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5月31日・聖霊降臨日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月31日・聖霊降臨日の説教を掲載いたします。

 


 

5月31日 聖霊降臨日

東北教区主教 主教 ヨハネ 吉田雅人

 

分かれ分かれにされていた私たちが、主にあって一つにしていただく

 

 

当初の予定では、私たちは 主イエス・キリストのご復活から50日がたった「聖霊降臨日」に、主日礼拝を再開し、再び集まれるとイイねと願っていましたが、残念ながら1週間伸びてしまいました。

 

今日は、約束の聖霊が弟子たちの上に降ったことを記念する聖霊降臨日で、昔から「教会の誕生日」と言われてきた祝日です。それはこの日を境にして、弟子たちが多くの人々にイエス様のことについて、公に語り始めたからです。その時の様子を使徒言行録第2章7節以下は、「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、異なる様々な国から来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」という主旨の、驚きの言葉を持って記しています。

 

そして人々がこのように驚くことになった理由を、使徒言行録第2章1節以下は、

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」

と記しています。

 

 

この出来事の中に、私たちはとても象徴的な動きを見い出すことができます。それは、「一つになっていた弟子たちの上に、炎のような聖霊が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に分かれてとどまります。しかし分かれてとどまったにもかかわらず、一人一人の弟子たちは一つの聖霊に満たされて、また一つの思いにまとまるのです。そして聖霊に満たされて一つになった弟子たちは、今度は別々の国の言葉で、神様の恵みの出来事について証言しはじめた」という、一つになることと、分かれ分かれになることが、交互に記されている、という動きです。

 

実は、この動きは、イエス様と弟子たちのとの関係の中では、最初から繰り返されていた動きでもありました。つまり、バラバラだった人がイエス様によって呼び集められて、一つの弟子団を作りました。しかしそのグループの要であったイエス様が、十字架の前に捕ってしまうと、弟子たちは別れ別れになって逃げ出してしまいます。ご復活の日の夕方、弟子たちは一つ所に集まってはいましたが、気持ちはバラバラでした。そのような弟子たちは、イエス様が昇天されるときに、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待て」と言われて、とりあえず一つになっていた時に、この聖霊降臨の出来事が起こったのです。

 

このように、弟子たちは一つになったり分かれたりという運動を、交互に繰り返してきました。それはある意味で当然のことでした。なぜなら、私たち人間には自我、自分というものがありますから、そう簡単には他の人と一緒になれないのです。私たちは自分自身から、自分の身近な人から、そして神様から離れている状態にあります。この一緒になれない状態が、罪の姿なのです。だからこそイエス様は、私たちが一つになるということを、ずっと願っておられました。イエス様は先週の福音書、ヨハネ伝第17章11節で、私たちが一つになることを願って「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように彼らも一つとなるためです」と祈り、また21節では「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と、父なる神様に祈ってくださいました。しかし、このようにイエス様が、父なる神様に一心に願わなければならないほど、私たちが一つになるというのは、難しいことなのでしょう。

 

実際のところ、私たちは気持ちや思いを一つにすることが、どれほど難しいかをよく知っています。その一つの例は、私たちの礼拝の中で、皆さんが司式者と一緒に唱える祈りが幾つかあります。大栄光の歌、ニケヤ信経、主の祈り、陪餐後の感謝などですが、これらの祈りを心を一つにして祈ることができているでしょうか。声が一人ひとりバラバラになってはいないでしょうか。もちろん私たちは、それぞれの祈りを唱えるスピードが違います。いや、違っていてありまえなのでしょう。ということは、客観的にその祈りの声を聞いた人にとっては、きっとバラバラの音に聞こえるに違いありません。ひょっとしたら気持ちもバラバラなのではないかと、思われるかもしれません。しかし、そのようなバラバラの状態にある私たち、なかなか一緒になれない私たちが「一つになる」ことを、イエス様は願っておられるのです。

 

 

では、どうすればよいのでしょうか。聖パウロはコリントの信徒への第一の手紙第12章の中で、次のように述べています。「私たちは多くの部分があっても、一つの体なのです。・・・そこで体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。

 

