お知らせ
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5月24日・復活節第7主日 説教を掲載いたしました
先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月24日・復活節第7主日(昇天後主日)の説教を掲載いたします。
5月24日 復活節第7主日(昇天後主日)
郡山聖ペテロ聖パウロ教会・若松諸聖徒教会牧師 司祭 ヨハネ 八木正言
執り成してくださる主を覚えて
昇天日を過ぎ、教会の暦では来週、聖霊降臨日を迎える今日、わたしたちに与えられた福音はヨハネ福音書の17章です。新共同訳聖書を見ると、「イエスの祈り」という小見出しが付けられており、最後の晩餐の席において、イエスが天に目を向けて祈られた祈りが取り上げられています。聖書には、他にもイエスの祈りが記録されている箇所が何か所かあり、その中でも最も有名なのが「主の祈り」です。しかしこの「主の祈り」は、祈るときにはこう祈りなさいとイエスが教えられた、言わば祈りの模範としての「祈り」なので、イエスご自身の「個人的な祈り」とは言えないかもしれません。あるいは、ゲッセマネの園での「祈り」(「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」)もよく知られたイエスの祈りですが、それは、十字架に架けられる直前の苦悩の言葉が際立ったものとなっています。
これらに比して、今日のヨハネ福音書17章に記された祈りは、イエスの祈りの中でも最も長く、それゆえ後代には「大祭司の祈り」とも呼ばれるようになった、イエスの思いの吐露とも言える有名な祈りです。そしてそれは、御子であるイエスが父なる神に対して、わたしたちのために執り成してくださっている内容となっています。
結論から申し上げれば、今日みなさんと分かち合いたいことは、イエスご自身の祈り(思いの吐露)が、ご自身のためのものではなく「執り成しの祈り」であったということです。このことを何よりも心に留めたいと思います。
「祈り」は神との「対話」であるとはよく言われることです。確かに、神に向かって自らの思いを吐露するという意味において、それは間違った解釈ではないと思います。しかし厳密に言うと、「対話」は、自らの立場・思いを相手と擦り合わせることで、それは漢字の「対」が用いられる単語を考えると明らかです。「対立」「対抗」「対峙」「反対」などはどれも、自分の立場を明確にし、自己を確立した上で為される行為です。したがって、祈りが神との「対話」であるという場合にも、神の御心に聴くというよりも、自分はこう願う、あるいは期待しているという要素が際立つように思うのですが如何でしょうか。
では「祈り」を神との「対話」と表現するのではなく、本来の意味を包含して別言するならば、どんな表現があるでしょうか。そのヒントが、イエスのゲッセマネの園での「祈り」(「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」)の最後の一言、「御心のままに」にあるように思います。
イエスは十字架の出来事を前に、「できることなら」この苦しみを自分から去らせてほしい、そう願われました。イエスご自身の立場・思いは「苦しみを取り除いてほしい」との願い、あるいは期待であったことがうかがえます。しかしそれは「わたしの願い通り」、つまり自らの願いの成就としてではなく、「御心のままに」、すなわちそれが神の御心であるならば、ということです。自分の立場を明確にし、自己を確立した期待を投げかけるのとは違い、「主の祈り」において教えられた「御心が行われますように」との祈りとなっています。
実は「対」には、辞書によると「対う」と書いて「向かう」と読む用い方があります。「向かう」というのは、自分の立場を「離れて」他に向かうことです。会津若松に向かう、と言えば、自分のいた場所を離れて会津若松に近づいていくことを意味します。「御心のままに」というのはまさにこのことで、自分の立場とその延長線上に神を捉えるのではなく、自分の願いや期待をいったん離れて、神に近づいていくことと言えるのではないでしょうか。
さらに「向かう」は、言葉上「迎う」に通じていると言われます。向かってくるものを受け容れるのが、「迎う」ことであり「迎える」ことです。「向かう」という一方的なベクトルが、それを待ち、受け容れる側と一体になり、「迎えられる」という段階に発展していきます。わたしたちが神に「向かい」、同時に神に「迎えられ」、さらに神がわたしに向かってきてくださるのを「迎える」ことが成る、これが「祈り」だと言えるのではないでしょうか。
このように「祈り」を考えるならば、「祈り」についての、叶うとか叶わないの言説は相応しくないことになります。そして何より、わたしたちが神に「祈られている」ということも言えるようになります。そしてそれこそが「神の執り成し」と表現できるのだと思うのです。
イエスは十字架の出来事を前にした訣別の説教で、言わば地上での最後の祈りのテーマとして、わたしたちを憶えて執り成すことを選んでくださいました。だからわたしたちは祈られている存在です! 聖餐式における代祷もそうですが、誰かのために祈ること、あるいは祈られていることは大きな力であり支えです。わたしのために祈ってくれている誰かがいる! それは何と心強く、勇気を与えられると同時に感謝すべきことなのでしょう! そして、その自分のために祈ってくれている最後の砦がイエスご自身であるということを、今日の福音が告げてくれているのだと思うのです。
この至上の喜びを、今日もご一緒に心に刻みつつ、わたしたちもこの時、新型コロナウイルス罹患によって孤独と不安のうちにある方々、それらの方々のために働いておられる医療従事者のみなさん、治療薬の開発に励んでくださっているすべての方々を覚え、一堂に会することはできませんが、だからこそ今心を一つにして、共に「祈り」を献げ続けたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン