教区報

教区報「あけぼの」- 2016年の記事

クリスマスメッセージ「『クリスマス』の喜び…いのちの賛歌」2017年1月号

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「神にはみ栄え、地には平和」と

マリアも喜び、ともに声あわせ、

ララバイ、おやすみ、天使が歌う(聖歌80番)

 

 

今からはるか2000年前の出来事です。目を閉じると満天の星空の下で飼馬桶に眠る幼子イエス、傍らにマリアとヨセフ、羊飼いが満面の笑みですやすや眠る嬰児を見つめています。天使の歌声が耳を澄ますと聞こえてきます。私にとってクリスマスの出来事は決して色あせることなく永遠に今なのです。

 

 

現代の物質文明は多くの豊かさをもたらしてくれました。スイッチ一つで?全て事足りる便利な社会です。手紙からメールへ、スピードが要求され、すぐに答えが出されます。私はそんな早い変化について行けない団塊の世代の一人です。

 

 

そんな時代に生きることに時には息苦しささえ覚えることがあります。クリスマスはいつの時代に在っても、人間の原点回帰を促し、時代に逆行するような課題を私たちに突きつけてきます。人が生きる上で一番大切にしたいものが浮き彫りにされます。あえて電気を消し、ろうそくを灯し目をこらしながら聖歌の譜面を追い、隣の人の顔がやっと見える暗さの中で礼拝が捧げられます。でも何故かとても心が和み心地よいのです。神様が人間を創造した原点を感じます。ろうそくの明かりで見える範囲はごく限られています。でも他に見たいものは見つかりません。ただ天使の歌声に合わせて歌うだけで幸せな気持ちになります。生きていくために本当に必要なものは多くはないような気がしてきます。

 

 

マリアとヨセフにとって今一番大切にしていることはただ幼子イエスを守り寄り添い、側にいることです。どんなに富と名声、権力を得ても人は愛すること、愛されることなくして生きる喜びを感じないように創られているような気がします。人間は神によって創られました。私たち人は裸でこの地上に生を受け、また何も持たないで静かに地上の生涯を閉じます。物は消えていきますが、愛する心は永遠です。

 

 

クリスマスは天使が歌ういのちの賛歌です。そして人生の賛歌です。生きる喜びに気づき何が大切か暗い闇の中でろうそくのか細い灯りに照らされて見えてきたものは、意外にも目に映るものだけではなく何故か自分が生きてきた軌跡だったり、また自分自身の心模様が映し出されます。

 

 

クリスマスの季節は人に平安と安らぎをもたらしてくれます。子どもたちがサンタさんをじっと待つように、ゆっくりと待ちながら現役最後のクリスマスを感謝で迎えたいと思います。

 

      主に在って

司祭 ピリポ 越山 健蔵

「常識に囚われずに・・・」2016年12月号

聖公会神学院の神学生3年次、夏季実習で3週間、韓国ソウルを訪れることになりました。しかし、出国直前になっても、3週間の実習がどんなプログラムで進行するのか、先方からの連絡はありません。それどころか、そもそも私たち神学生4人が金浦空港に到着したとき、誰かが迎えに来てくれるのかさえわかりません。若干の(かなりの?)不安を抱えつつ成田を飛び立ち、金浦空港に降り立ったとき、迎えに来てくれた方がいたことがどれだけ嬉しかったことか!後日「韓国では親しい友を迎えるとき、前もって予定を伝えるなんてことはしないのさ。なぜって、親が死んだとき以外はどんな予定が入っていても相手につきあうのが親愛の情の証だからね」と教わりました。

 
それだけではありません。食事の時、日本では大皿や鍋から自らの皿に取り分けるのが礼儀ですが、韓国ではそれは「あなたと同じ皿(鍋)からは食べられない」という意思表示なるとのこと。日本ではご飯茶碗は手に持つのが行儀のいい食べ方ですが、韓国ではテーブルに置いたままが普通(持とうと思っても金属製の茶碗は熱くて持てません!)など、日本での常識が韓国ではそうでない経験を幾つもしました。

