お知らせ

お知らせ - 2020年の記事

『主日礼拝ならびに教区宣教活動再開のための指針』について

先日開催された東北教区常置委員会にて、東北教区全教会において6月7日より公開の礼拝が再開されることが決定されました。
再開に際し、『東北教区における主日礼拝ならびに教区宣教活動再開のための指針』が作成されましたのでご覧ください。

 


 

東北教区 信徒・教役者の皆様へ

 

東北教区は5月23日開催の常置委員会において、5月7日以降新たな感染者が出ていない東北6県の現状等を勘案し、6月7日・三位一体主日より教区内各教会の主日礼拝を含む教会及び教区の諸活動を再開することといたしました。
しかしながら、新型コロナウイルスの感染は未だ予断を許さず、秋・冬に向けて第2波、第3波の感染拡大が懸念されているのもご存知の通りです。
そこで、当面の教区及び教会の諸活動を再開にあたり、下記の指針を示します。この指針が全てのことを網羅しているわけではありませんが、「密閉・密集・密接」にならないように注意し、再開後は従来と全く同じような礼拝や活動を行うことを前提とせず、各教会、各会議体は本指針をもとにして感染拡大の予防に努め、キリストの教会の宣教活動に取り組んでいただければと願います。
先を見通せない中にあって、「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということ(ローマ8:28)」を信じ、ご一緒に歩んで行ければ幸いです。

 

教区の皆様の上に主にある慰めと励ましが豊かにありますようにお祈りいたします。
また、一日も早い感染の収束と、入院・療養中の方々の回復、医療従事者・介護福祉施設の職員の方々のお働きの上に、主の導きと御護りをお祈りいたします。

在 主

 

2020年5月28日

東北教区主教 主教 ヨハネ 吉田雅人

 


 

『東北教区における主日礼拝ならびに教区宣教活動再開のための指針』はこちらからご覧ください。

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5月31日・聖霊降臨日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月31日・聖霊降臨日の説教を掲載いたします。

 


 

5月31日 聖霊降臨日

東北教区主教 主教 ヨハネ 吉田雅人

 

分かれ分かれにされていた私たちが、主にあって一つにしていただく

 

 

当初の予定では、私たちは 主イエス・キリストのご復活から50日がたった「聖霊降臨日」に、主日礼拝を再開し、再び集まれるとイイねと願っていましたが、残念ながら1週間伸びてしまいました。

 

今日は、約束の聖霊が弟子たちの上に降ったことを記念する聖霊降臨日で、昔から「教会の誕生日」と言われてきた祝日です。それはこの日を境にして、弟子たちが多くの人々にイエス様のことについて、公に語り始めたからです。その時の様子を使徒言行録第2章7節以下は、「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、異なる様々な国から来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」という主旨の、驚きの言葉を持って記しています。

 

そして人々がこのように驚くことになった理由を、使徒言行録第2章1節以下は、

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」

と記しています。

 

 

この出来事の中に、私たちはとても象徴的な動きを見い出すことができます。それは、「一つになっていた弟子たちの上に、炎のような聖霊が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に分かれてとどまります。しかし分かれてとどまったにもかかわらず、一人一人の弟子たちは一つの聖霊に満たされて、また一つの思いにまとまるのです。そして聖霊に満たされて一つになった弟子たちは、今度は別々の国の言葉で、神様の恵みの出来事について証言しはじめた」という、一つになることと、分かれ分かれになることが、交互に記されている、という動きです。

 

実は、この動きは、イエス様と弟子たちのとの関係の中では、最初から繰り返されていた動きでもありました。つまり、バラバラだった人がイエス様によって呼び集められて、一つの弟子団を作りました。しかしそのグループの要であったイエス様が、十字架の前に捕ってしまうと、弟子たちは別れ別れになって逃げ出してしまいます。ご復活の日の夕方、弟子たちは一つ所に集まってはいましたが、気持ちはバラバラでした。そのような弟子たちは、イエス様が昇天されるときに、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待て」と言われて、とりあえず一つになっていた時に、この聖霊降臨の出来事が起こったのです。

 

このように、弟子たちは一つになったり分かれたりという運動を、交互に繰り返してきました。それはある意味で当然のことでした。なぜなら、私たち人間には自我、自分というものがありますから、そう簡単には他の人と一緒になれないのです。私たちは自分自身から、自分の身近な人から、そして神様から離れている状態にあります。この一緒になれない状態が、罪の姿なのです。だからこそイエス様は、私たちが一つになるということを、ずっと願っておられました。イエス様は先週の福音書、ヨハネ伝第17章11節で、私たちが一つになることを願って「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように彼らも一つとなるためです」と祈り、また21節では「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と、父なる神様に祈ってくださいました。しかし、このようにイエス様が、父なる神様に一心に願わなければならないほど、私たちが一つになるというのは、難しいことなのでしょう。

