教区報

教区報「あけぼの」- 2020年の記事

あけぼの2021年1月号

巻頭言「サイレントナイト」

 

 

「今年のクリスマスはやめにしませんか」そんな提案を教会役員会にぶつけたのは、私が聖ペテロ伝道所に勤務していた時、近くのプロテスタント教会に勤務していた若い牧師さんでした。当然の如くに「何をいっているのだ」と役員さんたちは反発します。この牧師さん、少し言葉が足りなかったようで、いいたかったのは降誕日の礼拝をしないということではなく「例年のように派手な飾りつけや、ご馳走を囲んだパーティーをやめましょう」ということだったようです。

 

イエス様は、身重のマリアさんとヨセフさんが住民登録をするためにナザレからベツレヘムに向かう途中で、宿も取れない中で、貧しい家畜小屋でお生まれになりました。まさに「人みな眠りて、知らぬまにぞ」(聖歌第85番2節)と歌われている通りの状況でした。

 

最近知って驚いたのですが、イスラエルにも雪の積もる山があり、スキー場もあるのだとか。イエス様のご降誕が本当に12月なのかは定かではありませんが、平地でも夜は冷えた ことでしょう。暗くて寒くて静まり返った闇の中、落ち着いて赤子を寝かせることもかなわず、両親とてもゆっくりと横たわることができなかったことでしょう。想像するだけで寂しさがこみ上げてきます。

 

多くの人たちが「クリスマス」と聞いて思い浮かべる光景とは、まったく違ったみ子のご降誕の姿がそこにはありました。わたしたちは降誕日前夕の礼拝(イヴ)の中で、その時の場面を垣間見ているのかもしれません。必要最低限の光しか用いられないのは、雰囲気作りなどではなく、きっと2千年前の「その場」にわたしたちも繋がれるためではないでしょうか。神の示された「時」に確かに私たちもみ子と共に存在しているのです。クリスマスには毎年繰り返す「祭り」としての意味もあるでしょう。何度となく繰り返してきたクリスマスですが、同時に毎年私たちはみ子イエスの誕生の瞬間に招かれているということも、信仰の真実ではないかと思うのです。

 

そう考えると、礼拝が終わり「さー、次行ってみよう!」とパーティーに切り替えるのは、なんだか惜しい気がしてしまいます。もちろんそこには宣教的な意味もあるわけですから、単純には否定できないことですが、たまにはみ子のご降誕の場に居合わせた余韻を静かに感じる時があっても良いのではと思います。冒頭で紹介した牧師さんにも、そんな思いがあったのかもしれません。

 

そういう意味で今年のクリスマスは千載一遇の時です。

 

祝会をどうするかと意見を交わすまでもなく、結果は見えてしまっています。残念といえばその通りなのですが、礼拝が終わって「残念だね」とか「さみしいね」といって感染症を呪って帰るのではなく、まさに今年の降誕節は「静かな夜・サイレントナイト」に思いを寄せてみなさいという、神様からの恵みの時なのだと捉えられないでしょうか。どんな時でも、み子のご降誕は救いの時、恵みの時であることに変わりはないのです。

 

そして今年は聖家族がヘロデからの迫害を逃れたエジプト逃避行、み子のための幼き殉教者、東方からの訪問者などにも思いを馳せ、降誕の出来事を黙想する中で、豊かな恵みが与えられそうです。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2020年12月号

巻頭言「クリスマスの旅」

 

 

主の平和が皆さんと共にありますように。

 

今年私たちは、一堂に会してはご復活日をお祝い出来ませんでした。松丘聖ミカエル教会の主教巡回は、松丘保養園面会自粛要請のため中止となりました。盛岡では仁王幼稚園・牧師館落成式を大々的に開けませんでした。飲食は控えていますから、弘前での堅信式の後でも、青森の牧師任命式の後にも祝会は開けず、どこか物足りなく感じました。主イエスが弟子たちや出会った人たちと親しく食事の席に着くのが大好きだったように、私たちも会食をしながら楽しく歓談したいとつくづく思いました。

