教区報
主教コラム
欅並木から 第11回「戦後70年に思う」
今年は「戦後70年」であるということが、いろいろな場面で言われます。6月の沖縄週間には全教区主教が沖縄に集まりますし、8月の広島・長崎もわたしも記念の礼拝、行事に参加します。この70年はどういう時であったのか、本当に変わったことは何なのか、変わるべきなのに変わらずに温存していることは何なのか、きちんと見詰める時と思います。社会学者・日高六郎の『戦後思想を考える』(岩波新書)は思想犯として投獄されていた哲学者・三木清が結局終戦後も解放されず、9月26日に獄死したこと、さらにその時点で政治犯のすべてが獄中におり、ロイター通信の記者の調査、取材を受けてはじめてその問題が発覚したことを伝えています。「変わったように見えて、実はできるだけ変わらずにいようとする」傾向が、わたしたち日本人の中にはあるのではないかと感じ、空恐ろしい気持ちになります。
「戦後70年」。日本が国家の名によって戦争をしなかったという意味では、それはもちろん決定的に大事なこと、守り続けなければならないことです。しかし世界的に見れば、一度も戦争が途絶えたことのない70年間だったと言えます。「地域紛争」と言い直そうとしても、やはり銃声の止むことはなく戦争状態は世界において日増しに高まっていると思わざるを得ません。それはわたしたちには無関係なのか。いや太平洋戦争後の朝鮮戦争において日本は大きな経済復興の足場を得たと言われますし、ベトナム戦争も日本の基地から爆撃機は飛び立っているのです。
イスラム原理主義といわれる人たちの考え方や行動は、想像を絶するものですが、しかしあの貧困、生まれた時から戦いと憎悪の中で生きて来た多くの人たちが現に存在していること。それらを思いながらの「戦後70年」です。
教区主教
あけぼの 2015年7月号