 

実際のところ、私たちは気持ちや思いを一つにすることが、どれほど難しいかをよく知っています。その一つの例は、私たちの礼拝の中で、皆さんが司式者と一緒に唱える祈りが幾つかあります。大栄光の歌、ニケヤ信経、主の祈り、陪餐後の感謝などですが、これらの祈りを心を一つにして祈ることができているでしょうか。声が一人ひとりバラバラになってはいないでしょうか。もちろん私たちは、それぞれの祈りを唱えるスピードが違います。いや、違っていてありまえなのでしょう。ということは、客観的にその祈りの声を聞いた人にとっては、きっとバラバラの音に聞こえるに違いありません。ひょっとしたら気持ちもバラバラなのではないかと、思われるかもしれません。しかし、そのようなバラバラの状態にある私たち、なかなか一緒になれない私たちが「一つになる」ことを、イエス様は願っておられるのです。

 

 

では、どうすればよいのでしょうか。聖パウロはコリントの信徒への第一の手紙第12章の中で、次のように述べています。「私たちは多くの部分があっても、一つの体なのです。・・・そこで体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。

 

聖パウロはお互いに配慮し、気を配り、相手の身になって考え、喜びも苦しみも共にする思いの大切さを強調しています。と言いますのは、イエス様に倣おうとする私たちは、まさにキリストの体であり、また、一人一人はその部分だからです。有名な哲学者のカントは「友人の不幸は、われわれを不快にしない何かがある」と言ったそうですが、私たちはそれとは別の生き方、感じ方をさせていただこうと願っている者ではないでしょうか。もし私たちが、互いに配慮し合い、共に苦しみ、共に喜びましょうと言っておきながら、友人の不幸に少しでも喜びを感じるなら、そこには教会もなければ、キリスト者の生き方を見い出すこともできないでしょう。

 

しかし、それでもイエス様は、私たちが「一つになる」ことを願っておられるのです。そのためにイエス様は祈ってくださったのです。そればかりか、本日の福音書にありますように、イエス様は私たちのために「弁護者、慰め主、真理の霊を遣わしてくださいます。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」と約束してくださるのです。これが私たちの思いを一つにしてくださる聖なる霊です。つい、バラバラになることと一つになることを繰り返す私たちですが、この聖なる霊がいつも一緒にいてくださることを求めながら、お互いに配慮し合い、共に苦しみ、共に喜ぶことのできる生き方をしたいと思います。そして私たちが真実に「一つになる」ことできますよう、ますます祈り求め、キリストの体としての教会を立ち上げていきたいと思います。

 

 

父と子と聖霊の御名によって アーメン

新型コロナウィルス感染症拡大に伴うご注意No.5

2020年5月23日

東北教区各教会の皆様
教役者の皆様

日本聖公会東北教区主教
主教 ヨハネ 吉田雅人

 

新型コロナウイルス感染症拡大に伴うご注意 No.5


 

主にある平安と新型コロナウイルスに感染し、不安を感じ、医療に携わっている人々を覚えてお祈りいたします。

 

憐れみ深い神よ、病気の人、恐れを感じている人、医療に携わる人と共にいてください。その孤独の中で、慰めとなり、その不安の中で、希望となり、その暗闇の中で、光となってください。十字架の上に一人苦しみ、栄光のうちにあなたと共に統べ治められる、わたしたちの主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

 

新型コロナウイルスの感染は、夏に向かって少しずつ緩やかになってきました。
もちろん引き続き警戒が必要ですが、東北教区の六県をみますと、5月8日から新規の感染者0人という状態が15日間続いています。また今日現在で入院・療養中の方も、青森2人・宮城1人・山形5人・福島12人と20人になっています。
 この状況を踏まえ、5月23日に開かれた第7回常置委員会(Web会議)において、教区内各教会の礼拝・集会等の再開の可能性について協議いたしました。これから秋・冬に向けて、状況がどのように変化するのか予断を許しませんが、6月7日(三位一体主日)より教区内各教会の礼拝・集会等を再開できるのではないかという結論に達しました。前回の指針では5月31日からの再開を考えておりましたが、再開後の指針としてのガイドライン策定と、信徒の皆さんにそれを周知徹底していただくために、あと1週間延期することにいたしました。
 そのために、新型コロナウイルス後の新しい礼拝生活・教会活動の指針として、別途ガイドラインを後日お送りします。再開後はこのガイドラインに基づいて「新しい礼拝生活・教会活動」を共に始めていきたいと思います。
 一方で、各個教会のみならず教区の財政状況も緊急度を増し、逼迫してきている現状にあります。信徒の献金が主たる財源とするキリストの教会の健全な財政運営のために、活動再開後には、月約献金、感謝記念献金をはじめ、休止期間中のイースター献金、毎主日の信施金、ことに教区が定めた主日(青少年活動のため)、管区総会が定めた主日の献金など、各種の信施奉献に理解と協力をお願いいたします。
 復活前主日からおよそ2ヶ月の間、皆様は試練の時を過ごされたわけですが、信徒・教役者の皆さんの祈りと力を合わせて、信仰の旅路を歩んでいきたいと思います。

