教区報
主教コラム - 欅並木からの記事
欅並木から 第10回「待ちつつ急ぎつつ」
「善は急げ」という言葉はよく知られています。しかし教会というところは、どうもそうではない、むしろ「善は急がない」くらいであるようです。何よりも現代の教会は信徒全体の合意形成に時間をかけていきます。主教や司祭の「鶴の一声」で物事が進むというようなことはまずありませんし、わたし自身あってはならないと思っています。
一方で、そのスピードの遅さが人を傷つけてしまう場合もあるでしょう。「対応の遅さ」、最近よく聞く言葉でいえば「危機管理能力」「スピード感のある対応力」。事柄によっては本当にそういうことも必要で、やはり教会のあり方としてディレンマを感じるところです。その見極め、スピード感のある対応をすべきなのか、じっくりと構えるべきなのか、もしかしたらそれは、主教や司祭の仕事、牧会の重要な課題なのかも知れません。
オウム真理教事件の時、作家の井上ひさしと司馬遼太郎が対談で、オウムの宗教はせせこましい(早く終末を来たらせようとしてサリンをまいた)、それに対してカトリックはやはりゆったりしている、長い目で見ている、というようなことを語り合っていました。わたし等も、教会の歴史、例えば礼拝のことを話す時、「何世紀の教会は」「中世の教会は」というようなことを平気で言います。何百年という単位が、簡単に括られてします(本当は不正確だと思いますが)。ある意味では、日本聖公会の歴史も、後には「日本の初期の教会は」と言われるのかも知れません。
だから、日々あくせく努力しなくても良いとは言いません。しかし一方では、百年や数百年、長い目で見ることも、宗教というものの眼差しなのだろうと思います。ブルームハルト父子というドイツの神学者の本の名前『待ちつつ急ぎつつ』。皆様はいかがでしょうか?
教区主教
あけぼの 2015年6月号
欅並木から 第9回「大切なことに向けて -予告的な話-」
11月号のこのコラムで、日本聖公会が祈祷書改正に向けた準備を始めているとお伝えしました。同時に日本聖公会総会では審議、報告されていることで、教会の信仰生活に関わる大切なことが今動き出そうとしています。今回は短い紙面ですので、ごく予告的に事柄を紹介して、新年の号で改めて詳しいお話をしたいと思います。
聖公会は長い伝統の中で、洗礼だけではなく主教の按手による「堅信を受けた者、またその準備を終えて主教から特別の許可を受けた者は、陪餐することができる」(祈祷書285頁)としてきました。中世のキリスト教世界において幼児洗礼が主流となり、幼児洗礼を受けた子どもが、一定程度大きくなったら教会問答を学んで堅信を受け、そして聖餐に与る、という流れが固定していました。しかし洗礼の意味をもう一度考えてみると、それは教会の家族の一員、キリストの体となることです。家族の一員となったけれども一緒に食卓につけない、一緒に食事をしないということはやはり再考しなければならないことです。20世紀になって多くの研究や議論を経ながら、現在各国聖公会やローマ・カトリック教会でも、洗礼を受けた人(幼児も)は陪餐できるようにという変化が起こっています。洗礼の意味の重大さが見直され、子どもも含めて主の食卓に早い機会から多くの人が招かれるようにと願われています。そして堅信は一言で言えば、主教の按手によって強められ祝福され、教会の宣教の業に参与していく派遣の意味を持つことになるでしょう。
まだ時間をかける必要もある大切な課題です。現在、管区の礼拝委員会で「Q&A」作成等の作業等が進められています。今まで大切にしてきた伝統や考え方があります。冷静に、そして前向きに、ご一緒に考えていきたいと願います。
教区主教
あけぼの 2015年1月号
欅並木から 第8回「分けあったミカン」
10月に韓国・済州島で開催された日韓聖公会宣教協働30周年記念大会で、テジョン教区の主教被選者ユ・ナッジュン師とお会いすることができました。ほぼ初対面の同師ですが、まったく些細な、しかし印象的な出来事を一つ。
たまたま小さなミカンを一つ手にとっておられた同師(済州島はミカンが銘産)、わたしの方に歩み寄って来られながら剥いたミカンを割って、数房をヒョイとわたしに差し出されました。それだけのことですが、皆さんはいかがですか?わたしはあまり一つのミカンを分け合って食べた経験はないように思います。そしてそれはユ師だけではなく、大会中、ミカンを食べている人の傍にいると、必ずヒョイと数房分けてくれるのです。