 

新型コロナウイルス感染状況に劇的な変化がなければ、来たる降誕日も「東北教区主日礼拝ならびに宣教活動のための指針_No.7」に従い、マスク着用、手指消毒、検温、ソーシャルデスタンスを徹底し慎重な礼拝を献げ、祝会は控えなければなりません。そうだからと言って、いつものようでないクリスマスである訳ではありません。かえってそれだからこそ、クリスマスはさらに意義深くまたやって来ます。

 

今起きている出来事、自分に襲いかかっている事件が不可解で、不明な時、これから先一体どうなるのか分からない、未来が読めない時に、人は悩み、不安に支配されます。そして、そのような苦悩する人に、神様は優しく、力強くささやかれます。

 

 

イエスの両親ヨセフとマリアは、赤子出産前後2回、旅をしなければなりませんでした。それは自分たちが計画して、うきうきしながらのものではありませんでした。

 

1回目は、人頭税をかけられるための戸籍登録をしなければならないという強いられた、苦痛、屈辱のナザレからベツレヘムへの旅でした。まして身重のマリアの不安の大きさはいかばかりだったでしょうか。それでも、夫ヨセフの故郷に帰省する訳ですから、少しの誇りとわずかな興奮と期待を持った旅でもありました。

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そしてそこには、マリアを支えた言葉がありました。「マリア、恐れることはない。」「生まれてくる子は神様の祝福をいただいた、神様に喜ばれる、それこそめんこい神様の子です」。新しいいのちは人知を越えた神秘的な希望なのです。

 

2回目の旅は、出産後、3人の博士たちがヘロデ王に再会せずに帰国し、王は逆鱗し幼児虐殺を命じるに及んで、誕生間もない赤ちゃんを抱えてマリアは、ヨセフに手を取られエジプトに逃避行しなければなりませんでした。この旅は出産前と真逆で、見知らぬ土地へ、外国へ、異境の地に逃れて、孤立して生き延びなければならないものでした。その心細いこと、大きな不安定さに潰されそうになります。その最中を支える言葉がありました。「ヨセフ、逃げなさい。私があなたを呼ぶまで」です。殺戮、迫害がなくなるその時は必ず来ます。ヘロデ王にもやがて終わりがきます。

 

私たちにも語り掛けてくる言葉があります。羊飼いたちが聞かされたものです。「恐れるな。大きな喜びを告げる。聞け。今日、あなたがたのために救い主・メシアがお生まれになった。」この言葉を今も私たちは聞きます。

 

私たちの人生の旅の途上で「今日、あなたにメシアが生まれ」ます。

 

 

「主よ、わが心に、宿らせたませ」(聖歌358番)

 

 

司祭 フランシス 長谷川清純(青森聖アンデレ教会 牧師)

 

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あけぼの2020年11月号

巻頭言「『すべての人を一つに』~分断の社会にあって~」

 

 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21)

 

 

これは、主イエスが十字架を目前にした時に祈られた「大祭司の祈り」の一部です。「分断の社会」という言葉をしばしば耳にする昨今、この主イエスの祈りの言葉が心に響いておりました。このお祈りの背景には、現代と同じく、主イエスにとって決して見過ごすことにできない、分断された社会構造や人間関係があったことが想像され、「すべての人を一つにしてください」という祈りの言葉は、主イエスの心の叫びと受け取ることができます。また、この祈りの直前、主イエスは弟子たちの足を洗い、弟子たちと共に最後の晩餐をとり、聖餐を制定されましたが、聖餐の奥義もまた私たちが主の命に結ばれて共に「一つになる」ことです。主は、私たちが主にあって「一つになるため」に祈られ、さらに聖餐を定められたのです。私たちはその聖餐式を行い、主の命をいただいて一つにされると信じています。そして、その聖餐式を私たちが一つになるまであきらめずに「み子が再び来られるまで」(祈祷書P175)、行ない続けてまいります。このように主イエスの祈りや思いは、世界や人々、そして私たちが一つになることにほかなりません。ただし「一つになる」ということは、「同じになること」とは違います。神様は、一人一人に同じではない命と人格、個性を与えてくださったのですから、「一つになる」ということは、それぞれ違う私たちが違うまま集められ一つとなることです。それぞれの性別、血筋、民族、主義主張、考え方や意見は違って当然の事ですし、十人十色、食べ物や色の好みも違うものです。私たち一人一人は違って良いし、違うべきだと思います。その違いを認め合って一つになる時、大きな喜びに溢れます。主は命を賭して、私たちが一つになる方法を、遺してくださったのです。しかし、主の思いに反して、民族人種差別や性差別、利己主義、いじめ、ハラスメント、人権侵害、特に最近では新型コロナウイルス感染症の拡大の中で罹患者への偏見など現代社会は分断へと進んでいます。み心は、誰もが尊重され、互いに愛し助け合い、公平、公正、平等で平和な社会をつくり上げ、一つになることのはずです。

