教区報

主教コラム - 礼拝堂探検隊の記事

礼拝堂探検隊 第25回「聖櫃/タバナクル」

 

前回、聖所灯についてお話しました時に「聖櫃」という言葉を用いました。これは「せいひつ」と読み、英語ではタバナクルと言います。聖別されたパン(聖体)を入れた容器(ピックスやシボリウム)を安置するための箱状の器です。聖別されたワインや聖油を入れることもあります。

 

 

タバナクルという言葉はラテン語のtabernaculum(テント/幕屋)に由来し、礼拝堂内の様々な天蓋付きの構造物の呼び名でしたが、特に祭壇の中央に置かれる箱に適用されるようになり、16世紀以降、保存聖体(reserved sacra-ment)を安置する箱のことを指すようになりました。

 

 

英国聖公会では保存聖体を用いて病床聖餐を行う聖職と、その慣習は聖書的でないとして認めない聖職がいました。しかし19世紀半ばから始まった「オックスフォード運動」以降、このような聖体保存は一般的になったようです。

 

日本聖公会では『1959年祈祷書』で、病者にあらかじめ「聖別された聖品」を奉持して授けることが認められました。そして2011年の「み言葉の礼拝と陪餐」式文の認可に伴い、司祭不在の主日礼拝で保存聖体を用いて礼拝することが認められました。

 

 

タバナクルは一般的には木で作られますが、金属製でもかまわず、その場合にはポプラや杉で内張をするようです。また設置場所も弘前のように主祭壇の上か、仙台のように至聖所内の壁に取り付けることもあります。

 

 

(教区主教)

 

 

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礼拝堂探検隊 第10回「オルガン-①」

 

今回は「オルガン」です。会衆席の後に置かれている教会も多いと思いますが、仙台基督教会では会衆席の一番前に置かれています。またオルガンには様々な種類(パイプ・オルガン、リード・オルガン、電子オルガン等)がありますが、東北教区では先代の主教座聖堂に小型のパイプ・オルガンが設置されていたことを覚えておられる方も多いと思います。

 

 

パイプ・オルガンの歴史は古く、人類が誕生した時から既に類似の楽器の存在が認められるそうです。オルガンの語源はギリシャ語の「オルガノン」で「道具・器官」という意味でしたが、次第に楽器一般を指し、ついには「オルガン」そのものを指すようになりました。

 

 

西方教会におけるその最も古い記録は、フランク王国のピピン(8世紀・カール大帝の父)にビザンチン帝国から寄贈されたというものだそうです。英国のウインチェスター大聖堂に巨大なオルガンが設置されたという記録もあり、修道院の聖務日課(聖公会では「聖務時祷」と呼ぶ1日8回行われていた礼拝)を歌う練習に使われていました。そして時代を経るに従って複雑精巧になり、様々な音色を演奏できるようになりました。

 

 

16世紀には各国の教会に、各々の礼拝にふさわしいオルガンが設置されました。宗教改革で会衆が積極的に礼拝に参加するようになりますと、賛美歌・聖歌の伴奏として、また礼拝の前奏・後奏に用いられ、J・S・バッハでその頂点を極めることになったのです。〈つづく〉

 

(教区主教)

礼拝堂探検隊 第26回「鐘」

皆さんはジャン・フランソワ・ミレーが描いた「晩鐘」という絵をご存じだと思います。

 

夕暮れ時の畑で働いていた夫婦が、農作業の手を止めて祈っている絵です。遠く絵の右上の方に教会か修道院の塔が見えます。恐らく夕方のアンジェラスの鐘にあわせて祈りを献げているのでしょうね。

 

礼拝堂に鐘を設置するようになったのは400年頃のノラのパウリーヌス(司教、貧しい人々に尽くした)によるものだと言われていましたが、585年頃トゥールのグレゴリウス司教が献げたものだそうです。

 

英国における最初の鐘は、680年頃にイタリアから持ち込まれ、八世紀にトルケトゥル修道院長がクロウランド修道院に7つの鐘を贈ったという記録があるそうです。9世紀以降、鐘は鐘楼に吊るされるようになり、修道院での使用が一般的になりました。

 

 

このような鐘の歴史からもわかるように、鐘の働きは礼拝の前に鳴らして人々を礼拝に招き入れることや、修道院や教会で定時の礼拝(修道院の三時間ごとの聖務時祷)の時に鳴らすことで、地域における時計の役割を持ったのです。

 

では、何回鐘を鳴らせばよいのでしょうか。アンジェラスの鐘は、聖ヨハネ修士会では3+3+3+11回、神愛修女会では3+3+3+12回でしたが、調べてみると3+3+3+9回でよいそうです。また葬送式の出棺時にも鳴らすことがあります。こちらはイエス様の逝去年齢にあわせて33点鍾という教会もあれば、逝去された方の年齢だけ鳴らすという教会もありました。

 

 いずれにしても心を込めて人々にイエス様の愛を知らせることが大切なのでしょうね。

 

 

(教区主教)

 

 

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