 
実は、国や文化が変われば常識が非常識になる例は、他にもあることに気づかされます。日本では何かをもらったら「ありがとう」というのが常識ですが、中国では仲が良ければよいほどお礼は言わないのだそうです。お礼を言われたらよそよそしい、自分たちは仲がいいはずじゃなかったのかと。日本人の親は「人に迷惑をかけないように」と教えますが、インドでは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるのだそうです。

 
さて、福音記者ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と、神という存在を「言」として表現していますが、これは私たちにとっての常識です。神という存在を「言」としたのは、言葉は一旦人の口から離れると受け手次第、発話者の思い通りに相手に届くとは限らず、自らの思いとは真逆に受けとめられることさえある。すなわち言葉には言霊とも言われるように霊が宿っているのだという当時のギリシアの価値観に着目した福音記者が、神の超越性を伝えるには、神を「言」と表現するのが相応しいと考えたという説を読んだことがあります。しかし、この箇所のごく初期に翻訳された日本語訳は、「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」(ギュツラフ訳)となっています。日本人に神の存在の偉大さを伝えるためには、「カシコイモノ」「ゴクラク」が相応しいのだという発想をそこに見てとることができます。そこには常識には囚われない、しかし神という存在を伝えたい!という情熱を感じられるのではないでしょうか。

 
彼の有名なアインシュタインも「常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである」と言ったそうですが、確かに常識が壁となってヤル気を挫かれたり、容易に諦めたりすることにつながることを思うとき、アインシュタインの言葉は的を射た表現なのかも知れません。%e3%81%82%e3%81%91%e3%81%bc%e3%81%ae%ef%bc%91%ef%bc%92%e6%9c%88%e5%8f%b7%ef%bc%91%e3%83%9a%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%88

神という根っこにしっかりとつながりつつ、しかしだからこそ、枝は、葉は、大胆に空に向かって伸ばしていける一人ひとりでありたい、そう思います。

 

司祭 ヨハネ 八木 正言

 

「寄り添う心」2016年11月号

先日、ある教会の信徒の方から電話がかかってきた時のことです。私はあいにく留守にしておりましたので妻が電話に出て「今、司祭は刑務所に行っています」と答えますと「どうなさったのですか?、いつ出てくるのですか?」と大変驚かれ、心配をおかけしたという出来事がありました。我が家や盛岡聖公会では「刑務所に行ってきます」という会話が、日常の中に違和感なく存在しており、実はその時、私は宗教教誨師の務めを行なうため盛岡少年刑務所に出かけていたのでした。

 

宗教教誨師とは、「全国の刑務所、拘置所、少年院等の被収容者に対し、各宗教宗派の教義に基づいて、徳性や社会性の涵養を図り、健全な人格の形成に寄与するため、行政・矯正施設からの要請を受け、民間のボランティアとして活動する宗教家」と定義されています。

 

盛岡聖公会への赴任と同時に前任者の後を継ぐ形で、教区主教の推薦をいただき、全国教誨師連盟から認証を受け宗教教誨師の働きを行うこととなりました。具体的には私の場合、月に1度ないしは2度、地域の矯正施設(盛岡少年刑務所、盛岡少年院、盛岡少年鑑別所)に出向き、教室のような場所で、希望者に対し聖書の講読・勉強を1時間ほど授業形式で行なうことが主な活動となっています。宗教教誨を希望する被収容者は、キリスト教の他、仏教、神道、天理教等様々な宗教から選ぶことができ、受講者は、キリスト教の場合多い時で10名ほど、普段は5名ほどとなっています。熱心な方が多く、主の祈りをもって始め、最後に感想を語り合い、また、質疑応答も活発で、聖歌を歌うこともあります。さらに希望によって個人面談が設けられます。先日は少年鑑別所の担当者から収容中の少年による面会希望の連絡を受け、急遽、ギデオン協会の聖書を携えて少年鑑別所に出向くというようなこともありました。

 

