教区報
主教コラム
「昨日も今日も、また」2025年10月
8月8日夜、入所先の介護施設の一室で、可愛い娘3人に看取られながら、妻の母が老衰で息を引き取りました。90歳でした。
37年前、和歌山県新宮市の自宅で、おそらく早くに亡くした夫を偲びながら、長女との結婚をお許しいただいた義母でした。牧師とその妻とは皆目見当がつかなかったはずです。まさか東北にまで行くなんて想定外だったでしょう。1991年3月、母は1歳と2歳の孫二人の引っ越しで、まだ寒さの厳しい会津若松まで来てくれ有難いことでした。
2021年になって、母と次女との自宅暮らしが覚束ないと身内から連絡が入り、青森聖アンデレ教会委員会に相談の上、5月に「青森に行こう!」と飛行機に乗せて牧師館に居を移しました。エアコンを設置、暖房を整えていただいた教会の皆様には本当に感謝しかありません。母は軽いアルツハイマー型認知症との検査結果でしたが、信徒のお医者さんにかかれて安心し、デイサービスを利用して日々にこやかに暮らしていました。
2024年4月、仙台聖フランシス教会牧師館に引っ越し、青森時代のようにデイサービスを受けていましたが、次第に衰えはじめ、食事もだんだん取れなくなり、今年1月誤嚥性肺炎で3日間入院、2月脱水症状を発症し50日間の24時間付き添い入院、退院後は在宅医療で過ごし、最後の39日間はショートステイをして介護施設におりました。
在宅療養中、兵庫県で働いている三女が4月から3カ月介護休暇を取って一緒に生活し、仕事復帰後も往来を繰り返していましたが、再来した日の夜に三姉妹たちが揃っている中での最期になりました。穏やかで静かなお別れでした。
主教になった私の紫シャツ姿に、母はいつも必ずニヤニヤしては、「赤いよ~」と言って嬉しがっていたのがいつまでも残っています。それは今、母からの激励・応援の声のように響いています。
(教区主教)
「昨日も今日も、また」2025年9月
4月の大阪教区主教按手式に続き、7月5日九州教区主教按手式ならびに九州教区主教就任式が挙行されて、マルコ柴本孝夫新主教が誕生しました。私が柴本主教で一番に思い浮かぶのは支援車両です。
2011年3月11日東日本大震災後に日本聖公会が立ち上げた被災者支援「いっしょに歩こう!プロジェクト」では、活動のため複数台の車両を必要とし、沖縄教区からは新車同然の10人乗りワゴン車が提供されました。ワゴン車は沖縄から九州に輸送後、当時の柴本司祭と九州教区信徒の山本尚生さんが陸路丸々2日間掛け本州縦断、仙台まで運転して来てくださったのです!これだけでも凄いお働きでした。
車のボディには、聖公会の日本宣教開始とされている米国聖公会リギンズ宣教師とウイリアムス主教が長崎に上陸した1859年より13年前の1846年に、イギリスの琉球伝道団から「ベッテルハイム」という医師の宣教師が那覇に来て、迫害の中で8年間伝道していたその人の名が印字されていました。「沖縄」のナンバープレートの車に、スタッフは「うちなんちゃー」の愛称を付けて愛用しました。
緊急救援物資を北は釜石から南は小名浜まで運び、被災された方々をお乗せしてのお茶会や買い物ツアーにお出かけをし、全国から来たボランティアたちの輸送や訪問者の送迎など、13年間多くの場面で大活躍した車両でした。
昨年の能登半島地震後うちなんちゃー号は京都教区災害対策室に移譲され「京都」ナンバーで使用されています。私は京都教区主教館前に駐車しているその車を目撃し、感無量でした。柴本主教さんたちの行為は、こうして次から次へとバトンタッチされて、奉仕の継承がなされているのです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、私は日本聖公会の宣教の歴史と継承、全体性と一体性、教区間協働の象徴としてのうちなんちゃー号に希望の光を感じます。
(教区主教)
「昨日も今日も、また」2025年8月
6月15日(日)、京都教区の京都伝道区合同礼拝・合同堅信式が主教座聖堂聖アグネス教会で催され、管理主教である私が司式説教を執り行いました。受領者は洗礼堅信1名、堅信6名の計7名で、9歳お二人、10歳、15歳、47歳、55歳、80歳の方々でした。親、子、孫といった年代で、それだけで一つの家族を見ているようでした。教会別では下鴨、桃山、聖アグネス、京都復活の4教会でした。
聖堂は約200人の会衆で一杯になり、大きなお恵みにあずかりました。コロナ禍で中断していた合同礼拝が復活されて、皆さんとても喜び嬉しくて、思いっきりの声で歌い賛美し、満面の笑みで主の平和の挨拶を交わして、礼拝後にはこんなに晴れやかな気持ちになったのは実に久しぶりだと、あちこちで感激の言葉が聞かれました。
中でも、礼拝後に堅信受領者が一人ずつ挨拶されたところで、10歳の子の「今日は僕のために集まってくれてありがとう!」との発言には、みんなの温かい笑い声が溢れました。私もプレゼントを手渡しながら「私たちは勿論、あなたのためにここに集まりましたよ」と返答し再び歓声と拍手が聖堂内に響き渡りました。主に感謝です!
私は、京都で過ごしていた時以来、実に34年ぶりにお会いする人たちもいて、懐かしいお顔を見ながら信仰に結ばれて、主に在る交わりにあるのは有難いことと実感しました。同時にこの場に来ることが叶わなかった人たちもおられると思うと、その人たちに神様のお支えとお守り、祝福がありますようにと祈ります。
「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マタイ3:35)洗礼堅信された信徒たちも、そこに集った人たちも、様々な理由で来られなかった人たちも全員が主の家族です。神のみ心を常に追い求め、力を尽くして神様の愛にお応えしてまいれるようにと、神よりのお導きを祈るものです。
(教区主教)