教区報
主教コラム - 欅並木からの記事
欅並木から 第2回「川端先生と今橋先生 〜日本キリスト教団に属するお二人の先生のこと〜」
川端純四郎先生は、昨年2013年5月に逝去されました。東北学院キリスト教科の教員として、ドイツに留学された神学者ですが、同時にバッハの研究家として名著を著し、教会のオルガンも弾き、賛美歌を愛されたご生涯でした。さらに原発への反対、憲法9条を守る運動についても指導的な方でした。内には大変強い情熱を秘められながら、しかし本当に温厚な方で、わたしは『礼拝と音楽』という雑誌の編集企画委員として10年ほどお付き合いをさせていただきました。一度仙台駅でお見かけした時、「アレッ、大江健三郎かな」と思ったと言えば、なんとなく風貌が浮かばれるかもしれません。『3・11後を生きるキリスト教』(新教出版社)という著書も出されました。
今橋先生は今年1月に帰天された、日本キリスト教団の牧師、神学者です。川端先生同様、日本キリスト教団の礼拝と讃美歌に関する優れた指導者であられました。東京の目白にある聖書神学校の校長も務められましたが、聖公会の礼拝の伝統に対しても温かい関心を持ち続けられ、私も何度か学びの時をご一緒することがありました。最後の出版となった書物は、聖公会のオックスフォード運動の指導者の一人、詩人であったジョン・キーブルの詩集の翻訳でした。『光射す途へとー教会歴による信仰詩集』(日本キリスト教団出版局)です。最後の書評を書く光栄を与えられましたが、是非皆様にもご紹介したく思います。なじみ深い朝の聖歌「来る朝ごとに」、夕の聖歌「わがたまの光」、そして「心清き人はつねに」等、キーブルの詩数曲が『日本聖公会聖歌集』に入っています。
優れた他教派の先生方との交わりとその恵みを覚えたく、ここに書かせていただきました。
欅並木から 第23回「オ~、お互いを忍耐して~」
かつてわたしはカトリックの学校で学ぶ機会を与えられました。いわゆる「典礼学」(聖公会では礼拝学)の当時の大家・土屋吉正神父のもとで学ぶためでした。もう四半世紀も前ですが、当時そこにはなかなか優れた内外の神学者が揃っておられたと思います。そのお一人がペトロ・ネメシェギ神父という方で、世界のローマ・カトリック教会の神学会議にも属する、イエズス会の司祭であられました。その方の講義が充実していたのは勿論ですが、時に教会や修道会のことをユーモラスに語られることもありました。ある時の話。
「修道院は大変で~す。世界中の修道者が集まっています。ドイツ人は理屈ばかり言っていま~す。イタリア人とアメリカ人はいつもうるさい、賑やかで~す。英国人は頑固で~す。日本人はむっつりと黙っていま~す。でもわたしたちは~お互いを忍耐して~、神様の栄光を顕すので~す!!」。
教室は笑いに包まれました。もっとも信仰的な成熟した共同体である筈の修道会、修道院です。しかし、ただ皆が気心が知れて仲良しなのではない、まったくありませんと。しかも修道院は基本的には一生付き合うのですから大変そうです。しかし「お互いを忍耐して、神様の栄光を顕す」のですと。
わたしは笑いながら、大変印象的な言葉として記憶しました。お互いに仲良く、すべてを認めあえていれば理想的でしょう。しかし修道院でもそんなことはない。いやイエスの十二使徒でさえ、まったくそうではないようです。
多様であるということは時にお互いに忍耐を要する、ということと同義なのではないかとさえ思います。それでも同じ神様に召され、「神の栄光を顕すために」、その大きな目的の中に召されているのです。
わたしたちの中ではどうでしょうか?