大会中、別の機会に大韓聖公会ソウル教区主教、首座主教の金根祥師父と何人かで食事をしていた時、魚の食べ方の話から韓国と日本の食事のマナーの話になりました。韓国では一匹の魚に、何人もが箸を出して一緒に食べるのは普通です。日本人は一人できれいに骨だけ残して食べてしまいます。そうでないと行儀が悪いことにもなるでしょう。韓国ではかなり身を残したまま、魚が下げられることがありますが、「残した部分は、貧しい人の取り分なんだ」と金主教。現在はそういう貧しい人はいないかも知れませんが、しかしそれは『レビ記』にも見られる思想です(19章)。一人一人が自分の皿に自分の分の食べ物を載せ、それは自分できれいに食べ尽くす、というのは、「だから日本人は親しくなりにくい」と、今は大変親しい金主教の言葉でした。
「分かち合う」感覚について、韓国と日本の違いのようなものを感じた瞬間でした。小さなパンを割って食べ、杯を回し飲みするのが聖餐式だとすれば、大変近いものを感じます。
教区主教
あけぼの 2014年12月号
欅並木から 第7回「個人としては良い人」
8月11日から15日まで、仙台で第7回日韓青年セミナーが開催されました。日本側の参加者11名、韓国から12名、それにスタッフも加わっての会合でした。司祭おひとりと青年4人は東北教区と交流を持つテジョン教区からの参加者でした。私は最終日前夜のふりかえりの会合に参加、そして15日の閉会礼拝の説教を担当しました。(8月15日に日韓の青年を前に説教するというのは試練でした)部分参加ですが、全体に和やかな雰囲気を感じました。韓国と日本の現在の難しい国際情勢・外交関係を思うと不思議な気持ちもします。
私自身、初めての韓国訪問、交流プログラムへの参加は1985年、6年だったと思います。東京教区とソウル教区の青年交流として、翌年には聖公会神学院のプログラムで訪韓しています。神学生同士の熱い交流で世の明けるまで語り合い、マッコルリを一つの椀で酌み交わし、雑魚寝をしました。当時の韓国は民主化闘争といわれる状況もあり、活動する教会の青年の中で逮捕されている人もいるという、そんな緊張感もありました。日韓関係の厳しさ、歴史問題からくる葛藤を抱えつつも、韓国と日本の青年、神学生の交わりは大変温かいものでした。
そういう中で、ふと言われた言葉が今も耳に残っています。「日本人は一人ひとりはとても良い人なのだけれど、国となった時に違ってくる。」本当にそうだろうなという思いを持ちました。個人的には皆良い人で、良心的で、友情も分かち合える。しかし日本という国として何かか発信されたときには違ってくると。現在はどうなのだろうか、あまり変わっていないのではないかと気にしつつ、しかしともかく顔を合わせて交流をし続ける意義の大きさは確信しています。 今年は日韓聖公会宣教協働30周年記念の年です。
欅並木から 第6回「沖縄の旅・主教会」
6月24日(火)から27日(金)まで、定期主教会が沖縄で開催されました。定期主教会は基本的に年3回で、一回は東京のナザレ修女会で開催し、あとは各教区を順番に回ります。その教区の宣教課題があるところ、是非紹介したい働き等を訪問する良い機会になっています。最も通常2泊3日の日程の大半は会議室に缶詰で、数十に及ぶ報告や協議事項があり、大変疲れる会合ですが、同時に教区主教という同労者がお互いの状況を知合い、また日本聖公会としての一致と方向性を確認する貴重な機会ともなっています。
とくに今回は沖縄の直面している状況を学ぶため、日程も3泊4日1日長くして、その1日は沖縄の戦跡、基地のフィールドワークに充てられました。宿泊した那覇おもろまちのホテル自体が高台にあり、そこは沖縄の命運を分けた激戦の丘であったとのこと。普天間基地の見学(もちろん外から)オスプレーも見えました。基地のために埋め立てが進められようとしている辺野古では全員小舟に乗って海に出て、その状況の説明を受けました。本当に戦い続けている島という印象を強くしました。
沖縄でのもう一つの話題は、沖縄教区が現主教を総会で与えられるまで、主教選出に難渋し、教役者数、信徒数も少ない中で教区としての将来をどう考えるのかということでした。しかし教役者や信徒数の減少・高齢化は沖縄に限らず、全国的な問題です。沖縄教区は確かに小さな教区でしょうが、しかし非常に大きな課題に取り組みながら、独自の歴史と文化をもって大変生き生きとしていると感じました。教区でも教会でもそうなのでしょう。規模の大小の問題よりも、自分たちの現実に真剣に向き合う中から、信仰的な力も与えられてくるのだと感じさせられた沖縄の主教会、旅でした。
