教区報

主教コラム - 欅並木からの記事

欅並木から 第9回「大切なことに向けて -予告的な話-」

DSC_791211月号のこのコラムで、日本聖公会が祈祷書改正に向けた準備を始めているとお伝えしました。同時に日本聖公会総会では審議、報告されていることで、教会の信仰生活に関わる大切なことが今動き出そうとしています。今回は短い紙面ですので、ごく予告的に事柄を紹介して、新年の号で改めて詳しいお話をしたいと思います。

 

 

聖公会は長い伝統の中で、洗礼だけではなく主教の按手による「堅信を受けた者、またその準備を終えて主教から特別の許可を受けた者は、陪餐することができる」(祈祷書285頁)としてきました。中世のキリスト教世界において幼児洗礼が主流となり、幼児洗礼を受けた子どもが、一定程度大きくなったら教会問答を学んで堅信を受け、そして聖餐に与る、という流れが固定していました。しかし洗礼の意味をもう一度考えてみると、それは教会の家族の一員、キリストの体となることです。家族の一員となったけれども一緒に食卓につけない、一緒に食事をしないということはやはり再考しなければならないことです。20世紀になって多くの研究や議論を経ながら、現在各国聖公会やローマ・カトリック教会でも、洗礼を受けた人(幼児も)は陪餐できるようにという変化が起こっています。洗礼の意味の重大さが見直され、子どもも含めて主の食卓に早い機会から多くの人が招かれるようにと願われています。そして堅信は一言で言えば、主教の按手によって強められ祝福され、教会の宣教の業に参与していく派遣の意味を持つことになるでしょう。

 

 

まだ時間をかける必要もある大切な課題です。現在、管区の礼拝委員会で「Q&A」作成等の作業等が進められています。今まで大切にしてきた伝統や考え方があります。冷静に、そして前向きに、ご一緒に考えていきたいと願います。

 

                                教区主教

 

あけぼの 2015年1月号

欅並木から 第10回「待ちつつ急ぎつつ」

DSC_1481「善は急げ」という言葉はよく知られています。しかし教会というところは、どうもそうではない、むしろ「善は急がない」くらいであるようです。何よりも現代の教会は信徒全体の合意形成に時間をかけていきます。主教や司祭の「鶴の一声」で物事が進むというようなことはまずありませんし、わたし自身あってはならないと思っています。

 

 

一方で、そのスピードの遅さが人を傷つけてしまう場合もあるでしょう。「対応の遅さ」、最近よく聞く言葉でいえば「危機管理能力」「スピード感のある対応力」。事柄によっては本当にそういうことも必要で、やはり教会のあり方としてディレンマを感じるところです。その見極め、スピード感のある対応をすべきなのか、じっくりと構えるべきなのか、もしかしたらそれは、主教や司祭の仕事、牧会の重要な課題なのかも知れません。

 

 

オウム真理教事件の時、作家の井上ひさしと司馬遼太郎が対談で、オウムの宗教はせせこましい(早く終末を来たらせようとしてサリンをまいた)、それに対してカトリックはやはりゆったりしている、長い目で見ている、というようなことを語り合っていました。わたし等も、教会の歴史、例えば礼拝のことを話す時、「何世紀の教会は」「中世の教会は」というようなことを平気で言います。何百年という単位が、簡単に括られてします(本当は不正確だと思いますが)。ある意味では、日本聖公会の歴史も、後には「日本の初期の教会は」と言われるのかも知れません。

 

 

だから、日々あくせく努力しなくても良いとは言いません。しかし一方では、百年や数百年、長い目で見ることも、宗教というものの眼差しなのだろうと思います。ブルームハルト父子というドイツの神学者の本の名前『待ちつつ急ぎつつ』。皆様はいかがでしょうか?

 

                                教区主教

 

あけぼの 2015年6月号

欅並木から 第11回「戦後70年に思う」

DSC_9641今年は「戦後70年」であるということが、いろいろな場面で言われます。6月の沖縄週間には全教区主教が沖縄に集まりますし、8月の広島・長崎もわたしも記念の礼拝、行事に参加します。この70年はどういう時であったのか、本当に変わったことは何なのか、変わるべきなのに変わらずに温存していることは何なのか、きちんと見詰める時と思います。社会学者・日高六郎の『戦後思想を考える』(岩波新書)は思想犯として投獄されていた哲学者・三木清が結局終戦後も解放されず、9月26日に獄死したこと、さらにその時点で政治犯のすべてが獄中におり、ロイター通信の記者の調査、取材を受けてはじめてその問題が発覚したことを伝えています。「変わったように見えて、実はできるだけ変わらずにいようとする」傾向が、わたしたち日本人の中にはあるのではないかと感じ、空恐ろしい気持ちになります。