(教区主教)
あけぼの2017年6月号
* 主教コラム「欅並木から」は今号をもって終了いたします。ご愛読、ありがとうございました。
欅並木から 第1回「主教コラム(初回はタイトル未定でした。)」
かつては「旅する教会」と「台原だより」をこの「あけぼの」に連載していました。「旅する教会」はその後単行本になり、いくつかの教会の読書会等でも用いてくださったとか、感謝しています。主教としての日々の雑感や折々の事柄を綴っていた「台原だより」は東日本大震災の発生の中で途絶えていました。
大震災から三年目を迎える今、決して余力が出来てきたわけではありませんが、やはり少しずつ書かせていただこうということになりました。タイトルは未定です。
さて、東北教区主教座聖堂・仙台基督教会の新しい礼拝堂、教区と教会の施設がいよいよ完成、3月1日に聖別式ということになりました。仙台における伝道の開始は一八九四年、民家から出発し、一九〇五年に現在地に「新築会堂聖別式挙行」、一九三四年に東北地方部の大聖堂に、そして一九四五年七月、仙台大空襲により焼失という歴史を持っています。今回も古い赤レンガが発掘され、記念されようとしています。前の聖堂は一九五七年に聖別されていますが、一九七八年の宮城沖地震等によって被害を受けてもいます。いずれの教会でもそうですが、歴史を感じます。建物の歴史もそうですが、その中で祈り続けてきた信徒の信仰と祈りの歴史があります。
教会の建築というのは大変です。個人の家や会社とは違った意味で、一人一人の信仰に基づいた思いがあります。それをまとめてきた関係者の労苦に敬意を表し感謝します。建物が完成した後も、様々な課題は出てくるでしょう。しかし皆が祈り続けながら、癒しと和解と回復の家としての中身を作り上げていかなければならないのだと思います。大震災の中で、全国の多くの人に祈られ支えられてきた聖堂としての新しい歴史が始まるのでしょう。
欅並木から 第8回「分けあったミカン」
10月に韓国・済州島で開催された日韓聖公会宣教協働30周年記念大会で、テジョン教区の主教被選者ユ・ナッジュン師とお会いすることができました。ほぼ初対面の同師ですが、まったく些細な、しかし印象的な出来事を一つ。
たまたま小さなミカンを一つ手にとっておられた同師(済州島はミカンが銘産)、わたしの方に歩み寄って来られながら剥いたミカンを割って、数房をヒョイとわたしに差し出されました。それだけのことですが、皆さんはいかがですか?わたしはあまり一つのミカンを分け合って食べた経験はないように思います。そしてそれはユ師だけではなく、大会中、ミカンを食べている人の傍にいると、必ずヒョイと数房分けてくれるのです。
大会中、別の機会に大韓聖公会ソウル教区主教、首座主教の金根祥師父と何人かで食事をしていた時、魚の食べ方の話から韓国と日本の食事のマナーの話になりました。韓国では一匹の魚に、何人もが箸を出して一緒に食べるのは普通です。日本人は一人できれいに骨だけ残して食べてしまいます。そうでないと行儀が悪いことにもなるでしょう。韓国ではかなり身を残したまま、魚が下げられることがありますが、「残した部分は、貧しい人の取り分なんだ」と金主教。現在はそういう貧しい人はいないかも知れませんが、しかしそれは『レビ記』にも見られる思想です(19章)。一人一人が自分の皿に自分の分の食べ物を載せ、それは自分できれいに食べ尽くす、というのは、「だから日本人は親しくなりにくい」と、今は大変親しい金主教の言葉でした。
「分かち合う」感覚について、韓国と日本の違いのようなものを感じた瞬間でした。小さなパンを割って食べ、杯を回し飲みするのが聖餐式だとすれば、大変近いものを感じます。
教区主教
あけぼの 2014年12月号
欅並木から 第9回「大切なことに向けて -予告的な話-」
11月号のこのコラムで、日本聖公会が祈祷書改正に向けた準備を始めているとお伝えしました。同時に日本聖公会総会では審議、報告されていることで、教会の信仰生活に関わる大切なことが今動き出そうとしています。今回は短い紙面ですので、ごく予告的に事柄を紹介して、新年の号で改めて詳しいお話をしたいと思います。
