事に参加いたしました。沖縄と広島は日本聖公会全教区主教の参加によるものでした。

 
広島では5日に平和公園でのカトリック教会と合同の祈りの集い、平和行進、カトリックの世界平和記念聖堂での合同礼拝、6日は広島復活教会での原爆逝去者記念聖餐式に参加。長崎では8日は爆心地公園での平和の祈り、9日の主日は長崎聖三一教会での「死の同心円から平和の同心円へ」と題した被爆70年・原爆記念礼拝に参加しました。礼拝以外にも前後にさまざまな平和を学び祈るプログラムもあり、青年たちを中心とした「平チャリ」―広島―長崎を巡礼のように自転車で走る、という熱いプログラムもありました。わたしは礼拝だけの参加ですが、それでも広島、長崎それぞれの原爆投下時間の黙想は、現在東北教区も主教座聖堂で毎月11日、午後2時46分に行っている黙想も連想しながら、その瞬間に起こったことに懸命に思いを巡らせていました。

 
3つの教区を訪問したわけですが、神戸と九州、そして沖縄の3教区が「犠牲者を悼み、平和を祈る」ということにおいてお互いに連帯している姿が印象的でした。今回だけでなく、常にお互いの平和のプログラムに関心と関わりを持ち、主教方も役割を担いあっているようでした。3教区は「平和祈念教区」として結ばれているのだなと感じた次第です。

 
それぞれの豊かさ、強さによってという以上に、それぞれが抱く痛みにおいてこそ、わたしたちは信仰的に強く結ばれるのだろうと感じます。

 
東北教区はどうでしょう。東日本大震災の痛みを思いつつ、誰とどのようにつながり、祈り、働いていくでしょうか。

 

教区主教

あけぼの 2015年10月号

欅並木から 第12回「『祈祷書改正準備委員会』のこと」

昨年の日本聖公会総会は礼拝や祈祷書に関わることで二つの大事な決議をしました。一つは「堅信前の陪餐」に関すること(第1回の協賛・来年再度協議)、そしてもう一つが祈祷書の改正に関する件です。まだ「改正委員会」を立てたのではなく、「改正準備委員会」であり、どのようにして、どのような方向性を持って、新しい時代の祈祷書を準備していくか、予備的な段階から検討する使命を与えられています。委員は8名、わたしは担当主教です。

 
聖公会は16世紀に最初の祈祷書を完成することによって成立した教会です(1549年)。ローマ・カトリック教会から独立し、しかし古代からの良い伝統は守り、大陸の宗教改革の新しい影響も受け、聖書も祈りも一般の人が自分の言葉で読めるように(それまでは庶民のわからないラテン語)という大きな改革でした。政治的にも王室と議会、貴族と市民階級等が勢力を争い、カトリックとピューリタンの両方の緊張関係もありました。その中で、考え方や生き方はいろいろあっても、礼拝は共通の祈祷書によって一緒に捧げられるように、教会としても国民としても一致しようと願って、祈祷書は作られたのでした。

 
祈祷書写真しかし最初の祈祷書から3年後にはずいぶん異なった性格の第2祈祷書(1552年)が現れるとか、ヘンリー8世、エドワードの後、メアリーが女王になると、祈祷書は廃止され、作成した主教は火あぶりになるとか、祈祷書の歴史は大変な歴史でもあります。

 

 

現代の状況はまったく違いますが、それでも聖公会の宝であり、一人一人にとっても大切な礼拝の書、祈りの書がどのようなものとなっていくのか、いくべきなのか、どうぞこの検討・研究作業の上に神様の導きとお守りがありますようにお祈りください。

教区主教

あけぼの 2015年9月号

特別編  沖縄「慰霊の日」

写真2面-1 沖縄日本聖公会・正義と平和委員会と沖縄教区は毎年この時期に「沖縄週間・沖縄の旅」を続けてきていますが、戦後70年にあたる今年、6月23日の「沖縄教区『慰霊の日』礼拝・戦後70年記念平和礼拝」には全教区主教が参加、韓国からは首座主教、大田教区主教をはじめ、「オモニ合唱団」他総勢45名の来訪、そして日本聖公会各地からの参加者が集う歴史的に意味ある礼拝となりました。

 

 

那覇空港からモノレールで約20分、「おもろまち」駅で下車、駅と隣接した大きなビルにはティファニー等の豪華ブランドの店が軒を並べています。都会的な高層ビルも建ち、賑わう中を抜けて、全国にチェーンのある快適な大型ホテルに入りました。しかし・・・。まさにこの場所、ホテルの横、周辺はやや高台になっているのですが、そここそが「シュガーローフ」と呼ばれる激烈な沖縄戦の中でも、とくに激戦地であった場所なのです。日本軍司令部のあった首里を前にした大攻防戦で、11回も攻守が入れ替わり、アメリカ兵も4,000人以上が死亡、多くの兵士が精神に異常をきたした(戦争神経症)と言います(4月16日放送 NHK「沖縄戦全記録」より)。当時の写真は、現在からは想像もつかない荒れ果てた高地です。「あらゆる地獄を集めた」と、その被害の大きさが戦後アメリカ側でも問題となるほどに、太平洋戦争中でも沖縄戦は最大の激戦であり、全戦死者20万人、沖縄県民の死者少なくとも12万人と言われます(軍に最終段階で徴用された県民等もいて、データは複雑)。一家全滅した家族が多く、いまだに正確な全容はわからないと言われます。沖縄本島の地理的な大きさは約1,200k㎡、なんと東北6県の面積の2%弱です。その狭い範囲に、アメリカ軍側だけで何百万の単位の銃弾、砲弾が撃ち込まれ、まさに地形も変わるほどの激戦が、約3カ月にわたり続いたのです。

 

 

東日本大震災後、日本の経済成長の中でどういう役割を担わされてきたかという点で、東北の被災地と沖縄との共通性が語られることが増えました。もちろん今も続く原発、放射能汚染の問題は特別ですが、大震災の中においてはアメリカ軍も救援に駆けつけ、人々はお互いに命を助け、生かすために労苦しました。しかし戦争では、沖縄では、人を殺し、自分も死ぬことを目標に(玉砕、特攻)戦ったのだと思うと、やはり沖縄の歴史、事実は今日に至るまで日本において特別と感じずにはおられませんでした。

 

 

記念礼拝の行われた北谷(ちゃたん)諸魂教会からは、近くに美しい海が見えます。「そこからアメリカ軍の沖縄上陸が始まったのです。」と、上原主教が言われました。

 

                              教区主教

あけぼの 2015年8月号  (写真 北谷諸魂教会)

 

 

 北谷諸魂教会  北谷諸魂教会  北谷諸魂教会
 北谷諸魂教会  北谷諸魂教会  北谷諸魂教会