在 主

 


 

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5月24日・復活節第7主日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月24日・復活節第7主日(昇天後主日)の説教を掲載いたします。

 


 

5月24日 復活節第7主日(昇天後主日)
郡山聖ペテロ聖パウロ教会・若松諸聖徒教会牧師 司祭 ヨハネ 八木正言

 

執り成してくださる主を覚えて

 

 

昇天日を過ぎ、教会の暦では来週、聖霊降臨日を迎える今日、わたしたちに与えられた福音はヨハネ福音書の17章です。新共同訳聖書を見ると、「イエスの祈り」という小見出しが付けられており、最後の晩餐の席において、イエスが天に目を向けて祈られた祈りが取り上げられています。聖書には、他にもイエスの祈りが記録されている箇所が何か所かあり、その中でも最も有名なのが「主の祈り」です。しかしこの「主の祈り」は、祈るときにはこう祈りなさいとイエスが教えられた、言わば祈りの模範としての「祈り」なので、イエスご自身の「個人的な祈り」とは言えないかもしれません。あるいは、ゲッセマネの園での「祈り」(「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」)もよく知られたイエスの祈りですが、それは、十字架に架けられる直前の苦悩の言葉が際立ったものとなっています。

 

これらに比して、今日のヨハネ福音書17章に記された祈りは、イエスの祈りの中でも最も長く、それゆえ後代には「大祭司の祈り」とも呼ばれるようになった、イエスの思いの吐露とも言える有名な祈りです。そしてそれは、御子であるイエスが父なる神に対して、わたしたちのために執り成してくださっている内容となっています。

 

結論から申し上げれば、今日みなさんと分かち合いたいことは、イエスご自身の祈り(思いの吐露)が、ご自身のためのものではなく「執り成しの祈り」であったということです。このことを何よりも心に留めたいと思います。

 

「祈り」は神との「対話」であるとはよく言われることです。確かに、神に向かって自らの思いを吐露するという意味において、それは間違った解釈ではないと思います。しかし厳密に言うと、「対話」は、自らの立場・思いを相手と擦り合わせることで、それは漢字の「対」が用いられる単語を考えると明らかです。「対立」「対抗」「対峙」「反対」などはどれも、自分の立場を明確にし、自己を確立した上で為される行為です。したがって、祈りが神との「対話」であるという場合にも、神の御心に聴くというよりも、自分はこう願う、あるいは期待しているという要素が際立つように思うのですが如何でしょうか。

 

 

では「祈り」を神との「対話」と表現するのではなく、本来の意味を包含して別言するならば、どんな表現があるでしょうか。そのヒントが、イエスのゲッセマネの園での「祈り」(「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」)の最後の一言、「御心のままに」にあるように思います。

 

イエスは十字架の出来事を前に、「できることなら」この苦しみを自分から去らせてほしい、そう願われました。イエスご自身の立場・思いは「苦しみを取り除いてほしい」との願い、あるいは期待であったことがうかがえます。しかしそれは「わたしの願い通り」、つまり自らの願いの成就としてではなく、「御心のままに」、すなわちそれが神の御心であるならば、ということです。自分の立場を明確にし、自己を確立した期待を投げかけるのとは違い、「主の祈り」において教えられた「御心が行われますように」との祈りとなっています。

 

実は「対」には、辞書によると「対う」と書いて「向かう」と読む用い方があります。「向かう」というのは、自分の立場を「離れて」他に向かうことです。会津若松に向かう、と言えば、自分のいた場所を離れて会津若松に近づいていくことを意味します。「御心のままに」というのはまさにこのことで、自分の立場とその延長線上に神を捉えるのではなく、自分の願いや期待をいったん離れて、神に近づいていくことと言えるのではないでしょうか。

 

さらに「向かう」は、言葉上「迎う」に通じていると言われます。向かってくるものを受け容れるのが、「迎う」ことであり「迎える」ことです。「向かう」という一方的なベクトルが、それを待ち、受け容れる側と一体になり、「迎えられる」という段階に発展していきます。わたしたちが神に「向かい」、同時に神に「迎えられ」、さらに神がわたしに向かってきてくださるのを「迎える」ことが成る、これが「祈り」だと言えるのではないでしょうか。

