教区報

主教コラム

ほそ道から 第1回

今月から教区報『あけぼの』のコラムを執筆することになりました。編集担当者から「このコラムの名前はどうしますか」と言われて、「そう言えば加藤主教様の時は『台原だより』とか『欅並木から』。他教区の主教さんのコラムも、洒落た名前がついていたような・・・」。というわけで、コラムの中味とは別のことを考え始めてしまいました。

 

主教室の窓から外を眺めていますと、晩翠通が目に入ります。うん、『晩翠通から』でどうだろう。いやいや、東北教区は仙台だけじゃないし。東北から連想して、みちのく、奥の細道。しかしこれでは芭蕉の真似になってしまう。それじゃあ『ほそ道から』では?   晩翠通も昔は細横丁と呼ばれていたそうですし、こじつけみたいですが、聖書にも「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか(マタ7・14)」という御言葉がありました。

 

「道」という言葉はとても意味深い言葉のようです。最近も「相撲道」という言葉が盛んに使われていましたし、スポーツだけでなく「茶道」や「華道」のように文化的なものも、日本では「道」になってしまいます。聖書の言葉で「道」というのは、道以外に旅、途中、途上といった意味もあります。その意味では、私たちも「信仰の旅の途上」にいるのでしょう。問題はどの方向を向いて旅しているのか、ということですが。

 

仙台に住み始めて戸惑ったことが一つあります。毎日、車で通勤していますが、主要道路は碁盤目状に近いので、すぐに道を覚えられると思ったのです。ところが時々方向感覚が狂っている自分に気づきました。南に走っていると思ったら、実は西だったりして。今まで生活してきた所では、山は北、海は南でした。ところがこの地は山は西、海は東なのだと。回心の半分、90度だけ自分の磁石を変えて「に迷わない」ようにしなければなりません。

 

教区主教

 

あけぼの2018年2月号