 

 

「戦後70年」。日本が国家の名によって戦争をしなかったという意味では、それはもちろん決定的に大事なこと、守り続けなければならないことです。しかし世界的に見れば、一度も戦争が途絶えたことのない70年間だったと言えます。「地域紛争」と言い直そうとしても、やはり銃声の止むことはなく戦争状態は世界において日増しに高まっていると思わざるを得ません。それはわたしたちには無関係なのか。いや太平洋戦争後の朝鮮戦争において日本は大きな経済復興の足場を得たと言われますし、ベトナム戦争も日本の基地から爆撃機は飛び立っているのです。

 

 

イスラム原理主義といわれる人たちの考え方や行動は、想像を絶するものですが、しかしあの貧困、生まれた時から戦いと憎悪の中で生きて来た多くの人たちが現に存在していること。それらを思いながらの「戦後70年」です。

 

                                教区主教

 

あけぼの 2015年7月号

欅並木から 第12回「『祈祷書改正準備委員会』のこと」

昨年の日本聖公会総会は礼拝や祈祷書に関わることで二つの大事な決議をしました。一つは「堅信前の陪餐」に関すること(第1回の協賛・来年再度協議)、そしてもう一つが祈祷書の改正に関する件です。まだ「改正委員会」を立てたのではなく、「改正準備委員会」であり、どのようにして、どのような方向性を持って、新しい時代の祈祷書を準備していくか、予備的な段階から検討する使命を与えられています。委員は8名、わたしは担当主教です。

 
聖公会は16世紀に最初の祈祷書を完成することによって成立した教会です(1549年)。ローマ・カトリック教会から独立し、しかし古代からの良い伝統は守り、大陸の宗教改革の新しい影響も受け、聖書も祈りも一般の人が自分の言葉で読めるように(それまでは庶民のわからないラテン語)という大きな改革でした。政治的にも王室と議会、貴族と市民階級等が勢力を争い、カトリックとピューリタンの両方の緊張関係もありました。その中で、考え方や生き方はいろいろあっても、礼拝は共通の祈祷書によって一緒に捧げられるように、教会としても国民としても一致しようと願って、祈祷書は作られたのでした。

 
祈祷書写真しかし最初の祈祷書から3年後にはずいぶん異なった性格の第2祈祷書(1552年)が現れるとか、ヘンリー8世、エドワードの後、メアリーが女王になると、祈祷書は廃止され、作成した主教は火あぶりになるとか、祈祷書の歴史は大変な歴史でもあります。

 

 

現代の状況はまったく違いますが、それでも聖公会の宝であり、一人一人にとっても大切な礼拝の書、祈りの書がどのようなものとなっていくのか、いくべきなのか、どうぞこの検討・研究作業の上に神様の導きとお守りがありますようにお祈りください。

教区主教

あけぼの 2015年9月号

欅並木から 第13回「沖縄・広島・長崎」

広島写真今年は6月に沖縄・慰霊の日の礼拝に参加、そして8月には広島、長崎における戦後70周年・原爆投下70周年の記念礼拝、記念行事に参加いたしました。沖縄と広島は日本聖公会全教区主教の参加によるものでした。

 
広島では5日に平和公園でのカトリック教会と合同の祈りの集い、平和行進、カトリックの世界平和記念聖堂での合同礼拝、6日は広島復活教会での原爆逝去者記念聖餐式に参加。長崎では8日は爆心地公園での平和の祈り、9日の主日は長崎聖三一教会での「死の同心円から平和の同心円へ」と題した被爆70年・原爆記念礼拝に参加しました。礼拝以外にも前後にさまざまな平和を学び祈るプログラムもあり、青年たちを中心とした「平チャリ」―広島―長崎を巡礼のように自転車で走る、という熱いプログラムもありました。わたしは礼拝だけの参加ですが、それでも広島、長崎それぞれの原爆投下時間の黙想は、現在東北教区も主教座聖堂で毎月11日、午後2時46分に行っている黙想も連想しながら、その瞬間に起こったことに懸命に思いを巡らせていました。

 
3つの教区を訪問したわけですが、神戸と九州、そして沖縄の3教区が「犠牲者を悼み、平和を祈る」ということにおいてお互いに連帯している姿が印象的でした。今回だけでなく、常にお互いの平和のプログラムに関心と関わりを持ち、主教方も役割を担いあっているようでした。3教区は「平和祈念教区」として結ばれているのだなと感じた次第です。