聖公会は長い伝統の中で、洗礼だけではなく主教の按手による「堅信を受けた者、またその準備を終えて主教から特別の許可を受けた者は、陪餐することができる」(祈祷書285頁)としてきました。中世のキリスト教世界において幼児洗礼が主流となり、幼児洗礼を受けた子どもが、一定程度大きくなったら教会問答を学んで堅信を受け、そして聖餐に与る、という流れが固定していました。しかし洗礼の意味をもう一度考えてみると、それは教会の家族の一員、キリストの体となることです。家族の一員となったけれども一緒に食卓につけない、一緒に食事をしないということはやはり再考しなければならないことです。20世紀になって多くの研究や議論を経ながら、現在各国聖公会やローマ・カトリック教会でも、洗礼を受けた人(幼児も)は陪餐できるようにという変化が起こっています。洗礼の意味の重大さが見直され、子どもも含めて主の食卓に早い機会から多くの人が招かれるようにと願われています。そして堅信は一言で言えば、主教の按手によって強められ祝福され、教会の宣教の業に参与していく派遣の意味を持つことになるでしょう。
まだ時間をかける必要もある大切な課題です。現在、管区の礼拝委員会で「Q&A」作成等の作業等が進められています。今まで大切にしてきた伝統や考え方があります。冷静に、そして前向きに、ご一緒に考えていきたいと願います。
教区主教
あけぼの 2015年1月号
欅並木から 第10回「待ちつつ急ぎつつ」
「善は急げ」という言葉はよく知られています。しかし教会というところは、どうもそうではない、むしろ「善は急がない」くらいであるようです。何よりも現代の教会は信徒全体の合意形成に時間をかけていきます。主教や司祭の「鶴の一声」で物事が進むというようなことはまずありませんし、わたし自身あってはならないと思っています。
一方で、そのスピードの遅さが人を傷つけてしまう場合もあるでしょう。「対応の遅さ」、最近よく聞く言葉でいえば「危機管理能力」「スピード感のある対応力」。事柄によっては本当にそういうことも必要で、やはり教会のあり方としてディレンマを感じるところです。その見極め、スピード感のある対応をすべきなのか、じっくりと構えるべきなのか、もしかしたらそれは、主教や司祭の仕事、牧会の重要な課題なのかも知れません。
オウム真理教事件の時、作家の井上ひさしと司馬遼太郎が対談で、オウムの宗教はせせこましい(早く終末を来たらせようとしてサリンをまいた)、それに対してカトリックはやはりゆったりしている、長い目で見ている、というようなことを語り合っていました。わたし等も、教会の歴史、例えば礼拝のことを話す時、「何世紀の教会は」「中世の教会は」というようなことを平気で言います。何百年という単位が、簡単に括られてします(本当は不正確だと思いますが)。ある意味では、日本聖公会の歴史も、後には「日本の初期の教会は」と言われるのかも知れません。
だから、日々あくせく努力しなくても良いとは言いません。しかし一方では、百年や数百年、長い目で見ることも、宗教というものの眼差しなのだろうと思います。ブルームハルト父子というドイツの神学者の本の名前『待ちつつ急ぎつつ』。皆様はいかがでしょうか?
教区主教
あけぼの 2015年6月号
欅並木から 第11回「戦後70年に思う」
今年は「戦後70年」であるということが、いろいろな場面で言われます。6月の沖縄週間には全教区主教が沖縄に集まりますし、8月の広島・長崎もわたしも記念の礼拝、行事に参加します。この70年はどういう時であったのか、本当に変わったことは何なのか、変わるべきなのに変わらずに温存していることは何なのか、きちんと見詰める時と思います。社会学者・日高六郎の『戦後思想を考える』(岩波新書)は思想犯として投獄されていた哲学者・三木清が結局終戦後も解放されず、9月26日に獄死したこと、さらにその時点で政治犯のすべてが獄中におり、ロイター通信の記者の調査、取材を受けてはじめてその問題が発覚したことを伝えています。「変わったように見えて、実はできるだけ変わらずにいようとする」傾向が、わたしたち日本人の中にはあるのではないかと感じ、空恐ろしい気持ちになります。
「戦後70年」。日本が国家の名によって戦争をしなかったという意味では、それはもちろん決定的に大事なこと、守り続けなければならないことです。しかし世界的に見れば、一度も戦争が途絶えたことのない70年間だったと言えます。「地域紛争」と言い直そうとしても、やはり銃声の止むことはなく戦争状態は世界において日増しに高まっていると思わざるを得ません。それはわたしたちには無関係なのか。いや太平洋戦争後の朝鮮戦争において日本は大きな経済復興の足場を得たと言われますし、ベトナム戦争も日本の基地から爆撃機は飛び立っているのです。
イスラム原理主義といわれる人たちの考え方や行動は、想像を絶するものですが、しかしあの貧困、生まれた時から戦いと憎悪の中で生きて来た多くの人たちが現に存在していること。それらを思いながらの「戦後70年」です。
教区主教