聖パウロはお互いに配慮し、気を配り、相手の身になって考え、喜びも苦しみも共にする思いの大切さを強調しています。と言いますのは、イエス様に倣おうとする私たちは、まさにキリストの体であり、また、一人一人はその部分だからです。有名な哲学者のカントは「友人の不幸は、われわれを不快にしない何かがある」と言ったそうですが、私たちはそれとは別の生き方、感じ方をさせていただこうと願っている者ではないでしょうか。もし私たちが、互いに配慮し合い、共に苦しみ、共に喜びましょうと言っておきながら、友人の不幸に少しでも喜びを感じるなら、そこには教会もなければ、キリスト者の生き方を見い出すこともできないでしょう。

 

しかし、それでもイエス様は、私たちが「一つになる」ことを願っておられるのです。そのためにイエス様は祈ってくださったのです。そればかりか、本日の福音書にありますように、イエス様は私たちのために「弁護者、慰め主、真理の霊を遣わしてくださいます。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」と約束してくださるのです。これが私たちの思いを一つにしてくださる聖なる霊です。つい、バラバラになることと一つになることを繰り返す私たちですが、この聖なる霊がいつも一緒にいてくださることを求めながら、お互いに配慮し合い、共に苦しみ、共に喜ぶことのできる生き方をしたいと思います。そして私たちが真実に「一つになる」ことできますよう、ますます祈り求め、キリストの体としての教会を立ち上げていきたいと思います。

 

 

父と子と聖霊の御名によって アーメン

5月24日・復活節第7主日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月24日・復活節第7主日(昇天後主日)の説教を掲載いたします。

 


 

5月24日 復活節第7主日(昇天後主日)
郡山聖ペテロ聖パウロ教会・若松諸聖徒教会牧師 司祭 ヨハネ 八木正言

 

執り成してくださる主を覚えて

 

 

昇天日を過ぎ、教会の暦では来週、聖霊降臨日を迎える今日、わたしたちに与えられた福音はヨハネ福音書の17章です。新共同訳聖書を見ると、「イエスの祈り」という小見出しが付けられており、最後の晩餐の席において、イエスが天に目を向けて祈られた祈りが取り上げられています。聖書には、他にもイエスの祈りが記録されている箇所が何か所かあり、その中でも最も有名なのが「主の祈り」です。しかしこの「主の祈り」は、祈るときにはこう祈りなさいとイエスが教えられた、言わば祈りの模範としての「祈り」なので、イエスご自身の「個人的な祈り」とは言えないかもしれません。あるいは、ゲッセマネの園での「祈り」(「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」)もよく知られたイエスの祈りですが、それは、十字架に架けられる直前の苦悩の言葉が際立ったものとなっています。

 

これらに比して、今日のヨハネ福音書17章に記された祈りは、イエスの祈りの中でも最も長く、それゆえ後代には「大祭司の祈り」とも呼ばれるようになった、イエスの思いの吐露とも言える有名な祈りです。そしてそれは、御子であるイエスが父なる神に対して、わたしたちのために執り成してくださっている内容となっています。

 

結論から申し上げれば、今日みなさんと分かち合いたいことは、イエスご自身の祈り(思いの吐露)が、ご自身のためのものではなく「執り成しの祈り」であったということです。このことを何よりも心に留めたいと思います。

 

「祈り」は神との「対話」であるとはよく言われることです。確かに、神に向かって自らの思いを吐露するという意味において、それは間違った解釈ではないと思います。しかし厳密に言うと、「対話」は、自らの立場・思いを相手と擦り合わせることで、それは漢字の「対」が用いられる単語を考えると明らかです。「対立」「対抗」「対峙」「反対」などはどれも、自分の立場を明確にし、自己を確立した上で為される行為です。したがって、祈りが神との「対話」であるという場合にも、神の御心に聴くというよりも、自分はこう願う、あるいは期待しているという要素が際立つように思うのですが如何でしょうか。

 

 

では「祈り」を神との「対話」と表現するのではなく、本来の意味を包含して別言するならば、どんな表現があるでしょうか。そのヒントが、イエスのゲッセマネの園での「祈り」(「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」)の最後の一言、「御心のままに」にあるように思います。

