教区報
教区報「あけぼの」- 2018年の記事
クリスマスメッセージ「和解の王として来られたイエス・キリスト」2018年12月号
東北教区の皆様にご挨拶申し上げます。12月より、大韓聖公会テジョン教区から移籍し、日本聖公会東北教区司祭として働くことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
神に似せて造られたはずの人の姿が、美しくではなく、むしろだんだん醜くなっているようで胸が痛みます。誤った人間の姿が、あちこちに現れているように感じます。それにもかかわらず、愛である神様は、人間の姿で私たちのもとに来てくださいました。皆さんの上に豊かな恵みと、世には平和と愛が豊かにありますように願います。
神様の姿から遠くなってしまった私たちのために、神様はご自身で私たちのところに来られました。預言者アモスを通して義を、預言者ホセアを通して愛を示され、預言者エレミヤは涙を以て私たちが新たに生まれることを叫び続けたのです。洗礼者ヨハネは「悔い、改めよ。天の国は近づいた。」と叫びました。また、続けてこうも叫びました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マタイ3:1〜3)
人と人との間に、隣人と隣人との間に、国と国との間に、憎しみと紛争がいつもあります。その憎しみのあるところに、幼子イエス・キリストは来ました。憎しみがいっぱいあるところに愛が溢れるようにするために、メシアとして私たちのところに来られたのです。
人と人との間、隣人と隣人との間、国と国との間の対立と紛争は、まさに人の高慢さが生んだ競争心理からくるものです。しかし、平和の王、イエス・キリストが来られたので、いと高きところには栄光、地には平和が訪れました。正しいことにより過ちが、明るさより暗さが、真実より偽りが横行するこの世に、幼子イエス・キリストが光としていらっしゃいました。光は闇を追い出します。
幼子イエス・キリストは仕えられるためではなく仕えるために来られたので(マタイ20:28)、私たちも人から慰められ、理解され、愛されるより、他の人々を慰め、理解し、愛さなければなりません。イエス・キリストは、この貴重な教えを十字架の上で実現するためにいらっしゃいました。
和解の王として来られたイエス・キリストは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言います。許しと和解は、キリスト教の最も大切な教訓です。神様は愛の神であり、同時に許しの神です。許さなければ許されません。他人を許して、それによって自分も許しを受けて、まさに私たちが飼い葉桶で生まれ変わることに、クリスマスの本当の意味があるのでしょう。許しと和解、そして愛の幼子イエス・キリストが東北教区共同体に言われます。「私が生まれた飼い葉桶で、東北教区共同体も生まれ変わるでしょう。」
仙台聖フランシス教会 牧師
司祭 ドミニコ 李 贊煕
「『はだしのゲン』に思う癒しの原点」2018年11月号
大館へ出張する際、途中で時間があれば道の駅で昼食を食べ、そこにあるマンガ本を読むことが楽しみになっています。ここ数回は中沢啓治作『はだしのゲン』を読んでいます。
この話の舞台は原爆投下前後の広島。その広島で生きる中岡元(ゲン)という少年が主人公。父親は戦争反対者で、官憲や周りの人々から「非国民」として目をつけられ、拷問も受けています。それでも考えは変わりませんでした。そして原爆投下―。広島の街は焼け野原になり、まるで地獄の様相と化しました。火の海となり、原爆の熱線で全身を焼かれ、皮膚が垂れ下がっている人、ガラスが体中に突き刺さっている人、手足がちぎれ、目玉が飛び出し…そのような人が水を求めて歩いていました。ゲンの家族も父親・姉・弟が犠牲になりました。そして敗戦。戦争は終わりましたが、同時に人々の生きる闘いが始まっていきます。ゲンは母親と新たに生まれた弟とその闘いに立ち向かっていきます。この作品は、その闘いの中で逞しく生きるゲンの物語です。