あけぼの 2015年7月号
欅並木から 第12回「『祈祷書改正準備委員会』のこと」
昨年の日本聖公会総会は礼拝や祈祷書に関わることで二つの大事な決議をしました。一つは「堅信前の陪餐」に関すること(第1回の協賛・来年再度協議)、そしてもう一つが祈祷書の改正に関する件です。まだ「改正委員会」を立てたのではなく、「改正準備委員会」であり、どのようにして、どのような方向性を持って、新しい時代の祈祷書を準備していくか、予備的な段階から検討する使命を与えられています。委員は8名、わたしは担当主教です。
聖公会は16世紀に最初の祈祷書を完成することによって成立した教会です(1549年)。ローマ・カトリック教会から独立し、しかし古代からの良い伝統は守り、大陸の宗教改革の新しい影響も受け、聖書も祈りも一般の人が自分の言葉で読めるように(それまでは庶民のわからないラテン語)という大きな改革でした。政治的にも王室と議会、貴族と市民階級等が勢力を争い、カトリックとピューリタンの両方の緊張関係もありました。その中で、考え方や生き方はいろいろあっても、礼拝は共通の祈祷書によって一緒に捧げられるように、教会としても国民としても一致しようと願って、祈祷書は作られたのでした。
しかし最初の祈祷書から3年後にはずいぶん異なった性格の第2祈祷書(1552年)が現れるとか、ヘンリー8世、エドワードの後、メアリーが女王になると、祈祷書は廃止され、作成した主教は火あぶりになるとか、祈祷書の歴史は大変な歴史でもあります。
現代の状況はまったく違いますが、それでも聖公会の宝であり、一人一人にとっても大切な礼拝の書、祈りの書がどのようなものとなっていくのか、いくべきなのか、どうぞこの検討・研究作業の上に神様の導きとお守りがありますようにお祈りください。
教区主教
あけぼの 2015年9月号
欅並木から 第13回「沖縄・広島・長崎」
今年は6月に沖縄・慰霊の日の礼拝に参加、そして8月には広島、長崎における戦後70周年・原爆投下70周年の記念礼拝、記念行事に参加いたしました。沖縄と広島は日本聖公会全教区主教の参加によるものでした。
広島では5日に平和公園でのカトリック教会と合同の祈りの集い、平和行進、カトリックの世界平和記念聖堂での合同礼拝、6日は広島復活教会での原爆逝去者記念聖餐式に参加。長崎では8日は爆心地公園での平和の祈り、9日の主日は長崎聖三一教会での「死の同心円から平和の同心円へ」と題した被爆70年・原爆記念礼拝に参加しました。礼拝以外にも前後にさまざまな平和を学び祈るプログラムもあり、青年たちを中心とした「平チャリ」―広島―長崎を巡礼のように自転車で走る、という熱いプログラムもありました。わたしは礼拝だけの参加ですが、それでも広島、長崎それぞれの原爆投下時間の黙想は、現在東北教区も主教座聖堂で毎月11日、午後2時46分に行っている黙想も連想しながら、その瞬間に起こったことに懸命に思いを巡らせていました。
3つの教区を訪問したわけですが、神戸と九州、そして沖縄の3教区が「犠牲者を悼み、平和を祈る」ということにおいてお互いに連帯している姿が印象的でした。今回だけでなく、常にお互いの平和のプログラムに関心と関わりを持ち、主教方も役割を担いあっているようでした。3教区は「平和祈念教区」として結ばれているのだなと感じた次第です。
それぞれの豊かさ、強さによってという以上に、それぞれが抱く痛みにおいてこそ、わたしたちは信仰的に強く結ばれるのだろうと感じます。
東北教区はどうでしょう。東日本大震災の痛みを思いつつ、誰とどのようにつながり、祈り、働いていくでしょうか。
教区主教
あけぼの 2015年10月号
欅並木から 第14回「韓国との交流、協働のこと」
李贊煕司祭がご家族と共に、日本、東北教区に来られたのが2009年11月、それから東北教区での働きが始まりました。大韓聖公会と日本聖公会の間で交わされている宣教協働者派遣の協定によって李司祭はこの11月で2期6年を終えられますが、さらに3年の延長の契約を交わすことになっています。李司祭の健康と働き、またご家族のためお祈りし、ますます多くの教区の皆様との良い交わりが出来ますよう願っています。
一方、東北教区と大田教区の交流、宣教協働は2005年から始まり、現在10年目となりました。1期3年の3期9年が過ぎ、昨年教区会から新たな5年間の交流延長が始まっています。
東北教区の長い歴史の中で、ルイジアナをはじめ、いわゆるアメリカ、ヨーロッパのキリスト教には馴染みがあっても、アジアのキリスト教、韓国との交流はほとんどなかったのではないでしょうか?
