教区報

教区報「あけぼの」- 2021年の記事

あけぼの2021年12月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「天国の鍵とみ言葉の剣」

 

 

私の奉職する福島県にある郡山聖ペテロ聖パウロ教会は、郡山市街地の中心に位置する麓山の上に建っています。聖堂は、1932年(昭和7年)に、当時のジョン・コール・マキム司祭が尽力されて建立し、ビンステッド主教により聖別されました。鉄筋コンクリート造ゴチック様式の荘厳で神聖な趣が今も保たれ、登録有形文化財に指定されています。そして2011年の東日本大震災の際には、地震の大きな揺れに加えて、地域全体が原発事故による放射性物質の被害に見舞われ、大変な苦難を負わされました。その時、日本聖公会の取り組みの拠点となるべく、セントポール会館が建てられ活動が行なわれました。現在は、信徒会館としての機能や幼稚園関係の集会だけでなく、地域に開らかれた施設として英会話教室、学習教室、生け花教室、諸団体の会議などに用いられています。すばらしい聖堂が建てられたことや聖ペテロ、聖パウロという二人の偉大な使徒の名前が命名されたことは、先人たちの宣教伝道への意気込みとして今も受け継がれています。そして聖堂内部の聖書台の前には、その象徴となるべく高さ30cmほどの聖ペテロと聖パウロの像が並べて安置されています(写真)。

 

 

聖ペテロは、主イエスの最初の弟子となり、「あなたがたは、わたしを何者だというのか。」と主イエスから問われ、真っ先に「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をし、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ16:19)と言われました。それゆえこの像の聖ペテロも立派な鍵を抱えており、聖ペテロが教会を「守る」使徒という思いが湧いてきます。しかしその聖ペテロは、主の十字架の際、主の仲間であることを三度も否定するという罪と汚点を残してしまいます。一方聖パウロの像は、左手に剣を持ち、右手には聖書を抱え、み言葉を武器に何事をも恐れずぐんぐんと前に切り開いて進む、力強いイメージが沸き上がります。パウロの持つ剣と聖書は「霊の剣、すなわち神の言葉」(エフェソ6:17)を表し、さらにその剣は「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4:12)と証されています。しかし聖パウロは他の使徒とは異質で、回心し、主に従う以前は主の働きに加わる人々を迫害して捕らえ、殺しさえする人物だったことが包み隠さず伝えられていることを加えます。教会は、信仰や礼拝を「守る」一方で、外に向かって切り「開く」姿勢を持ちますが、聖ペテロのもつ鍵と聖パウロのもつ剣は、教会に備わるべきその二つを表しているといえます。

 

聖ペテロと聖パウロの働きが全く違う性質のようにも記しましたが、二人には前述のように人間の弱さから犯した罪を「神様に赦され、愛に包み込まれた人」という大きな共通点があります。それは復活の主との出会いの中で変えられ、その後自らも人を赦し、希望に満たされ立ち上ったという点で同じです。さらに偉大な使徒にも拘わらず人間としての弱さや負の人生も包み隠さず聖書に残したことや神様に愛された喜びを証したことが、この二人の偉大さであることに気づきます。私たち誰もが、主イエスとの出会いの中で神様に赦され、その恵みによって歩み、愛され立っている者です。私たちも懸命に信仰を守り、心を開き、捧げ、主イエスの愛の生きた証し人、その肢として教会の働きを共に強めてまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会 牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

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あけぼの2021年11月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「諸聖徒日によせて~憶えて祈る~」

 

 

秋も徐々に深まり、11月1日には「諸聖徒日」という祝日を迎えます。

 

教会が諸聖徒日を守るようになったのは、5世紀始め頃のシリアの教会で、よく知られている全ての殉教者と、全く知られていない殉教者を記念して祝ったのが、その始まりだそうです。そして後には全ての逝去者を憶えて祈るようになりました。

 