 
それぞれの豊かさ、強さによってという以上に、それぞれが抱く痛みにおいてこそ、わたしたちは信仰的に強く結ばれるのだろうと感じます。

 
東北教区はどうでしょう。東日本大震災の痛みを思いつつ、誰とどのようにつながり、祈り、働いていくでしょうか。

 

教区主教

あけぼの 2015年10月号

欅並木から 第14回「韓国との交流、協働のこと」

李贊煕司祭がご家族と共に、日本、東北教区に来られたのが2009年11月、それから東北教区での働きが始まりました。大韓聖公会と日本聖公会の間で交わされている宣教協働者派遣の協定によって李司祭はこの11月で2期6年を終えられますが、さらに3年の延長の契約を交わすことになっています。李司祭の健康と働き、またご家族のためお祈りし、ますます多くの教区の皆様との良い交わりが出来ますよう願っています。

 
一方、東北教区と大田教区の交流、宣教協働は2005年から始まり、現在10年目となりました。1期3年の3期9年が過ぎ、昨年教区会から新たな5年間の交流延長が始まっています。

 
東北教区の長い歴史の中で、ルイジアナをはじめ、いわゆるアメリカ、ヨーロッパのキリスト教には馴染みがあっても、アジアのキリスト教、韓国との交流はほとんどなかったのではないでしょうか?

 
それでも皆様が李司祭との交わり、韓国との交わりを自然に喜んで受け入れてくださったことは素晴らしいと感じています。

 

テジョン教区ポクデードン教会にて

テジョン教区ポクデードン教会にて

わたし自身、聖公会の司祭の家庭に生まれ育ちましたが、目はいつも「欧米」を向いていたと思います。神学生になって初めて、韓国との出会いがありました。日韓の歴史のこと、在日韓国朝鮮人の人たちの日本社会での労苦のこと、それらを知るにつれ、また最初は緊張感を持ちながらも韓国の友人が出来るにつれ、わたし自身が「自分が日本人である」ことを自覚し、いわば「自分は何者なのか」という問いに向き合うためには、どうしても韓国が必要だと思うようになったのです。政治的には難しい状況が続いていますが、そういう中でも絆を強めていく日韓聖公会の交わり。どうぞこれからも積極的な関心を持っていていただきたいと願います。

(教区主教)

あけぼの 2015年11月号

欅並木から 第15回「野村潔司祭への感謝」

9月10日に、中部教区司祭、テモテ野村潔師が逝去されました。63歳という若さでした。東北教区に奉職された野村義雄司祭のお孫さんですし、秋田の教会にご縁があります。長く中部教区の司祭として、とくに名古屋学生青年センター等、教会の社会宣教の現場で、多くの人たち、とくに若い人たちに大きな影響を与えながら働き続けられました。

 
東日本大震災発生の1週間後、名古屋から新潟、山形を経由して管区のスタッフも共に仙台に駆けつけてくださった中に、もちろん野村司祭の姿がありました。それ以降、「いっしょに歩こう!プロジェクト」の設立メンバーとして、2年間、本当にしばしば仙台に通い、プロジェクトの屋台骨であり続けたと言って過言ではありません。非常にラディカルな社会活動家的な顔、社会的な弱者に対する徹底した共感の姿勢と共に、生ぬるい面も多い教会、とくに東北教区の現実に対しても理解を示しつつ一緒に歩いてくださったと思います。「聖公会というのは、周りから、『まだそんなことやってるの?』と言われるくらいに、急に目覚ましいことは出来なくても、しつこくやり続ける教会なんだよ」と、プロジェクトの初期に言われていた言葉は、震災後の現在の東北教区に対して、今でも意味深い言葉だと思います。2年間のプロジェクトの後、日本聖公会の「原発と放射能に関する特別問題プロジェクト」の長となられましたが、その頃から体調が思わしくないような話も聞いていました。

 

震災直後支援実は2003年に行われた東北教区主教選挙で、候補のお一人としてお名前が挙がっていたことを知っています。野村司祭が東北教区主教だったら、ずいぶん教区の姿勢や雰囲気も変わったのではないかと、時々思います。感謝と共に改めてその姿勢から学ぶ必要があると思うのです。

(教区主教)

あけぼの 2015年12月号

写真:東日本大震災直後、支援にかけつけてくださった野村司祭(右端・山形聖ペテロ教会にて)

