教区報
主教コラム
特別編 沖縄「慰霊の日」
日本聖公会・正義と平和委員会と沖縄教区は毎年この時期に「沖縄週間・沖縄の旅」を続けてきていますが、戦後70年にあたる今年、6月23日の「沖縄教区『慰霊の日』礼拝・戦後70年記念平和礼拝」には全教区主教が参加、韓国からは首座主教、大田教区主教をはじめ、「オモニ合唱団」他総勢45名の来訪、そして日本聖公会各地からの参加者が集う歴史的に意味ある礼拝となりました。
那覇空港からモノレールで約20分、「おもろまち」駅で下車、駅と隣接した大きなビルにはティファニー等の豪華ブランドの店が軒を並べています。都会的な高層ビルも建ち、賑わう中を抜けて、全国にチェーンのある快適な大型ホテルに入りました。しかし・・・。まさにこの場所、ホテルの横、周辺はやや高台になっているのですが、そここそが「シュガーローフ」と呼ばれる激烈な沖縄戦の中でも、とくに激戦地であった場所なのです。日本軍司令部のあった首里を前にした大攻防戦で、11回も攻守が入れ替わり、アメリカ兵も4,000人以上が死亡、多くの兵士が精神に異常をきたした(戦争神経症)と言います(4月16日放送 NHK「沖縄戦全記録」より)。当時の写真は、現在からは想像もつかない荒れ果てた高地です。「あらゆる地獄を集めた」と、その被害の大きさが戦後アメリカ側でも問題となるほどに、太平洋戦争中でも沖縄戦は最大の激戦であり、全戦死者20万人、沖縄県民の死者少なくとも12万人と言われます(軍に最終段階で徴用された県民等もいて、データは複雑)。一家全滅した家族が多く、いまだに正確な全容はわからないと言われます。沖縄本島の地理的な大きさは約1,200k㎡、なんと東北6県の面積の2%弱です。その狭い範囲に、アメリカ軍側だけで何百万の単位の銃弾、砲弾が撃ち込まれ、まさに地形も変わるほどの激戦が、約3カ月にわたり続いたのです。
東日本大震災後、日本の経済成長の中でどういう役割を担わされてきたかという点で、東北の被災地と沖縄との共通性が語られることが増えました。もちろん今も続く原発、放射能汚染の問題は特別ですが、大震災の中においてはアメリカ軍も救援に駆けつけ、人々はお互いに命を助け、生かすために労苦しました。しかし戦争では、沖縄では、人を殺し、自分も死ぬことを目標に(玉砕、特攻)戦ったのだと思うと、やはり沖縄の歴史、事実は今日に至るまで日本において特別と感じずにはおられませんでした。
記念礼拝の行われた北谷(ちゃたん)諸魂教会からは、近くに美しい海が見えます。「そこからアメリカ軍の沖縄上陸が始まったのです。」と、上原主教が言われました。
教区主教
あけぼの 2015年8月号 (写真 北谷諸魂教会)