つい先日も大館へ出向く途中、昼を食べながら前回の続きを読みました。ゲンはある時、かつての仲間に出会います。その仲間はヤクザの組に拾われ使いっ走りをしていました。組に頼らず自分たちの力で生きて行こうと呼びかけますが、混乱した時代、自分たちのような子どもは何かに頼らざるを得ないと突っぱねられます。しかしゲンはあきらめずに働きかけていきます。その仲間に勝子という少女がいました。勝子は原爆で家族を失い、おまけに顔や体中がケロイドに覆われていました。周りの人たちも気持ち悪がって勝子を避けていました。勝子の心は荒んでいました。ゲンはそんな勝子の心を汲み取り突然、勝子の腕の袖をまくり上げケロイドを舐め回しました。舐めて舐めて舐め回しました。それがきっかけとなって勝子の心は少しずつ和らいでいきました。
「ゲン、わたし、嬉しかったんだよ」
今年の聖餐式聖書日課はB年。その特定8の福音書は、キリストが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという物語です。キリストはヤイロの娘の手を取って「タリタ、クムー少女よ、起きなさい」と言うと、少女は起き上がって歩き出しました。特定18の福音書では、キリストが自分の指を相手の両耳に差し入れ、さらに指に唾をつけて相手の舌に触れることで耳が聞こえるように、口が利けるようにされたという物語でした。この二つの癒しの物語で共通していることはキリストが相手に触れているということです。ゲンも勝子の腕に触れ、そして舐めるという行動に出ました。キリストの癒しの行動、そしてゲンの行動が私の中で重なり、何かに感じ入り、珍しく食が進まなくなってしまいました。勝子は自分に降りかかった苦しみ・悲しみに苛まれ心が荒んでいました。しかしその心はゲンがケロイドを舐めることで氷解していきます。心が起き上がりました。勝子は生き返ったということが出来るでしょう。
人に寄り添うことは並大抵のことではありません。苦労知らずの私には不可能かもしれません。私にできること、それは人の苦しみ・悲しみをキリストに委ねる、祈ることかもしれません。だからこそ祈りはわたしたちの務めなのだと思います。
司祭 アントニオ 影山 博美(秋田聖救主教会牧師)
「祈りによる証と喜びに満たされて」2018年10月号
「初めから立派な司祭などおりません。どれだけ祈り、主により頼んで、日々歩んでいくことができるか、それが大切なことです。」
これは私の司祭按手に際して先輩聖職からいただいた励ましの言葉です。それから30年程経ち、その間大きな挫折もありながら、それでも何とか神様の御用を続けることができたのは、ひとえに神様の憐れみと皆さまからのお支えとお祈りによるものと心から感謝しております。
司祭、牧師の務めは、礼拝の司式・説教を行なうことや牧会、病床訪問、冠婚葬祭を執り行なうこと、教区・教会の運営に関する責任、関連施設との関係など多々ありますが、皆さんからの「わたしの家族が大変重い病気で入院しています。どうかお祈りしてください。」というお願いや、「今度旅行に出かけるので、お祈りしてください。」という様々なお願いをお受けして、お祈りを捧げるということも大切な務めだと思っています。「家族が重篤です。今すぐお祈りをお願いします。」という知らせが届けば、夜中でも病院に駆けつけるということもありました。
また、東日本大震災時における原発事故が起きる前のことですが、原発での危険な作業に従事しておられた信徒の方からの「毎日仕事につく前にお祈りをしていますが、司祭さんもお祈りしてください。」というお願いもありました。その施設は、震災時も大きな事故が起きず、守られたのだと思っています。さらに「お子さんの命は五分五分です」と医師から宣告されたお父さんからのお祈りのお願いもありました。残りの五分を神様にかけ、一緒に必死に祈りました。その後お子さんは元気になって成人となり命を繋いでおられます。
