教区報

教区報「あけぼの」- 2024年の記事

あけぼの2024年2月号

巻頭言 新年メッセージ 「ガリラヤの地」

 

 

新年明けましておめでとうございます。先月号にクリスマスメッセージが載りましたから、一ヵ月遅れですが今号で新年の御挨拶を申し上げます。

 

しかしながら、元旦夕刻に能登半島地震が発生、2日夕方には羽田空港航空機衝突炎上事故が続き、心痛む、重たい気分の新年となりました。特に能登半島では強い余震が頻発し、日を追うごとに被害の大きさ、深刻さが報道されています。

 

それにしても、当初情報が少なく被害の実態や救援活動の状況が分かりませんでしたから、本当に心細くいたたまれない思いでした。情報が無いというのは人々を不安にさせます。

 

2011年の東日本大震災後被災者支援の先頭に立たれた加藤博道主教は、ある日のメッセージで私たちに「想像力」を要求しました。すなわち、被災地でない地域・遠くにいる人たちは普段どおり生活している訳だけれども、今、被災地にいる・避難所にいる人たちはとっても寒いだろう、腹を空かせているだろう、淋しいだろう、泣いているだろう、痛んでいるだろう、と想像してください、と私たちを諭しました。

 

被災された知らない人たちのことを思うのは難しいことです。しかし身近に関係する要因があれば、思うことが少し可能になります。あおの土地に行ったことがあるとか、そこはあんな風景だったとか、友人があそこにいるとかです。

 

震災後やや時間が経過して、一般人たちが全国から、海外から被災地に来られ、ボランティアをしました。その人たちは、自分の目で見、肌で感じ取ったので、想像しなくても被災された人たちに想いを寄せられました。その時から彼ら彼女らは、被災された方々の隣人になりました。

 

 

マーガレット・パワーズさんの「あしあとFoot prints」という詩で、「私の人生でいちばんつらく、悲しい時」砂の上に残されたあしあとが一つしかなかった、何故と問うと「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」と謳います。

 

人生苦難に喘いでいる最中に、イエス様がその人をおんぶしておられる、という最高に有難い真実が、殊更に大きなお恵みが、とてつもなく深い慈愛が告白されています。

 

 

         (岩木山)

2011年、私は震災後一カ月ほど現地を駆け巡って、ご復活の主イエスが言われた「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」、「恐れることはない。きょうだいたちにガリラヤへ行くように」とのお言葉を正に聞かせていただきました。

 

それ故、私たちと常にご一緒におられる主に、私たちが神から遣わされているここ東北というガリラヤでお目にかかれるというものです。私たちと共におられて、苦難の時に背負って歩いてくださり、歩んでくださる主を見つめましょう。今、私たち信仰者は、能登半島地震の被災地にいる皆さまや、ガザの人たちや世界中で被害を受けている人たちの状況・心境を想像してお祈りで繋がりましょう。想像力を持って粘り強く、辛抱強く祈り続けましょう。

 

 

教区主教 主教 フランシス 長谷川 清純

 

 

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あけぼの2024年1月号

巻頭言 クリスマスメッセージ 「静寂の中に響く声」

 

 

決して専門家ではありませんが、先ずは俳句の句から。

 

「古池や 蛙飛び込む 水の音」という芭蕉の句。ここで味わうべきは、「水の音」と表現されているものの、実は無音、静寂、沈黙と言っても過言ではありません。水の音によって響いた沈黙の世界の余韻、これがこの句の本来の味わいだと言われます。

 

あるいは、「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」に至っては、もっと鮮明に音の背後にある沈黙の世界を浮かび上がらせています。蝉の声は静けさどころではありません。しかし「静けさ」ではなく「閑けさ」と呼んで深閑と静まりかえる寺のその閑けさを、岩にしみ入る蝉の声から聴いた、というのがこの句のもつ趣なのでしょう。つまり、強音の背後に隠れた負の世界を感じる芭蕉の感性がそこにあると言えます。

 

こうした俳句の世界にも見られる「負」に対する感性が薄れてきて、結果、現代人が無音に弱くなってきた、現代は無音や沈黙の世界が失われつつある、そう評するあるオーディオ評論家のコメントに、だから大きく頷きました。同時に、そのような音に関する現状が、音の世界だけではなく、強音に引きずられて弱音を聞き取れないという「精神構造」をも生み出しているのかもしれない、そんなことも思わされます。声なき声を聞き取ることができない、強い主張をする人に押し切られてしまう会議などです。

 

 

さて、この「深い沈黙」「無音の静寂」の世界の大切さを心に留めながら、思い出したい場面、それが最初のクリスマスの夜です。私たちはこの場面を、クリスマス・クリブや聖画を通して、映像的には案外容易に思い巡らすことができるのかもしれません。しかし「劇/絵/画像」でなく、これを音の世界でイメージしてみるとどうでしょうか?

 

そこにはやはり、「深い沈黙」「無音の静寂」の世界があったのだと思うのです。馬小屋のみならず、クリスマスに纏わる様々なシーン、すなわち聖母マリアが天使からみ告げを受けたときも、羊飼いたちがみ告げを受けたときも、クリスマスに纏わる場面はどれも、深い静寂の世界があり、だからこそ天使の声が響いたのだと。詩編に「語ることもなく、言葉もなく その声は聞こえない。その声は全地に その言葉は世界の果てにまで及んだ」(詩編19:4-5)とある通りで、まさにそれが世界で最初のクリスマスだったと思うのです。星が昼間の明るさの中で見えないように、希望と言う名の光、あるいは音は、暗闇や静寂があってこそ心に響いてくるのだと。

 

クリスマス、私たちは目に見える明るさや心を躍らせる音にばかり心を奪われていないでしょうか。政治家は信用ならない、経済の先行きは不透明、戦争は起こる、私生活においても悩みや不安が残念ながらある…確かに今世界はそんな状態です。しかしこういうときこそ、実はキリストの光の眩しさが、静寂に染み通るキリストの声が、私たちの心に力をもって届くときでもあることを信じていたい、そう思います。

 

すると必ずや、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の声が聞こえてくるのだと思います。今年のクリスマス、その声をご一緒に聴くことができますようにと祈りつつ。

 

 

仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

 

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