 

イエスは十字架の出来事を前に、「できることなら」この苦しみを自分から去らせてほしい、そう願われました。イエスご自身の立場・思いは「苦しみを取り除いてほしい」との願い、あるいは期待であったことがうかがえます。しかしそれは「わたしの願い通り」、つまり自らの願いの成就としてではなく、「御心のままに」、すなわちそれが神の御心であるならば、ということです。自分の立場を明確にし、自己を確立した期待を投げかけるのとは違い、「主の祈り」において教えられた「御心が行われますように」との祈りとなっています。

 

実は「対」には、辞書によると「対う」と書いて「向かう」と読む用い方があります。「向かう」というのは、自分の立場を「離れて」他に向かうことです。会津若松に向かう、と言えば、自分のいた場所を離れて会津若松に近づいていくことを意味します。「御心のままに」というのはまさにこのことで、自分の立場とその延長線上に神を捉えるのではなく、自分の願いや期待をいったん離れて、神に近づいていくことと言えるのではないでしょうか。

 

さらに「向かう」は、言葉上「迎う」に通じていると言われます。向かってくるものを受け容れるのが、「迎う」ことであり「迎える」ことです。「向かう」という一方的なベクトルが、それを待ち、受け容れる側と一体になり、「迎えられる」という段階に発展していきます。わたしたちが神に「向かい」、同時に神に「迎えられ」、さらに神がわたしに向かってきてくださるのを「迎える」ことが成る、これが「祈り」だと言えるのではないでしょうか。

 

このように「祈り」を考えるならば、「祈り」についての、叶うとか叶わないの言説は相応しくないことになります。そして何より、わたしたちが神に「祈られている」ということも言えるようになります。そしてそれこそが「神の執り成し」と表現できるのだと思うのです。

 

 

イエスは十字架の出来事を前にした訣別の説教で、言わば地上での最後の祈りのテーマとして、わたしたちを憶えて執り成すことを選んでくださいました。だからわたしたちは祈られている存在です! 聖餐式における代祷もそうですが、誰かのために祈ること、あるいは祈られていることは大きな力であり支えです。わたしのために祈ってくれている誰かがいる! それは何と心強く、勇気を与えられると同時に感謝すべきことなのでしょう! そして、その自分のために祈ってくれている最後の砦がイエスご自身であるということを、今日の福音が告げてくれているのだと思うのです。

 

この至上の喜びを、今日もご一緒に心に刻みつつ、わたしたちもこの時、新型コロナウイルス罹患によって孤独と不安のうちにある方々、それらの方々のために働いておられる医療従事者のみなさん、治療薬の開発に励んでくださっているすべての方々を覚え、一堂に会することはできませんが、だからこそ今心を一つにして、共に「祈り」を献げ続けたいと思います。

 

 

父と子と聖霊の御名によって。アーメン

5月17日・復活節第6主日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月17日・復活節第6主日の説教を掲載いたします。

 


 

5月17日 復活節第6主日
秋田聖救主教会牧師 司祭 ステパノ 涌井康福

 

クリスチャンという「像」におびえないで

 

 

「クリスチャンのくせに!」友人同士の軽い会話の中ならまだしも、緊迫した場面でこの言葉を投げかけられた経験をお持ちの方もおられるのではないかと思います。私たち教役者はそれに加え「牧師のくせに!」とののしられることもあります。その時は「あんな勝手な要求を聞けるわけがないだろう」(ほぼお金の要求ですが)と思い起こして腹を立ててしまいますが、ふと「あの姿の裏にある悲しみや苦しみに、気が付かなければいけなかったのでは」などと思ってしまうと「やはり私はだめな牧師なのかな」と落ち込んでしまうことがあります。まだまだイエス様という大地に足が付いていない証拠なのでしょう。

 

世の中の人たちはクリスチャンという存在をどう見ているのでしょうか。優しい人、立派な人、自分を投げうっても助けてくれる人、あるいは偽善者という厳しい評価もあります。そんな周りの思いに動かされてのことなのかどうなのかは軽々に判断できませんが「クリスチャンらしく生きなければ」と一所懸命な方がおられます。すごいなと思うと同時に「クリスチャンらしい」とはどういうことなのかを考えさせられてしまいます。