よく知られている殉教者逝去者を記念することは、それほど難しいことではないでしょう。それは丁度、自分の親族や知人の死を記念する時のように、それらの人々の痛みや苦しみ、あるいは暖かい最後の交わりの時などを思い起こすことができるからです。けれども、全く知らない人を記念することは、とても難しいと思います。しかしそれが難しいと言って、私たちが記念しないなら、私たちにとっては、それらの人々は無に等しくなってしまうでしょう。

 

父なる神様はそのようなことをお望みではないと思います。イエス様は人が無視してしまうような「これらの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言われ、私たちが知っていようといまいと、一人ひとりの人を大切にすることを望んでおられるのです。私たちが知っていようといまいと、その人の人生があり、死があるのです。その事実は空しいものではなく、私たちが考える以上にイエス様、神様にとって大切な人生なのです。そのことに私たちの想像力を、思いを巡らせることが大切なのだと思います。

 

 

2005年の夏、「聖公会国際礼拝協議会」に出席するために加藤主教様とチェコのプラハに行ったことがありました。その協議会終了後、私たちは2つの経験をしました。

 

1つは、8月6日、旧市内の聖ミクラーシュ教会で、広島の犠牲者を憶えるレクイエム・コンサートが開かれていたことです。日本から遠く離れた中欧の教会が、60年前のヒロシマの出来事、原爆犠牲者の苦しみを憶えて祈って下さる。とても感激しました。

 

もう1つは、翌日に訪れたユダヤ人町の会堂(シナゴーグ)で見た出来事です。プラハに残る6つのシナゴーグの1つに、ピンカス・シナゴーグがあります。そのシナゴーグの壁面一杯に、人の名前と生年月日が書かれていたのです。(写真)それはナチスの大量虐殺によってチェコで殺されたユダヤ人犠牲者、約7万8千人の名前だそうです。それは人々の生きていた証しであり、痛みと苦しみの記憶でもあると思いました。まさにここでも人々は「憶えて祈り続けられて」いるのです。

 

 

諸聖徒日(に近い日曜日)、私たちはそれぞれの教会で神様のもとに凱旋された方々のお名前を呼んでお祈りします。それらの方々は私たちがよく知っている人、記憶に新しい人たちであると同時に、私たちが直接には知らない多くの信仰の先達たちです。その祈りは私たちの祈りだけではなく、すでに召された方々も天上の教会でイエス様と共に私たちを憶えて祈ってくださる、共同の祈り、交わりの祈りです。この世で神様と隣人を愛して生きられた一人ひとりの人生を憶えて祈り、神様がその人々を迎え入れてくださっていることを感謝して祝う時、そこには真実の聖徒の交わりがあるのではないでしょうか。

 

 

東北教区主教 主教 ヨハネ 吉田雅人

 

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あけぼの2021年10月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「私たちは何かを信じ、何かに賭けて、前に進む」

 

 

コロナ禍自粛で先が見えない中で、冒険は遠ざかり、確実性を探し求めて生きるようになってきました。

 

夢と希望を追い求めた熱気に満ちた青春時代、そして今私は無駄なものをそぎ落してシンプルな生き方のゴールドエージを迎えました。しかしこの状況のなかでは思うような人生設計は叶いません。さらに心に映る景色が変わりました。

 

 

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

(ヘブライ人への手紙11章)

 

今信じることの不確実性に耐えがたいジレンマを感じています。私たちは少なくとも信じるものが存在しないと生きる力は湧いてきません。今顔の見える関係が希薄になってきました。見えない事実を日々確認したいのです。

 

合うことが出来れば例え貧弱な会話でも相手の顔の表情、ふるまいで心が通じます。他所とのふれあい、出会いを通して私たちは癒され、前に踏み出すことが出来ます。

 

前に出るということは冒険の旅に出かけることです。それこそ片道切符を手に握りしめて夜汽車に乗り込む心境です。目が覚めたらそこに何が待っているかわかりません。それでも信じるものに賭けて失敗を恐れず、全身で時間の止まった確実性の世界から飛び出して行きたいと思うのです。信じることを離れては何事も成すことは出来ません。生まれてすぐの赤ちゃんは全幅の信頼を母親に委ねます。この信頼が幼子の生きる力となります。

 

 