 

このように「祈り」を考えるならば、「祈り」についての、叶うとか叶わないの言説は相応しくないことになります。そして何より、わたしたちが神に「祈られている」ということも言えるようになります。そしてそれこそが「神の執り成し」と表現できるのだと思うのです。

 

 

イエスは十字架の出来事を前にした訣別の説教で、言わば地上での最後の祈りのテーマとして、わたしたちを憶えて執り成すことを選んでくださいました。だからわたしたちは祈られている存在です! 聖餐式における代祷もそうですが、誰かのために祈ること、あるいは祈られていることは大きな力であり支えです。わたしのために祈ってくれている誰かがいる! それは何と心強く、勇気を与えられると同時に感謝すべきことなのでしょう! そして、その自分のために祈ってくれている最後の砦がイエスご自身であるということを、今日の福音が告げてくれているのだと思うのです。

 

この至上の喜びを、今日もご一緒に心に刻みつつ、わたしたちもこの時、新型コロナウイルス罹患によって孤独と不安のうちにある方々、それらの方々のために働いておられる医療従事者のみなさん、治療薬の開発に励んでくださっているすべての方々を覚え、一堂に会することはできませんが、だからこそ今心を一つにして、共に「祈り」を献げ続けたいと思います。

 

 

父と子と聖霊の御名によって。アーメン

5月17日・復活節第6主日 説教を掲載いたしました

先日オンラインで開催された常置委員会にて、新型コロナウィルスによる礼拝休止期間について、聖職常置委員より毎週説教をお届けすることが決定されました。
今回は5月17日・復活節第6主日の説教を掲載いたします。

 


 

5月17日 復活節第6主日
秋田聖救主教会牧師 司祭 ステパノ 涌井康福

 

クリスチャンという「像」におびえないで

 

 

「クリスチャンのくせに!」友人同士の軽い会話の中ならまだしも、緊迫した場面でこの言葉を投げかけられた経験をお持ちの方もおられるのではないかと思います。私たち教役者はそれに加え「牧師のくせに!」とののしられることもあります。その時は「あんな勝手な要求を聞けるわけがないだろう」(ほぼお金の要求ですが)と思い起こして腹を立ててしまいますが、ふと「あの姿の裏にある悲しみや苦しみに、気が付かなければいけなかったのでは」などと思ってしまうと「やはり私はだめな牧師なのかな」と落ち込んでしまうことがあります。まだまだイエス様という大地に足が付いていない証拠なのでしょう。

 

世の中の人たちはクリスチャンという存在をどう見ているのでしょうか。優しい人、立派な人、自分を投げうっても助けてくれる人、あるいは偽善者という厳しい評価もあります。そんな周りの思いに動かされてのことなのかどうなのかは軽々に判断できませんが「クリスチャンらしく生きなければ」と一所懸命な方がおられます。すごいなと思うと同時に「クリスチャンらしい」とはどういうことなのかを考えさせられてしまいます。

 

その「クリスチャンらしさ」は何かということの答えが、今日の聖書の言葉の中に現わされていると思います。パウロはいいます。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」ペテロは「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」と語りかけます。そしてイエス様は「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。」と宣言されます。ぶどうの木のたとえです。

 

人は神という存在に期待をかけます。それは決して間違いではありません。しかし往々にして人間の神への期待とは「神とはこういうものだ」と金や銀で像を作ることに似ています。そして神が示された道を真っすぐに歩くことよりも、迫害の時ばかりではなく、平穏な日常の中にあっても、周りの人がどう思うのかと、神よりも人を恐れてしまいます。

 

「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」ペトロはイエス様が逮捕される前には、こう立派に宣言しています。彼にしてみればイエス様の教えを理解しているし、神の子メシアと信じているという自信があったのでしょう。しかしその自信は十字架を前にしていとも簡単に吹き飛んでしまうことは、皆さんもご存知の通りです。ペトロをはじめとする弟子たちの姿が教えてくれるのは、私たちは自分の力だけでは、イエス様とつながっていることができないということです。そこには十字架と復活の姿を通して示された、イエス様の愛とゆるしがなければならないのです。この方こそが自分の弱さも、罪もすべて包み込んで、神を信じる者として立たせてくださる。この目覚めがあったからこそ、弟子たちはイエス様としっかりとつながっていることができる人となることができたのです。

 

それは今に生きる私たちも同じです。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)イエス様はありのままの私たちを選んでくださったのです。だから私たちはクリスチャンなのです。「クリスチャンのひな型」などは存在しません。イエスという方にしっかりとつながっているのなら、私たちは「クリスチャンのくせに!」という言葉を恐れる必要などないのです。