 

その「クリスチャンらしさ」は何かということの答えが、今日の聖書の言葉の中に現わされていると思います。パウロはいいます。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」ペテロは「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」と語りかけます。そしてイエス様は「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。」と宣言されます。ぶどうの木のたとえです。

 

人は神という存在に期待をかけます。それは決して間違いではありません。しかし往々にして人間の神への期待とは「神とはこういうものだ」と金や銀で像を作ることに似ています。そして神が示された道を真っすぐに歩くことよりも、迫害の時ばかりではなく、平穏な日常の中にあっても、周りの人がどう思うのかと、神よりも人を恐れてしまいます。

 

「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」ペトロはイエス様が逮捕される前には、こう立派に宣言しています。彼にしてみればイエス様の教えを理解しているし、神の子メシアと信じているという自信があったのでしょう。しかしその自信は十字架を前にしていとも簡単に吹き飛んでしまうことは、皆さんもご存知の通りです。ペトロをはじめとする弟子たちの姿が教えてくれるのは、私たちは自分の力だけでは、イエス様とつながっていることができないということです。そこには十字架と復活の姿を通して示された、イエス様の愛とゆるしがなければならないのです。この方こそが自分の弱さも、罪もすべて包み込んで、神を信じる者として立たせてくださる。この目覚めがあったからこそ、弟子たちはイエス様としっかりとつながっていることができる人となることができたのです。

 

それは今に生きる私たちも同じです。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)イエス様はありのままの私たちを選んでくださったのです。だから私たちはクリスチャンなのです。「クリスチャンのひな型」などは存在しません。イエスという方にしっかりとつながっているのなら、私たちは「クリスチャンのくせに!」という言葉を恐れる必要などないのです。

各主事・グループリーダーからのメッセージを掲載しました

新型コロナウィルスによる公開礼拝休止期間において、各グループ・委員会の活動も休止されておりますが、東北教区の各主事やグループ・委員会のリーダーからそれぞれの活動に関することや、ウィルスの脅威にある今に対するメッセージを寄せていただきました。

 

下記URLよりPDFを閲覧・ダウンロードできます。

 

 

各主事・グループリーダーからのメッセージはこちらから

5月10日・復活節第5主日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月10日・復活節第5主日の説教を掲載いたします。

 


 

5月10日 復活節第5主日
青森聖アンデレ教会牧師 司祭 長谷川清純

 

寛容な世界を求めて

 

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ
わたしの言葉と思いが御心にかないますように アーメン

 

 

ヨハネによる福音書14:1-14

 
東北教区信徒の皆様、おはようございます。

 

さて、ただ今世界的なコロナ危機に直面し、人類がこれにどのように対処していくかが問われています。私は今回の状況に陥った当初、2011年の東日本大震災時に引き戻された感覚を持ちました。東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故が発生した当時へフラッシュバックしたのでした。そこには、4つの類似が起こってきたからです。

 

1.突然引き起こった、そして非日常化した。
2.一地域に限定されない、全世界大である。
3.相手(放射性物質とウイルス)は目に見えない、匂いがしない。
4.先行きが読めない、不安が覆う。

 

それでも、大震災発生後何が生じたか。「絆」「一人ではない」メッセージ、大勢のボランティアとの出会い。人びとの思いやる心が寄せ集まって、被災された人たちは寂しさを脱していった、そういう光景を私はつぶさにこの目で確かに見てきました。それは得がたい人の心の温かみの経験でした。人と人のつながりは逞しく、励まし、生きる力になりました。

 

ところで今は、私たちはこれまでの常識、価値観を広く見直す必要に迫られています。たとえば、絆とか繋がりではなく「ソーシャル・デスタンス 離れて!」、来て見てくださいではなくて「ここには来ないで!」、顔を見せてではなくて「マスクして」。確かに今はそうしなくてはならず、医療崩壊を招かないために全面的に協力しなければなりません。

 