欅並木から 第16回「声のこと―『み言葉の礼拝』の司式に寄せて―」

日本聖公会として『み言葉の礼拝』が作成され、刊行されてから数年が経ちました。司祭が不在の場合の日曜日の礼拝のためとなっており、全国の教区でかなり幅広く用いられているようです。従来の「朝の礼拝」でもよいのですが、『み言葉の礼拝』は聖餐式の場合と同じ聖書日課―旧約、使徒書、福音書―を読み、また代祷の形式も聖餐式と基本的に共通しています。つまり聖書朗読と代祷という、聖餐以外の礼拝の大切な部分を強調しているものと言えます。「朝の礼拝」ももちろん聖公会の宝ですが、日々の「聖務日課」として基本的には主日の礼拝とは異なる意図を持っていると言えます。

 

一信徒の方の年賀状に、『み言葉の礼拝』の司式者のための研修をよろしくとあり、申し訳なく思いました。努力したいと思います。
『み言葉の礼拝』でも他の礼拝の場合でも、司式者として大事なことは何かと言われれば・・・もちろんいろいろ大切なのでしょうが、わたしは「声」とお答えすると思います。司式する声です。しかし決して誤解していただきたくないのは、ただアナウンサーのように正確にきれいな声で、とか立派な声で司式してくださいと申し上げたいのではないということです。ほとんど「気持ちの問題」と言ってよいかと思います。

 
DSC_9320そこに集まっている人たちといっしょに祈ろう、多くの場合会衆は小人数でしょうが、喜んで礼拝しよう、お互いに礼拝を通して神さまに感謝と賛美を捧げ、信徒同士も力づけあおう、それが一番大切な心なのだと思います。その結果としてボソボソというよりは多少声にも力をこめたり、またそのためには姿勢もうつむいて、というよりは胸を張ったり。新しい一年、少しでも多くの方と顔を合わせて研修の機会が持てたら幸いです。

(教区主教)

あけぼの 2016年3月号

 

欅並木から 第6回「沖縄の旅・主教会」

日本聖公会 東北教区6月24日(火)から27日(金)まで、定期主教会が沖縄で開催されました。定期主教会は基本的に年3回で、一回は東京のナザレ修女会で開催し、あとは各教区を順番に回ります。その教区の宣教課題があるところ、是非紹介したい働き等を訪問する良い機会になっています。最も通常2泊3日の日程の大半は会議室に缶詰で、数十に及ぶ報告や協議事項があり、大変疲れる会合ですが、同時に教区主教という同労者がお互いの状況を知合い、また日本聖公会としての一致と方向性を確認する貴重な機会ともなっています。

とくに今回は沖縄の直面している状況を学ぶため、日程も3泊4日1日長くして、その1日は沖縄の戦跡、基地のフィールドワークに充てられました。宿泊した那覇おもろまちのホテル自体が高台にあり、そこは沖縄の命運を分けた激戦の丘であったとのこと。普天間基地の見学(もちろん外から)オスプレーも見えました。基地のために埋め立てが進められようとしている辺野古では全員小舟に乗って海に出て、その状況の説明を受けました。本当に戦い続けている島という印象を強くしました。

 

沖縄でのもう一つの話題は、沖縄教区が現主教を総会で与えられるまで、主教選出に難渋し、教役者数、信徒数も少ない中で教区としての将来をどう考えるのかということでした。しかし教役者や信徒数の減少・高齢化は沖縄に限らず、全国的な問題です。沖縄教区は確かに小さな教区でしょうが、しかし非常に大きな課題に取り組みながら、独自の歴史と文化をもって大変生き生きとしていると感じました。教区でも教会でもそうなのでしょう。規模の大小の問題よりも、自分たちの現実に真剣に向き合う中から、信仰的な力も与えられてくるのだと感じさせられた沖縄の主教会、旅でした。

欅並木から 第17回「ナザレの家に想う」

6fae5a92-s仙台市青葉区台原にある「ナザレの家」は、太平洋戦争後、戦前の「婦人伝道師および幼稚園教師の養成機関」であった青葉女学院復興の希望のもと、現在同区内小松島にある青葉静修館となる建物、幼稚園、さらには教会、牧師館という総合的な視野の中で建築され、とくに1956年に中村信蔵主教の招聘によって来日した米国・変容貌修女会のシスター方が居住して幼稚園への奉仕活動の拠点となった、意義深い歴史を持つものでした。

 

時を経てナザレ修女会の仙台支部となり、また東北教区へと譲渡されてきました。その後も主教や司祭が居住されたり、東日本大震災前まで、宗教学者の山形孝夫氏(宮城学院女子大学長等を歴任)が「命を考える会」、ホスピス・ケアの会の会場とされる等、用いられてきました。大震災による被害と建物・諸設備全体の老朽化からその使用を止めましたが、大震災後の2年間は全国から集まる支援活動スタッフ・ボランティアの住居、活動拠点となって、まさに大活躍したことは、「ナザレの家」の記念にふさわしかったように思います。