盛岡聖公会の宗教教誨活動の歴史は長く、基本的には歴代の教役者がこの務めを受け継いで今日に至っています。昔は青年会や婦人会が慰問に訪れたり、クリスマスには女性の青年たちが訪問してクリスマスキャロルを歌ったという話を聞きますが、セキュリティーの面から現在ではなかなか難しくなりつつあるようです。また、盛岡聖公会では主日礼拝の代祷で教誨活動のためにお祈りいただき、さらに公益財団法人全国教誨師連盟・仙台矯正管区教誨師連盟岩手県教誨師会の後援会に教会と婦人会がそれぞれ団体会員となって加入し、毎年後援会々費という形で支援を続けています。このように教誨活動は教役者一人による働きではなく、教会の業として長きに亘り行われてまいりました。
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盛岡少年刑務所の運動場に「心はいつもあたらしく」という言葉の刻まれた立派な記念碑が建てられています。この言葉の贈り主は高村光太郎で、太平洋戦争の最中、宮沢賢治の実弟の援助を受けて花巻に疎開し、暫く滞在しました。その際、盛岡の刑務所を訪ねて受刑者に寄り添って励まし、愛情をもって受刑者と向き合われたということです。「実際の罪」を犯した人々は矯正施設に収容され刑として、償ってまいりますが、私たちも「内心の罪」に日々苦しむ罪人です。自分に寄り添う人が必要なように、だれにも寄り添う人が必要だと改めて思い、導きを祈るものです。主イエスの働きの一つである教誨活動のためにもお祈りいただければ幸いです。

 

司祭 ヤコブ 林 国秀

「今さら聞きたいこと」2016年10月号

幼稚園は夏休みが終わり、境内地にまた子どもたちの元気な声が響いています。夏休みの間、子どもたちはどんな経験を積んだのでしょうか?

 
毎年この期間になると「夏休みこども科学電話相談」という番組がNHKラジオで平日の朝8時台からお昼前まで放送されます。私はこの番組が大好きで、夏のお楽しみにしています。この夏も甲子園の高校野球中継で中断されたり、また今夏はリオ五輪も加わり通常より長く中断されましたが、子どもたちの夏休みの宿題や自由研究に役立たてて欲しいという趣旨で、「昆虫」「天文・宇宙」「動物」「植物」等、10のジャンルの質問を幼稚園から中には中学生までの全国の子どもたちから質問を受けるものです。子どもたちの質問に答える先生たちは大学教授や動物園、プラネタリウム等の普段から子どもたちの出入りのある科学施設で働く職員の方々が務めます。子どもたちの自由な発想で為される質問に専門家の先生たちがどう答えるかが注目されますが、中にはタジタジになる先生方もいます。所謂、専門用語が通じない子どもたちにどうわかりやすく説明・解説するか、また、専門家の先生たちが、四苦八苦する様子がこの番組の聴き所です。

 
私は以前、高校受験に残念ながら失敗した生徒たちが翌年の受験に向けて準備する『予備校』で理科を教えたことがあります。大別して物理・化学方面を扱う第1分野、生物・地学方面を扱う第2分野と別れますが、私は第2分野を担当しました。面白いことに、その時の第1分野を担当されたのが他教派の牧師先生でした。そのために中学校の参考書や科学雑誌を取り寄せ研究したことがありました。私がこの番組に思いを入れるのはこのような背景があるからなのかもしれません。

 
この番組を聞いて印象に残る質問があります。3年ほど前、『両親が「この世に役に立たないものはない」って言っていますが、じゃあ、ゴキブリって何の役に立っているんですか?』という質問がありました。その問いに回答者の先生は『人間には余り役立っているようには思えませんが、ゴキブリをエサにしている生き物はいますから、その生き物にとってはなくてはならないだろうし、だから、ちゃんと役に立っているんだねぇ。』と回答していました。この答えも大変印象に残っています。これは早速子どもたちの礼拝での話に使わせて貰いました。