それでも皆様が李司祭との交わり、韓国との交わりを自然に喜んで受け入れてくださったことは素晴らしいと感じています。
わたし自身、聖公会の司祭の家庭に生まれ育ちましたが、目はいつも「欧米」を向いていたと思います。神学生になって初めて、韓国との出会いがありました。日韓の歴史のこと、在日韓国朝鮮人の人たちの日本社会での労苦のこと、それらを知るにつれ、また最初は緊張感を持ちながらも韓国の友人が出来るにつれ、わたし自身が「自分が日本人である」ことを自覚し、いわば「自分は何者なのか」という問いに向き合うためには、どうしても韓国が必要だと思うようになったのです。政治的には難しい状況が続いていますが、そういう中でも絆を強めていく日韓聖公会の交わり。どうぞこれからも積極的な関心を持っていていただきたいと願います。
(教区主教)
あけぼの 2015年11月号
欅並木から 第15回「野村潔司祭への感謝」
9月10日に、中部教区司祭、テモテ野村潔師が逝去されました。63歳という若さでした。東北教区に奉職された野村義雄司祭のお孫さんですし、秋田の教会にご縁があります。長く中部教区の司祭として、とくに名古屋学生青年センター等、教会の社会宣教の現場で、多くの人たち、とくに若い人たちに大きな影響を与えながら働き続けられました。
東日本大震災発生の1週間後、名古屋から新潟、山形を経由して管区のスタッフも共に仙台に駆けつけてくださった中に、もちろん野村司祭の姿がありました。それ以降、「いっしょに歩こう!プロジェクト」の設立メンバーとして、2年間、本当にしばしば仙台に通い、プロジェクトの屋台骨であり続けたと言って過言ではありません。非常にラディカルな社会活動家的な顔、社会的な弱者に対する徹底した共感の姿勢と共に、生ぬるい面も多い教会、とくに東北教区の現実に対しても理解を示しつつ一緒に歩いてくださったと思います。「聖公会というのは、周りから、『まだそんなことやってるの?』と言われるくらいに、急に目覚ましいことは出来なくても、しつこくやり続ける教会なんだよ」と、プロジェクトの初期に言われていた言葉は、震災後の現在の東北教区に対して、今でも意味深い言葉だと思います。2年間のプロジェクトの後、日本聖公会の「原発と放射能に関する特別問題プロジェクト」の長となられましたが、その頃から体調が思わしくないような話も聞いていました。
実は2003年に行われた東北教区主教選挙で、候補のお一人としてお名前が挙がっていたことを知っています。野村司祭が東北教区主教だったら、ずいぶん教区の姿勢や雰囲気も変わったのではないかと、時々思います。感謝と共に改めてその姿勢から学ぶ必要があると思うのです。
(教区主教)
あけぼの 2015年12月号
写真:東日本大震災直後、支援にかけつけてくださった野村司祭(右端・山形聖ペテロ教会にて)
欅並木から 第16回「声のこと―『み言葉の礼拝』の司式に寄せて―」
日本聖公会として『み言葉の礼拝』が作成され、刊行されてから数年が経ちました。司祭が不在の場合の日曜日の礼拝のためとなっており、全国の教区でかなり幅広く用いられているようです。従来の「朝の礼拝」でもよいのですが、『み言葉の礼拝』は聖餐式の場合と同じ聖書日課―旧約、使徒書、福音書―を読み、また代祷の形式も聖餐式と基本的に共通しています。つまり聖書朗読と代祷という、聖餐以外の礼拝の大切な部分を強調しているものと言えます。「朝の礼拝」ももちろん聖公会の宝ですが、日々の「聖務日課」として基本的には主日の礼拝とは異なる意図を持っていると言えます。
一信徒の方の年賀状に、『み言葉の礼拝』の司式者のための研修をよろしくとあり、申し訳なく思いました。努力したいと思います。
『み言葉の礼拝』でも他の礼拝の場合でも、司式者として大事なことは何かと言われれば・・・もちろんいろいろ大切なのでしょうが、わたしは「声」とお答えすると思います。司式する声です。しかし決して誤解していただきたくないのは、ただアナウンサーのように正確にきれいな声で、とか立派な声で司式してくださいと申し上げたいのではないということです。ほとんど「気持ちの問題」と言ってよいかと思います。
そこに集まっている人たちといっしょに祈ろう、多くの場合会衆は小人数でしょうが、喜んで礼拝しよう、お互いに礼拝を通して神さまに感謝と賛美を捧げ、信徒同士も力づけあおう、それが一番大切な心なのだと思います。その結果としてボソボソというよりは多少声にも力をこめたり、またそのためには姿勢もうつむいて、というよりは胸を張ったり。新しい一年、少しでも多くの方と顔を合わせて研修の機会が持てたら幸いです。
(教区主教)
あけぼの 2016年3月号