 

ところで私たちの教会、自分自身や身近な話としてはどうでしょうか?意見や考え方の違いから人を遠ざけたり、逆に離れようとするようなことはないでしょうか?先日、東北教区展望会議で作成された自己点検チェックシートが各教会に配られ、自身と教会を見つめ直す良い機会となりましたが、それとあわせて「大祭司の祈り」を思い起こし、主イエスご自身がわたしたちのために祈り、励ましてくださっていることを覚えたいと思います。この恵みに感謝をしながら、この世にあって信仰を守り抜き、基本的なことではありますが、自分を愛するように人を愛し、すべての人に敬意を払い、歩んでまいりたいと思います。

 

 

 

司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会 牧師)

 

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あけぼの2020年10月号

巻頭言「ハレルヤ、主とともに行きましょう」

 

 

近頃はメールや携帯電話などで連絡を取り合うことが多くなり、教会の電話、家の電話共に鳴ることが少なくなりました。そんな中で、明らかに何かの勧誘(0120から始まる番号など)以外の、未登録の番号からの電話は「教会への問い合わせかも」と勇んで出るようになっています。

 

8月7日にそんな電話がかかってきました。夕の礼拝間近かの時間でしたが受話器を取ると、高齢の男の方で、しかも少し酔っているのか、かなり聞き取りにくい声が聞こえてきます。

 

「俺の○○(お袋?)がクリスチャンでよお。一所懸命教会に通ってたんだ。だから俺もキリスト教は好きなんだけどな。」(私)「そうなんですか。ありがとうございます。」「それでな、夕べNHKで原爆の特集やってたんだけどな、原爆積んだB29が飛ぶ前に何で牧師が祈ってるんだ。これから原爆落としに行くっていう飛行機のためにキリスト教は祈るのか!」と、急に語調が変わり、こんな思いをぶつけられました。そんなこと言われてもなぁ、という思いと、礼拝前に長くなりそうだなという思いが交差しましたが、昔のこととはいえ、好感を持っていたキリスト教の牧師が広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ号」出発に際して祈っていたということは、かなりショックだったのでしょう。しかも話を続けるうちにわかったのですが、その方は核兵器反対の運動をされている方の様でした。

 

電話の向こうからは「何でだ!どうしてだ!」という声が響きます。大した知識もないことで困りましたが、「旧日本軍にも従軍僧がいたように、キリスト教国の軍隊には従軍牧師という人たちがいるのです。その牧師は原爆のことは知らなかったんじゃないかな。これから大事な作戦に出るから、乗員と作戦成功のために祈ってくれと言われたら、祈るのは当たり前だったのだと思いますよ。」と答えましたが、納得してもらえません。引き続き「それにな、俺は反対運動一所懸命やってるけど、キリスト教なんかどこも出てきたことねーじゃねーか。平和、平和とか言っても何にもやってねーだろ」とまくし立てられ、「いや、教会だってやってますよ。核兵器の問題だって世の中に、世界に向けて反対を表明してます。」このあたりから私も少し熱くなってしまい、しばらく不毛な議論が続いてしまいました。最後には「バカヤロー!死ね!」と電話を切られ、「平和運動をやってる人が、初めて話した相手に死ねとは何事か」と怒りながら礼拝堂に向かいました。落ち着かない心で礼拝することになりましたが、ふと会話の中で「(教会の)中だけでやってちゃだめなんだよ。」といわれたことを思い出しました。彼が教会のことをどれだけ知っているのかはわかりませんが、確かに教会の中だけで盛り上がって、何かを達成したかのように思ってしまっている部分がないわけではないな。と気が付かされました。

