教区報

主教コラム - 礼拝堂探検隊の記事

礼拝堂探検隊 第27回「十字架」

 

礼拝堂の内外にある様々なものを調べてきた探検隊も、とうとう最終回になりました。

 

そこで今回は教会がここに在ることを示し、また礼拝堂の正面にある十字架について調べてみました。十字架はキリスト教信仰を表す最も普遍的なシンボルであり、私たちの信仰の根源でもあります。

 

 

十字架が公認されたのは、三一三年のミラノ勅令によって行列用十字架の使用が許可されたことにあります。六世紀にはシリアで祭壇用十字架が用いられるようになりましたが、西方教会で祭壇上に十字架が置かれるのは十一世紀に入ってからだそうです。

 

一方、苦難のキリスト像がついた十字架が出てくるのはかなり後で、ローマの地下墓地(カタコンブ)はもちろん、五世紀のラヴェンナのモザイクにも見当たらないそうです。と言いますのは、初期のキリスト者は、キリストの十字架刑を苦難としてではなく、ご復活の喜び、死に対する勝利のしるしとして捉えていたため、十字架に架けられた写実的なキリスト像には抵抗があったそうです。

 

ですから十字架上のキリスト像もマイターのような冠をかぶり、コロビウム(ローマ時代の下着)にチャズブルを着け、目を開いて、手もまっすぐ横に伸ばしています(鉛山聖救主礼拝堂の十字架)。

 

写真のような苦難のキリスト像が現れたのは、フランシスコ会の働きにより、受難の信仰が大きく発展した一二世紀から一三世紀にかけてだそうです。

 

苦難の十字架にせよ、栄光の十字架にせよ、私たちは十字架を仰ぐことで、イエス様の愛をしっかりと感じていきたいと思います。

 

 

(教区主教)

 

 

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礼拝堂探検隊 第12回「クワイアー-①」

『あけぼの3月号』でチャンセル(chancel 内陣)についてお話しましたが、その中に入る前に「聖書台・説教壇」「聖歌表示板」「オルガン」と寄り道をしていました。

 

ということで、やっとチャンセルの中に入った今回は、「クワイアー」です。こう書きますと、「エッ、聖歌隊も礼拝堂の一部なのですか」と言われそうですが、写真の弘前昇天教会で言えば、コミュニオンレール手前の両側にある、普段は朝夕の礼拝時に司式者と補式者が座る席のことを「クワイアーchoir」と呼び、日本語では「共唱席」と訳します。

 

 

中世後期のイングランドの聖堂は、会衆席(ネイブ)と聖所(チャンセル)はスクリーンと呼ばれる石造りまたは木製の壁で仕切られていました。カンタベリー大聖堂は、大きな階段を上ると、がっしりとした石造りのスクリーンがあり、その上には、立派なパイプオルガンがのっています。また、私が訪ねたことのあるオックスフォード郊外のカデスデン村にある諸聖徒教会(12世紀の建築)も鉄格子のスクリーンがありました。

 

スクリーンの内部は通常二つの部分に区切られています。一番奥(東端部。コミュニオン・レールの内側。サンクチュアリー・至聖所)には主祭壇があり、文語祈祷書までは、司祭または主教が聖餐式を執行していました。

 

日本聖公会では第7回(3月号)にも書きましたように、スクリーンのある教会は限られていますが、これを抜けて入った「クワイアー」にはどのような役割があるのでしょうか。

(教区主教)

 

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礼拝堂探検隊 第13回「クワイアー-②」

チャンセルを入ってすぐの「共唱席・クワイアーChoir」は、もともとは共同体の構成員(修道士や聖職団)が二つに別れて向かい合わせに座っていました。そこで詩編を交互に唱えたり(そのことを共唱すると言う)、朝夕の礼拝やミサが行われたのです。そこは日々の礼拝の場であり、共同体全体が「聖歌隊・クワイアー」でありました。写真はカンベリー大聖堂のクワイアーですが、ここではQuireと綴ります。

 

 

中世では共唱席に着席順序があり、後列に上位者が座りました。また祭壇に向かって右側の会衆席よりの位置が共同体の長や司式者の席で、反対側は次席者の席でした。ですから現在の教会で司式者や補式者、聖歌隊がそこに位置するのは、伝統的な「共唱席・クワイアーQuire」の用い方ということになります。

 

しかし、スクリーン(壁)で会衆席と聖歌隊席を区切るという中世の礼拝堂構造は、会衆と聖職団を分断し、聖歌隊を専門家化することによって、会衆が礼拝に参加することから遠ざけ、聖なるドラマ(ミサ)の観客にしてしまったのです。

 

現在における「共唱席」の意味は何でしょうか。私は「共に―心を合わせて―唱える」、「共に―心を神様に向けて―唱える」ということではないかと思います。司式者団も、聖歌隊も、会衆も、それぞれが礼拝における役割を果たしながら、共に心を合わせ、心を神様に向けて、祈りを献げ唱える者でありたいと思います。

 

 

(教区主教)

 

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