「私たちはいつまでも残るものを待っていると知っているので、財産を奪われても喜んで耐え忍んだのです。だから自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるには忍耐が必要なのです」

(ヘブライ人への手紙10章)

 

私事ですが39年間東北教区でご奉仕に与り、その間、言語に尽くせない多くの体験を皆さまのご支援をいただきながらいたしました。時に忘れることの出来ない、忘れてはいけない2011年3月11日の東日本大震災は私が生きてきた人生に疑念を抱かせることになりました。

 

2万人近くの尊い命が奪われ、33万人の方々が仮設等で片寄せ合って、生活していました。先の希望は見えず、放射能汚染で、家族はばらばらにされ、帰りたい故郷には一歩も近寄れないでいる多くの現実がありました。一見元気そうに見える方も悲しみと辛さを耐えて頑張っていました。しかし仮設から一歩外に出ると、一見前と変わらない景色の中で、私を含めて多くの人々が生活していました。被災者の方々から時々言われたことを思い出します、「帰る家があること…いいよな!」と。日常の平和な生活、平凡な生活、特に変化は無いが仕事がある生活…3月11日を境にすべてが一変した多くの方々。平和な日常は夢の又夢となりました。

 

コロナ禍は再び3月11日のあの日々を思い出しました。先が見えない耐えがたい苦難と悲しみを背負ってこの10年を生きてきた震災の当事者の方々に想いを馳せます。

 

大震災から、コロナ禍の自粛生活から見えてきたものがあります。決して忘れてはいけないもの、信じること、諦めないこと、そして忍耐を伴うが自分の確信を決して捨てないことだと思います。

 

何も出来ない、助ける術もわからない、力も能力もない、そんな時イエスがそっと寄り添って「だいじょうぶだよ」と祈りの中で天の声が聞こえてきます。

 

 

打ちひしがれた時にこそ、主の豊かな恵みに触れ、約束されたものを受けることを信じて一歩でも前に進めますように…。主に感謝

 

 

仙台基督教会 嘱託 司祭 ピリポ 越山健蔵

 

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あけぼの2021年9月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「祈り続ける教会」

 

 

今現在、私は「朝の礼拝」「昼の祈り」「夕の礼拝」を、毎日献げる恵みと幸いと喜びを享受しています。

 

祈祷書の「朝の礼拝」冒頭に次のような言葉が記されています。“毎日聖書を朗読し、詩編を歌って神をほめたたえ、祈りをささげて日々の生活を神と人とのために清めることは、初代教会からの営みであった。わたしたちも「朝の礼拝」「夕の礼拝」によってこの営みに加わるのである。”とあります。

 

“毎日聖書を朗読する”ということは、ただ沈黙で聖書を黙読するのとは違って、様々なことに気づかせてくれます。例えば、誰に向かって朗読するのか?その方に声は届いているのだろうか?そのためにどのような朗読の仕方がふさわしいのだろうか?等々……。そしてそのような営みを通して、だんだん聖パウロの言う〈キリストを着る〉(ガラテヤ3:27)とか〈キリストがあなたの心の内に住む〉(エフェソ3:17)ということが体感できるような気がしてくるのです。

 

“詩編を歌う”ということについて、私が通っている聖グレゴリオの家で学んだ言葉があります。それは『詩編は、すべてキリストの言葉であり、詩編から我々はキリストの声、キリストについての声、キリストへの声、教会の声、教会についての声を聞くことが出来る。』と。そう教えられて、心を込めて味わいながら詩編を唱える(実際には歌わないが、自然にリズムが整えられる。)と今まで持っていた“詩編理解”から何か新たな目覚めを感じています。

 