 
昨年の臨時教区会で建物の解体、土地の売却が決定しており、この5月からは具体的な作業も進められようとしています。しかし、たんなる解体、売却ではなく、歴史を振り返りながら、小松島にある教会、幼稚園の働き、また同じように黙想・研修的な施設であった青葉静修館の働きを覚えての、新しい形へと繋がっていこうとしていますし、またそうでなければならないと思います。シスター方がおられた頃のことを良く知る信徒はもちろん、近隣の方も多く、やはり「ナザレの家」が一つの幕を降ろすことは残念と思われることでしょう。

 
良い形の記念を残すことが出来ますようにと願っています。

(教区主教)

あけぼの 2016年6月号

欅並木から 第7回「個人としては良い人」

日本聖公会 東北教区8月11日から15日まで、仙台で第7回日韓青年セミナーが開催されました。日本側の参加者11名、韓国から12名、それにスタッフも加わっての会合でした。司祭おひとりと青年4人は東北教区と交流を持つテジョン教区からの参加者でした。私は最終日前夜のふりかえりの会合に参加、そして15日の閉会礼拝の説教を担当しました。(8月15日に日韓の青年を前に説教するというのは試練でした)部分参加ですが、全体に和やかな雰囲気を感じました。韓国と日本の現在の難しい国際情勢・外交関係を思うと不思議な気持ちもします。

 

私自身、初めての韓国訪問、交流プログラムへの参加は1985年、6年だったと思います。東京教区とソウル教区の青年交流として、翌年には聖公会神学院のプログラムで訪韓しています。神学生同士の熱い交流で世の明けるまで語り合い、マッコルリを一つの椀で酌み交わし、雑魚寝をしました。当時の韓国は民主化闘争といわれる状況もあり、活動する教会の青年の中で逮捕されている人もいるという、そんな緊張感もありました。日韓関係の厳しさ、歴史問題からくる葛藤を抱えつつも、韓国と日本の青年、神学生の交わりは大変温かいものでした。

 

そういう中で、ふと言われた言葉が今も耳に残っています。「日本人は一人ひとりはとても良い人なのだけれど、国となった時に違ってくる。」本当にそうだろうなという思いを持ちました。個人的には皆良い人で、良心的で、友情も分かち合える。しかし日本という国として何かか発信されたときには違ってくると。現在はどうなのだろうか、あまり変わっていないのではないかと気にしつつ、しかしともかく顔を合わせて交流をし続ける意義の大きさは確信しています。  今年は日韓聖公会宣教協働30周年記念の年です。

欅並木から 第18回「やっぱり人!?」

160627_1455444月下旬に開催された宣教部会は、ゲストに東京の社会福祉法人葛飾学園理事長の山口千晴氏をお招きして、お話を伺う時を持ちました。実は私は東京教区の執事時代約7年間、葛飾にある葛飾茨十字教会(葛飾学園と同じ敷地)で主日勤務をしていたので、大変懐かしく思う一時でした。

 
しかし私が関係した四半世紀前には葛飾学園という一つの保育園であった働きが、今や加えて10カ所に近い学童保育クラブと、さらに軽費老人ホーム・ケアハウス サンピエールおよび他に2か所の高齢者への奉仕の働きを展開しておられ、そのお働きからのお話を伺ったわけです。「すごい」と思わされますし、いろいろと具体的なご苦労も(そのほんの一部でしょうが)伺うことができました。その中での一言、こうした働きに不可欠のこととして「地元出身で、事業として、ライフワークとして、他の道を諦めて」献身する人が必要と言われたこと、そして何をやっても大変有能であろう同氏ですが、「他の道を諦めて」やってきたと、自分の人生、大変残念だとニヤッと笑いながら言われたのが印象的でした。

 
東北教区の働きは教会と共に幼児教育に大変重きをおいています。それを突き詰めていく道もあるでしょう。同時に高齢者に対する働きが機関としてはないことも気になっています。何をするにも「お金がない」と。しかし決してお金について楽観視するわけではありませんが、同じかそれ以上に、「人」なのでしょう。「他の道を諦めて!地域にしっかりと足を下ろして専念する人」。何事においてもそうなのだろうと思います。聖公会の聖職者は、異動していくことにプラスとマイナスもあるでしょう。一つの地域を動かない「特任」聖職の召命もありますが。むしろ聖職者に限らない、信徒の召命にこそ、将来の大きな可能性があるのかも知れません。

(教区主教)

あけぼの 2016年7月号