お知らせ

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5月17日・復活節第6主日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月17日・復活節第6主日の説教を掲載いたします。

 


 

5月17日 復活節第6主日
秋田聖救主教会牧師 司祭 ステパノ 涌井康福

 

クリスチャンという「像」におびえないで

 

 

「クリスチャンのくせに!」友人同士の軽い会話の中ならまだしも、緊迫した場面でこの言葉を投げかけられた経験をお持ちの方もおられるのではないかと思います。私たち教役者はそれに加え「牧師のくせに!」とののしられることもあります。その時は「あんな勝手な要求を聞けるわけがないだろう」(ほぼお金の要求ですが)と思い起こして腹を立ててしまいますが、ふと「あの姿の裏にある悲しみや苦しみに、気が付かなければいけなかったのでは」などと思ってしまうと「やはり私はだめな牧師なのかな」と落ち込んでしまうことがあります。まだまだイエス様という大地に足が付いていない証拠なのでしょう。

 

世の中の人たちはクリスチャンという存在をどう見ているのでしょうか。優しい人、立派な人、自分を投げうっても助けてくれる人、あるいは偽善者という厳しい評価もあります。そんな周りの思いに動かされてのことなのかどうなのかは軽々に判断できませんが「クリスチャンらしく生きなければ」と一所懸命な方がおられます。すごいなと思うと同時に「クリスチャンらしい」とはどういうことなのかを考えさせられてしまいます。

 

その「クリスチャンらしさ」は何かということの答えが、今日の聖書の言葉の中に現わされていると思います。パウロはいいます。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」ペテロは「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」と語りかけます。そしてイエス様は「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。」と宣言されます。ぶどうの木のたとえです。

 

人は神という存在に期待をかけます。それは決して間違いではありません。しかし往々にして人間の神への期待とは「神とはこういうものだ」と金や銀で像を作ることに似ています。そして神が示された道を真っすぐに歩くことよりも、迫害の時ばかりではなく、平穏な日常の中にあっても、周りの人がどう思うのかと、神よりも人を恐れてしまいます。

 

「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」ペトロはイエス様が逮捕される前には、こう立派に宣言しています。彼にしてみればイエス様の教えを理解しているし、神の子メシアと信じているという自信があったのでしょう。しかしその自信は十字架を前にしていとも簡単に吹き飛んでしまうことは、皆さんもご存知の通りです。ペトロをはじめとする弟子たちの姿が教えてくれるのは、私たちは自分の力だけでは、イエス様とつながっていることができないということです。そこには十字架と復活の姿を通して示された、イエス様の愛とゆるしがなければならないのです。この方こそが自分の弱さも、罪もすべて包み込んで、神を信じる者として立たせてくださる。この目覚めがあったからこそ、弟子たちはイエス様としっかりとつながっていることができる人となることができたのです。

 

それは今に生きる私たちも同じです。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)イエス様はありのままの私たちを選んでくださったのです。だから私たちはクリスチャンなのです。「クリスチャンのひな型」などは存在しません。イエスという方にしっかりとつながっているのなら、私たちは「クリスチャンのくせに!」という言葉を恐れる必要などないのです。