さらに、某修道・神父が「詩編を祈る」という本の冒頭で次のようなことを書いていらっしゃいます。『詩編は実際、二千数百年以上もの昔から〈神の民の祈り〉として集められ、伝えられ、そして文字通りに一日もやむことなく歌われていた。――パレスチナの寒村や豪華な得るセムの神殿の中で、さすらいのバビロニアの花の都で、さらにキリスト教の時代になってからは、ローマのカタコンブの地下聖堂や大都会のカテドラル、そして、最後に、喧噪に満ちた大東京の団地や、最果ての北海道の山奥の静かな修道院で――あらゆる種類の男女、〈神の民〉となったひとりひとりの心と口から、一日も絶えることなく歌われて続けてきた。』と。私は二千数百年前から一日もやむことなく絶えることなく歌われ続けてきたなんて、今さらながら“詩編の歴史”はすごい!と思いました。この歴史の流れに実を任せる信仰を教会は主なる神からのご恩寵として受け取り実践してきたのです。

 

言うまでもなく、私たちの信仰は”教会の信仰”です。〈キリストの神秘的なからだである教会の私たちはその肢体である〉という信仰です。この教会で毎日「公祷」として捧げられる神への賛美と感謝、祈り続けられている教会の姿は、初代教会からの尽きること・絶えることのない素晴らしい伝統・歴史です。

 

そのような伝統・歴史を踏まえて、教会共同体〈神の民〉のメンバーとして、私たちは自覚をもって教会生活を送りたいものだと思います。

 

 

小名浜聖テモテ教会 嘱託司祭 司祭 パウロ 松本正俊

 

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あけぼの2021年8月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「マグロの赤字」

 

 

endoそこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:29-30)

 

 

「損をして得取れ」ということわざがあります。一時的には損をしても、将来的に大きな利益となって返ってくるように考えなさい、という意味です。日本中、どこのお寿司屋さんに入っても、必ず置いてあるネタはマグロの赤身です。ネタ切れでない限り、食べられないということはないでしょう。実際に、他のネタが無い場合は仕方ないと受け入れられても、マグロのないお寿司屋さんはあまり想像できないものです。しかし、どのお寿司屋さんでも原価率を考えた場合、売れれば売れるほど赤字になることが多いのもこのマグロであると言われています。お店の顔でもあるマグロはケチな仕入れなどできず、また、多くのお客さんが食べることから、値段も上げにくいのです。結果、お寿司屋さんは赤字のマグロを出し続け、他のネタで利益を生み出していくのです。

 

 

イエスさまの生き方を見ますと、決して器用な生き方をされていないことがわかります。もっとわがままに、損得を意識されて、ご自分のことを優先されたらと思うのですが、むしろ、周りからの批判や迫害を一手に引き受け、挙げ句の果てには、十字架の死をすべての人々のために担われ、一番大きな「命」をも、失われます。しかし、その損失ばかりの地上での歩みには、神様の壮大なご計画である人類の救済という豊かで大きな恵みが結び付けられています。

 

教会にとって、損とはなんでしょうか。教会の財源が減ってしまうようなことを言うのでしょうか。得とはなんでしょうか。教会に人があふれるような事態を言うのでしょうか。損とか得などとそんな世俗的な考えはキリスト教の信仰にそもそもふさわしくないとお考えになられる方も少なくはないと思います。しかし、どこの教会も、教区も現実的な問題として、こうしたことは、無視できない状況にあることは確かです。ただ、損なことにしても得なことにしても、大切なのは、それが神様の御心にかなっているかどうかということなのです。もう少し具体的に言いますと、目先の得に捉われて、10年、20年先の教会の維持を見られていますか、ということです。

 

 

現在、東北教区は十和田湖畔の国立公園にあるヴァイアル山荘の建て替えという大きなプロジェクトを進めています。今、この財政難で先行きの見えない大変な時期に、これは、傍目から見ると、無理をしているとしか思えないようなプロジェクトです。しかし、東北教区は、一見赤字を抱えそうなこのプロジェクトに豊かな、恵みと希望であふれている未来を見ています。

 

時間と力と知恵を注ぎ、常に神様の御心を求め、100年以上も紡がれてきたこの歴史的財産の中に、神様の栄光が現されることを信じて疑わないのです。

 

苦しい今この時だからこそ悲観せず、前向きに将来に目を向け、苦しい逆境の中で10年先とは言わず、100年先のための宣教の種を今、一緒に蒔いてまいりたいと思います。

 

 

八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介

 

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