 
皆様は子どもたちから色々質問を受けたことはないでしょうか?教会や日曜学校、幼稚園で、神様のことや拝、教会のことを尋ねられたことはないでしょうか?昨年、ウイリアム神学館館長の吉田雅人司祭が「今さら聞けない?キリスト教」という本を出版されました。この本が扱っていること以外にも聞きたいこと、それこそ「今さら聞けない」ようなことがありま%e5%b7%bb%e9%a0%ad%e8%a8%80%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%88せんか?私も沢山あります。でも何故か「今さら聞けない」思いが頭をもたげてうやむやにしていることがあります。この原稿を書いている前日に、遅まきながら秋田の教会で教区財政説明会がありました。普段ではなかなか聞けないことを聞くことができました。神様・信仰・聖書・礼拝・教会・教会・教区のこと等々、「今さら聞けない」ことを聞き合えるような教会であればいいなと思います。

司祭 アントニオ 影山 博美

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「覚え続けること」2016年9月号

教会や近所のご婦人方と話をしていると、NHKの「朝ドラ」の話題で盛り上がることがあります。私は最近では聖公会と所縁のあるニッカウヰスキー創業者、アブラハム竹鶴政孝・リタ夫妻がモデルとなった「マッサン」は夜の再放送でよく視聴しましたが、最近の話題にはついていけません。そんな話の中で気が付いたのは、現在放送中のものの前々回のものくらいまではみなの記憶にあるのに、それより前のものになると「あれ?何だっけ」となることが多いことです。これに限らず「流行り」というものはそういうものであるのかもしれません。

 

世の中の動きを「流行り」と同等に捉えてはなりませんが、やはり現在進行形の事柄にみなの関心が向くのは否めないことです。九州で大きな地震の被害があり、各地で自然災害があり、自分たちとはまだ直接かかわりのないことのように捉えていた「テロ」が身近に忍び寄ってきている不気味さなど、数え上げたらきりがありません。

 

東日本大震災も「あれから5年」というニュースを聞いて「そうか。5年になるのか」と、思い起こした人が多かったのだろうと思います。しかし、どんな出来事でもその当事者にとっては「現在進行形」なのです。たとえ復興計画が完了したとしても、決して過去にはならないのでしょう。

 

多くの人が忘れるのは仕方がないし、私たちも遠くであった出来事に対して同様です。マスコミでも特別な時にしか取り上げられなくなっていくのでしょう。でも、東北にある私たちは「あの日」をまだまだ歴史にしてはいけないと感じています。この地に住む者だけは決して忘れてはいけないと心に誓います。

 

しかしどのように寄り添い続けていけば良いのか、忘れていないと言うだけで良いのかと戸惑うことがあるかもしれません。様々なかかわり方があると思いますが、私たちに、そして教会にできることの一つに祈りの中に覚え続けるということがあります。実際に毎月11日には被災された方と被災地を覚え祈り続けている教会があり、主日の代祷の中で覚え続けている教会もあります。これから10年、20年、30年と続けていくことで、それは生きた記憶、未来への警鐘となっていくのだと思っています。教会が大震災の出来事を伝える、生きた「石碑」になることも、とても大事なことだと思いますし、これまでかかわってきた者の責任でもあると思います。

 

祈りの中で覚え続けていると、その人の顔が見たくなったり、その場所に行ってみたくなったり、何かできることはないかと思ったりします。教区では被災者支援の働きが継続されており、宣教部主催の「被災地に立つ」が今年も行われます。山形の教会では年に数回被災地を訪ねることを続けています。何ができるわけでもない、行って、見て、帰ってくることの繰り返しです。不思議と毎回素敵な出会いがあることが感謝です。これからいろいろな働きが見た目には小さくなり、その形も変わっていくのかもしれません。それでも「覚え続ける」ことが、教会の自然な姿であり続けたいと思います。広報委員会ではできるだけ「今」の被災地の様子を伝え続けたあけぼの9月号1ページ写真いと思っています。教区の皆様も夏休み、秋の行楽シーズンなどに被災地を訪問される機会がありましたら、その地の様子をご一報いただけましたら幸いです。

司祭 ステパノ 涌井 康福

写真:磯山聖ヨハネ教会礼拝堂跡地訪問