 

 

聖餐式の最後に私たちは、「ハレルヤ、主とともに行きましょう」「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」と唱えます。これは教会が目指す場所、またそれぞれが遣わされる場所に「主のみ名によって」出て行くということだと思います。それは日々の、何気ない日常の中にもあるのです。それぞれが「主のみ名によって」「私が」出て行くのはどこなのかということを念頭に置きながら「ハレルヤ!」と唱えたいものです。そしてそれが「教会を開いていく」ことにもつながっていくことを信じたいと思います。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2020年9月号

「口より行動する信仰生活」

 

 

 


「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(コリントの信徒への手紙二1:12)

 

 

コロナウイルス感染症拡大の中で信仰生活を過ごしている東北教区各教会や信徒皆さん、また地域の皆様の上に神様の豊かな恵みと祝福がありますようにお祈りいたします。

 

人々は一般的に行動より先に口を出します。また、言うのは簡単ですが行動が従わなくて失敗したり、信用を失ってしまう場合が沢山あります。

 

成功というものは、口ではなく、行に現れます。そのためには行動する生活を守らなければならないということを覚えておいてください。

 

まず、宣言は口がしますが、占領は足ですることになります。

 

足が先に行かなければならない理由があります。宣戦布告をして遠くから攻撃しても、実際にその地に旗を立てなければ占領された土地とすることができないのです。占領は、ただ、その地を足で踏むその瞬間からのものです。皆さんの成功が永遠に皆さんのものになることができるのは、行動をする場合のみ可能になります。

 

それだけでなく、口で宣言した者の責任は、行動することで責任を果たさなければなりません。皆さんが成功のために人々に話をしたとき、その宣言と行動に責任を伴っていなければ、皆さんは、多くの人々から非難を受けることになります。

 

したがって、口で述べたことの責任は行動で実践しなければならないという原理を思い出してください。成功とは、行動する者だけが味わう栄光であることを深く心に留めてください。

 

 

第二:行動は練習を介してのみ可能である。

 

言うことは簡単ですが行動は難しいものです。しかし、言葉より行動が自然に先立つには、瞬発力を育てる訓練が必要です。瞬発力は頭ではなく、感覚によって可能であり、感覚は繰り返されたトレーニングで可能となります。

 

足とは、足音を出すことだけではなく行動することで、普段繰り返された行動の習慣が自然に足を動かしています。足の動きは、皆さんが目指した成功の高みを占領するようにします。

 

 

第三:理由は行動を止める。

 

皆さんの行動を停止させ、妨害するものは理由です。いくつかの出来事が皆さんに行動してくれることを要求したとき、同時にあるものが理由です。理由はなぜ?という疑問を要求します。それで、皆さんの頭は、計算に着手し、それによって行動は、瞬発力を失い、最終的に行動にブレーキがかかってしまいます。

 

 

今、私たち東北教区に必要なのは、相手の声をしっかり聞くこと、神様が与えてくださった世の中を信仰の目で見ることです。神様の声を聞こうと努力し、神様の力を経験しなければなりません。また、神様の愛を感じる信仰生活が必要です。私たち東北教区のビジョンというものは、いろんな言葉と会議による計画ではなく、神様の前で静かにお祈りをしながら、人間の声ではなくて神様の声を聞くこと、人間の計画ではなくて神様の導きを受け止める謙虚な信仰が必要です。

 

 

司祭 ドミニコ 李 贊煕(仙台聖フランシス教会 牧師)

 

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