今まで経験したお祈りのお願いは枚挙にいとまがありませんが、最後に、大きな港街の教会に勤務していたときの、幼稚園児のS君とお母さんからのお祈りのお願いを紹介したいと思います。
S君は幼稚園のお帰りの時間になるとお母さんと一緒に礼拝堂にやって来ては、何やら短いお祈りをしていました。そして丁度、顔を合わせた時「お父さんのために神様にお祈りしているんだ。」とS君が教えてくれました。よくよく話を聞くと、お父さんはイカ釣りの漁師さんですが、近年、日本の近海でイカが獲れなくなり、ニュージーランドやアルゼンチン沖が主たる漁場となったので、漁に出るとノルマを達成するまで、8~10カ月も帰ってこないというのです。勿論、私も命の危険にさらされながら漁に励むお父さんのためにお祈りすることを約束しました。その後S君のお父さんが無事に戻られお会いしたとき、S君のお祈りのことを伝えると、様々なことがあったのでしょう「本当に神様が守ってくださっていました。」と証され、自分が嵐をも静められる神様に祈られていたことを心から喜ばれました。
それから15年程の月日が経ちましたが、毎年7月第2主日の「海の主日」を迎えるごとに、立派になったであろうS君のことを思い起こします。同時にこの世に祈る対象が数多ある中、主イエス・キリストのとりなしと聖霊の導きによって捧げる「天地の造り主、全能の父なる神」への祈りこそが、私たちの魂を平安へと、また、真の救いへと導き、恵みをお与えくださることを心から感謝し、喜びにあふれた教会を皆さんとご一緒にこの世に益々証することができればと願っています。
司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会牧師)
「なぜこの道を?」 2018年9月号
「進学希望校先を宮城教育大学から東北学院大学のキリスト教学科に変更をしたいのだけど、いいかな?」
1994年のある日、私は両親に相談をしました。今から24年前、私が18歳の時の話です。
私は中学生時代に不登校になり、ほとんど中学校に行きませんでした。
そんな私を3年間担任してくださった先生がいます。今ではなかなか連絡を取れていないのですが、心から尊敬している方です。昼夜を問わないでいつでも私のこと、家族のことを気にかけてくださり、先生と出会っていなければ今の私がなかったのではと思うほど大切な恩師です。私自身、子どもが大好きで将来は先生のような子どもたちに関わる仕事がしたいと漠然とではありますが思うようになっていました。そして高校生になって、将来は小学校の先生になりたいと思い、進学先は宮城教育大学を考えていました。私は、中学校はほとんど行くことが出来ませんでしたが、恩師の担任の先生、両親、弟、教父母、教会の信徒の皆さん、友人の支えにより3年生の2学期から登校出来るようになり、高校受験をすることが出来ました。第一志望校には合格することが出来ませんでしたが、徒歩通学可能な距離にある仙台の県立高校に合格できました。高校生活は充実していました。吹奏楽部に入り、ほとんど休みなく部活動に明け暮れる日々でした。そのような日々の中で将来の進路を考えていたときに中学時代のこと、そして教会を通して感じてきたことを振り返っていました。
そして聖職の道を志すことと小学校の先生の道を目指す道と2つの選択肢が出てきたのです。そして、当時の心境を振り返ってみると、私の心は「聖職」への道へと傾いていたと思います。
両親も進学希望先変更の了承と聖職を志す道も応援してくれました。
進学希望先を変更し、東北学院大学への入学が決まっていた1995年1月に阪神・淡路大震災が発生し、中山司祭に誘って頂き、神戸にボランティアに行かせて頂きました。神戸の街の惨状にただただ驚きつつも、その現場で懸命に助け合いながら生きる方々やボランティアの方々との出会いがありました。