欅並木から 第5回「ヘイトクライム、ヘイトスピーチ」
5月27日から29日まで、第61回の日本聖公会定期総会が開催され、29の報告、35の議案が審議されました。多くの重要な報告や議案はありますが今は一つだけ。「ヘイトクライム(人種・民族憎悪犯罪)、ヘイトスピーチ(人種差別・排外表現)の根絶と真の多民族・多文化共生社会の創造を求める日本聖公会の立場」を明らかにしようとの議案が審議され可決しました。その中で実際に路上で行なわれている「ヘイトスピーチ」の映像が紹介されたのですが、本当に凄まじいものでした。韓国・朝鮮の人たちへのものが中心でしたが、「いやがらせ」等というレベルを超えて、本当に「殺すぞ」「出てこい」と激しい声で絶叫し、実際に身の危険を感じさせるものでした。その絶叫している中には中学2年生の女子だという映像もありました。対象とされる国の学校の生徒等は、恐怖で堪ったものではなく本当に申し訳なく思いますが、同時にそうした日本の若い人は何故そうした行為に駆り立てられるのだろうかと思わされます。おそらく実際に韓国、朝鮮の人たちと利害関係にあって対立した経験は少ないだろうと思います。何でもいいから、何か異質、あるいは少数者と感じるものに思いっきり憎しみをぶつけたいのでしょうか。理由が乏しいだけに余計恐ろしく感じます。「誰でもいいから殺したかった」という言葉も最近聞く言葉です。世界170か国が「人種差別撤廃条約」に批准している中、日本もそれは入っていますが、こうした「ヘイトクライム・ヘイトスピーチ」を規制し、犯罪と認める条項には批准していない、わずか5か国の一つだそうです。日本聖公会と韓国聖公会は、今年宣教協働30周年の記念の年を迎えています。歴史認識等を巡る厳しい国際関係も知りつつ、しかし信仰の交わり、宣教協力の経験、友情を積み重ねてきました。短絡的にならずに一歩ずつ歩むことを日本社会全体が重んじる必要を感じています。
欅並木から 第4回「『文字数厳守』のこと」
この『あけぼの』を毎月製作してくださっている広報委員会の労に感謝しています。またもちろん多くの方の協力、とくに寄稿がなければ出来ないことで、皆様に感謝いたします。充実した紙面ですが、少しデザイン的に写真が小さくないですかとか、文字が多過ぎませんか、と言うことがあります。その時の広報委員のお答の一つが、皆様からの原稿が、どうしてもお願いした字数より多くなるので、というものでした。いろいろと書くべき内容があるので当然とも思います。同時にわたし自身の自戒も含めて、印象的な話を思い起こします。
今では高名なある作家が若い時代、渾身の力を込めて書き上げた長編小説を大家に読んでもらったそうです。アドヴァイスは一言、「半分にしなさい」。その若い日の作家は怒りに震えましたが、しかし仕方なくその通りにして、やがてその作品は大きな賞を得て、出世作となりました。
「文章は短いほど良い」のが鉄則のようです。わたしは自慢ではありませんが、締め切りには遅れても文字数はぴったり依頼に合わせようと思ってきました。わたしも書くとまず長くなります(とくにパソコンで書くようになってから、その傾向があります)。しかし一度出来た後から、どうやって規定の文字数に合わせようかと奮闘します。同じことを重ねて言っていないか、もっと適切な表現はないか、平仮名を漢字にして詰められないか、何より内容が明瞭か。大体、自分が書きたいと思うことを書いている時には、つい勢いで言わなくても良いことまで書いていたりします。もう少し禁欲した方が、文章として良くなることの方がほとんどのようです。人に悪文を書かせるもっとも良い方法は、「制限なしで自由に書いてください」ということです。なにか自分の首を絞めるような話をしてしまいました。笑ってお許しください。
欅並木から 第3回「福音主義の教会は伸びている!?」
3月15日に英国のサザク教区・主教座聖堂で行われた東日本大震災の記念礼拝に参加してきましたことは、今号「あけぼの」に特集されています。約1週間の短い訪問でしたが、その中で何度も耳にした言葉が「福音主義の教会は伸びている。伝統的な教会はそうではない」という主旨のものでした。「福音主義」という表現が正確かどうかわかりませんが、具体的には伝統的な祈祷書や祭服も用いず、音楽もギターやドラムのバンドが担い、自由なスタイルの説教や柔軟な形の信徒の参加の雰囲気が溢れている、そういう感じと言ってよいかと思います。今回訪ねた中にもそうした教会がありました。聖公会でも、他の教派でも、とくに聖公会の場合は伝統的な祈祷書の礼拝を続けている教会は、ご高齢の方々がほとんどという印象です。