教会とは「エクレシア」ですから、「神様に招かれた者たちの集まり」だと理解しています。しかし、教区では3月29日から教会に集うのを休止しています。信仰者が集えないのです。それで果たしてエクレシアでしょうか。教会において人びとは手を取り合い、見つめ合い、語り合い、食事を共にして真に親しい交わりを重ねてきました。しかし、それは厳に自粛しなければなりません。主の平和の仕草でもある握手やハグ、平和のキッスは厳に避けなければなりません。このように、これまでの生活習慣やマナー、あるいは経済活動、労働スタイル、買い物の仕方等々多くの場面で抑制が求められています。

 

自粛が推し進められている間、海外旅行はもちろん出入国禁止、国境閉鎖ですから各国が鎖国しています。グローバリゼーションは終わりです。世界は一つではなく孤立させられています。聖公会は、世界中に広がる様々な国々の独立性を尊重し、多様性を認め、違いの中で一致する教会です。このような事態に直面したアングリカン・コミュニオンからは「教会は閉じていますが、それは建物だけの話し。何故ならわたしたちは一つの体=私たちが教会ですから、その私たちがいるところこそは教会そのものです」という趣旨のメッセージがHPに掲載されています。

 

そのように、私たちの存在意義を、存在価値をこういうときだからこそ確認し合い、改めて意識付けしたいものです。仙台基督教会主日聖餐式をライブ配信したところ、病人は、病床にて画面で礼拝に参加でき大喜びと聞きました。これは一つの大きな転換です。今後、体力的に集えない信徒たちのサポートツールとして定着するでしょう。PC、スマホで信徒に限らず広く視聴されているようです。

 

米国のミネソタ大学の研究所CIDRAPは、コロナ危機の世界的な解決には2年以上かかると予測しました。この研究は、2年後にもワクチンは完成していないとし、人類の60%が感染して免疫を得て世界的な集団免疫が形成されるまで2年以上かかると予測しています。1ヶ月前には政府からは「長期戦を覚悟」という発言がありましたが、5月2日、元厚労省医系技官で医師の木村もりよ氏は「『1カ月、2カ月頑張って自粛すれば収束する』と盛んに言われていますが、それは間違い、嘘です。この闘いが長期化するのは明らか。」と語っています。(5月4日、田中宇の「国際ニュース解説」から)

 

ここ数日前からは「コロナと共存」という単語も出始めました。まさにコロナの日常化まで、遠い道程かもしれません。その間、自粛要請の影響によって収入を絶たれた生活困窮者を自殺に追い込まないように財政支援を行い、人びとの生活維持を優先させなければなりません。今後、感染流行と沈静化が繰り返される可能性が否定できず、集団免疫とワクチン完成までの間、私たちは不安定で不自由な毎日、不安な心理状態、ストレスが続くでしょう。

 

 

 

主イエスは、おっしゃいました。「心を不安にしてはならない。神に信頼して歩み、わたしに信頼して歩みを起こしなさい。」(ヨハネ伝14:1 本田哲郎神父訳聖書「小さくされた人びとのための福音」より)イエスは命をもたらす道をしめし真実である故に、私たちはイエスの生き方を調べ、学び、倣い、そうしてイエスのみ跡を踏む生き方をあくまでも追究する人生を選び取りたいものです。

 

4月15日東奥日報朝刊に掲載された法政大学教授水野和雄氏の評論で、「コロナ感染拡大の事態で、近代の理念を持ち出しても解決にはならないどころか事態は悪化する。・・・『より速く、より遠く』に、が進歩だと信じて疑わない人間の行動にウイルスがついて回る。21世紀の行動原理は『より近く、よりゆっくり』で、理念は『寛容』でなければならない。」と書いていました。

 

まさにイエス様ご自身が寛容のお方であられたのですから、人を活き活き生かす方、永遠のいのち、時代の先駆者でした。そのイエス様に信頼して、私たちは今こそ寛容を心とし、身に着け、そうしてめげずに倦むことなくの精神を持って、歩み出して参りたいと思います。その皆様の歩みに神様のお導きとお守りがありますようにお祈り申し上げます。

 

 

 父と子と聖霊のみ名によって アーメン