大学に入り、新しい仲間が出来、たくさんの影響を受けました。また神戸で開催された日本聖公会全国青年大会にも、最初は遠慮して参加を渋っていたのですが、実行委員長からの直々のお誘いを受け、参加させて頂き、大会にかけるスタッフの皆さんの熱い思いと参加者との出会いを通して私の目が開かれました。そして東北教区でも青年の交わりがしたいと当時の教会の仲間に声をかけて青年活動を行ったことを、まるで昨日のように覚えています。充実していた大学生活、教会生活でしたが、大学4年の時に弟が自ら命を絶ちました。どん底に突き落とされた経験でした。この道を歩むことを躊躇する本当に苦しい時でした。
しかし、私は翌年の春にウイリアムス神学館に入学をしました。振り返ってみると私の人生の節目で見えざる神さまの導きがあったことを感じざるを得ません。神さまからの形を変えた様々な呼びかけに迷いながらも、手を伸ばし続けてきたことが、今の私を支えてくれていると信じながら、これからも聖職の道を歩みたいと思います。
司祭 ステパノ 越山 哲也(八戸聖ルカ教会牧師)
写真:十和田湖畔鉛山聖救主礼拝堂の祭壇の前に掲げられているイエス様
「安息日のこと」 2018年8月号
とんでもない耳を塞ぎたくなるような悲惨な事件が続いています。新幹線の中で若者が刃物を振り回し、小学生が帰宅寸前に若者に連れ去られ殺害・遺棄。幼子が実の親から数々の虐待を受け、命を奪わる等々、心が引き裂かれる痛ましいニュースが続いています。
氷山の一角ですから、常軌を逸した行動をとる人間はもっと多いのかもしれません。この国はどうなってしまったのでしょう。命を育むという尊い業が壊れかけているようです。
オオカミに育てられた子どもが発見され、教育したけれど、人間としての成長は難しかったと学びました。この話は諸説あり、詳細は分からないのですが、今の社会も、同様の不安を抱えているのかもしれません。
人が人間として育つのには、何を大切にしなければならないのかが問われているのではないでしょうか。人間が人間らしく育つには、中でも幼いときに、まことの愛で結ばれた人の交わり中で育つことが必要なのです。
加えて、私たちを取り巻く環境は、ふさわしくないものであふれています。
現実世界では、ほとんど触れることのないような暴力や殺害の場面(映像)がメディアを通して、シャワーのように注がれています。こんなことをしていて良いのでしょうか?
イスラエルの聖ジョージ神学校に行ったとき、「安息日を経験しましょう」というプログラムがありました。
最初に、金曜日の夕方、あるユダヤ人家族のお父さんとお子さんに案内されて、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)に行き、礼拝に参加しました。
それから日没前に、自宅に案内していただくと、流しに行き、取っ手が二つ付いた特別なコップで手を洗いました。手を清めてから食卓に着くと、ろうそくに火が灯され、お父さんが創世記1章の終わりから2章の初めを読み「神様が7日目に休まれたのだから、私たちも休みましょう」との言葉で安息日が始まりました。始めにお母さんがパンを祝福して裂き分け、ブドウ酒を特別なカップに注いで飲みました。続いて用意してあった料理をいただきました。
流れを体験しながら『これって聖餐式じゃないか!』と驚きました。キリスト教で日曜日の朝に聖餐式を行なうのは、安息日が始まるよという合図の意味もあったのです。
続いて、部屋でおしゃべりしながらリラックスして過ごしました。何しろ子どもたちは「勉強してはいけない」日ですし、お母さんは「料理や家事をしてはいけない」嬉しい日なのです。
一週間にあった出来事を家族がお互いに報告し会っている様子が、とても微笑ましかったです。ゲストの私は日本語について話し、危うく紙に字を書いて説明するところでした。(安息日では禁止行為)
このような家族の交わりが、モーセの時から3千年以上も続けられていることを知ると、大変な驚きです。この安息日がユダヤ人に与えた意義は、非常に大きいものでした。
イエス様が批判された安息日のために人があるような事態にはならないように、大事な家族の絆を強める日としていただけたらと思います。
司祭 フランシス 中山 茂(青森聖アンデレ教会牧師)