どのように考えたらよいのか、わたし自身特別な意見を持ちあわせていません。絶対に伝統的なかたちは守るべきだと固く考えてもいないし、ギターやドラムにも抵抗はないけれども、それで礼拝をすれば「現代的」で若い人もどんどん教会に来るだろうとも、とくに日本においてはあまり思えないのです。少し理屈っぽい言い方をすれば、わたしたちには「神様の遠さ」と「近さ」、両方への思いがあるのではないかと思います。「静」としての神、「動」の神、「秩序」の神、「自由」の神。
月並みの言い方ですが、教会の礼拝にもいろいろあればよいのでしょう。主日の午前中には伝統的な形がしっかりと守られ、夕方にはギター等で若者(だけとは限りませんが)中心の礼拝、あるいは実験的な礼拝や新しい歌が多く歌われる礼拝・集会がある。そういうことは海外の教会、とくに主教座聖堂等では当たり前に行なわれていることと思います。様々に経験を広げていく寛容さが必要なのでしょう。
欅並木から 第2回「川端先生と今橋先生 〜日本キリスト教団に属するお二人の先生のこと〜」
川端純四郎先生は、昨年2013年5月に逝去されました。東北学院キリスト教科の教員として、ドイツに留学された神学者ですが、同時にバッハの研究家として名著を著し、教会のオルガンも弾き、賛美歌を愛されたご生涯でした。さらに原発への反対、憲法9条を守る運動についても指導的な方でした。内には大変強い情熱を秘められながら、しかし本当に温厚な方で、わたしは『礼拝と音楽』という雑誌の編集企画委員として10年ほどお付き合いをさせていただきました。一度仙台駅でお見かけした時、「アレッ、大江健三郎かな」と思ったと言えば、なんとなく風貌が浮かばれるかもしれません。『3・11後を生きるキリスト教』(新教出版社)という著書も出されました。
今橋先生は今年1月に帰天された、日本キリスト教団の牧師、神学者です。川端先生同様、日本キリスト教団の礼拝と讃美歌に関する優れた指導者であられました。東京の目白にある聖書神学校の校長も務められましたが、聖公会の礼拝の伝統に対しても温かい関心を持ち続けられ、私も何度か学びの時をご一緒することがありました。最後の出版となった書物は、聖公会のオックスフォード運動の指導者の一人、詩人であったジョン・キーブルの詩集の翻訳でした。『光射す途へとー教会歴による信仰詩集』(日本キリスト教団出版局)です。最後の書評を書く光栄を与えられましたが、是非皆様にもご紹介したく思います。なじみ深い朝の聖歌「来る朝ごとに」、夕の聖歌「わがたまの光」、そして「心清き人はつねに」等、キーブルの詩数曲が『日本聖公会聖歌集』に入っています。
優れた他教派の先生方との交わりとその恵みを覚えたく、ここに書かせていただきました。
欅並木から 第1回「主教コラム(初回はタイトル未定でした。)」
かつては「旅する教会」と「台原だより」をこの「あけぼの」に連載していました。「旅する教会」はその後単行本になり、いくつかの教会の読書会等でも用いてくださったとか、感謝しています。主教としての日々の雑感や折々の事柄を綴っていた「台原だより」は東日本大震災の発生の中で途絶えていました。
大震災から三年目を迎える今、決して余力が出来てきたわけではありませんが、やはり少しずつ書かせていただこうということになりました。タイトルは未定です。
さて、東北教区主教座聖堂・仙台基督教会の新しい礼拝堂、教区と教会の施設がいよいよ完成、3月1日に聖別式ということになりました。仙台における伝道の開始は一八九四年、民家から出発し、一九〇五年に現在地に「新築会堂聖別式挙行」、一九三四年に東北地方部の大聖堂に、そして一九四五年七月、仙台大空襲により焼失という歴史を持っています。今回も古い赤レンガが発掘され、記念されようとしています。前の聖堂は一九五七年に聖別されていますが、一九七八年の宮城沖地震等によって被害を受けてもいます。いずれの教会でもそうですが、歴史を感じます。建物の歴史もそうですが、その中で祈り続けてきた信徒の信仰と祈りの歴史があります。
教会の建築というのは大変です。個人の家や会社とは違った意味で、一人一人の信仰に基づいた思いがあります。それをまとめてきた関係者の労苦に敬意を表し感謝します。建物が完成した後も、様々な課題は出てくるでしょう。しかし皆が祈り続けながら、癒しと和解と回復の家としての中身を作り上げていかなければならないのだと思います。大震災の中で、全国の多くの人に祈られ支えられてきた聖堂としての新しい歴史が始まるのでしょう。