教区報

教区報「あけぼの」- 2024年の記事

あけぼの2024年10月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「イエスの深い憐れみ」

 

 

「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えを始められた。」(マルコ6:34)

 

今年8月の主日はすべてヨハネによる福音書6章が選ばれ少しずつ読み進めてまいりました。ヨハネ福音書6章の冒頭には有名な「五千人の給食」が記されています。この記事は4つの福音書すべてに記されています。今年は7月21日(特定11)にマルコによる福音書の記事が選ばれていました。冒頭の聖句はその一部ですが、イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ」ました。

 

6章を読んでいくと興味深い事実が記されています。

 

お腹を空かせていた多くの人々が奇跡を目の当たりにして主を自分たちの王にしようとします。その人々の様子が次第に変化していきます。「わたしは天から降ってきたパンである」「わたしは命のパンである」という主の教えの真意を理解できず、弟子たちの多くは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやき、ついには離れ去り、共に歩まなくなったのです。ヨハネ6章の最初と最後では人々の様子がまるで違うのです。

 

私はこれが人間の姿だと思います。主のもとに集まってきた人々は「空腹」でした。そして生きる希望を見いだせない「限界」にあったのだと思います。私たちが生きていくためには目に見える食べ物が必要です。人はパンだけで生きるのではないと聖書は語りますが、実際に限界に追い込まれた人にとっては今日を生きていくための食べ物、そして目に見える希望が必要なのです。

 

 

盛岡聖公会では地域の課題に寄り添っていくためのきっかけとなればという思いから「フードドライブ(食料支援・回収)」を実施しました。フードバンク岩手によると「想像できないかもしれませんが、学校の給食が頼りの子どもたちにとって夏休みはとても辛い期間なのです。そのため、夏休み中の食料支援の要請は通常の倍以上にもなります。」と報告されています。夏・冬休み前のフードバンク岩手への緊急支援要請は2021年で924世帯、2023年で1,004世帯と年々増加しています。子どもたちの食への貧困問題は深刻で、体の健康はもちろん、心の健康にも大きく影響を及ぼしています。

 

 

「実にひどい話だ」と言って主のもとを離れていった人々を、なんて符深厚な人なのだとは決して言えないと思います。なぜなら、人々の置かれていた現状は大変厳しかったのだと想像するからです。満たされない時、人は絶望し自己中心的な行動、言動をしてしまうのです。ですからイエス様の言葉も彼らには届かなかったのです。そんな人間への思いが「深い憐れみ」という言葉に込められています。

 

 

飼い主のいない「限界」に追い込まれた人々への深い深い思い、まなざしが向けられています。そして、私たち一人ひとりが日々しんどさを抱えながら生きていることも主は知っておられます。「私たちの日ごとの糧」が与えられ、お腹を空かせている人がいなくなる社会の実現こそが紙の国のしるしです。「わたしは命のパンである」と言われた主のみ言葉が私たちの心に留まるためにも、「神の国」の完成のためにあなたの存在を必要としてくださっている主からの招きに応えてまいりましょう。

 

 

盛岡聖公会牧師 司祭 ステパノ 越山 哲也

 

 

 

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あけぼの2024年9月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「四十八茶 百鼠」

 

 

この言葉が生まれたのは江戸時代です。長きにわたって平和を謳歌した江戸時代は、生産性が向上し、庶民の生活もかなり豊かになっていたようです。ただ、それを面白く思わなかった為政者たちは、幾度となく“奢侈(贅沢という意味)禁止令”を発令したといいます。それは「芝居を見に行くな」「米を食べるな」「絹物を着るな」など庶民の生活全般にわたりました。着物に関しては、色・柄・素材など、細かい規定が設けられました。

 

人々は、為政者に対して表立って反抗することはありませんでしたが、定められた範囲内でお洒落を楽しめるように工夫したそうです。

 

庶民の着物は、祖愛は綿もしくは麻、色は「茶色」「鼠色」(灰色という呼び名は火事を連想させるため「ねずみ色」というのが一般的でした)「お納戸色」の3色に限定されていました。「お納戸色」というのは、何度=物置の扉を開けたときの薄暗がりの色で、濃紺に近い色です。普通、色は二次元の世界なのに、日本人は空間に色をつけてしまったのです!

 

江戸時代の庶民たちは、この許された3色に、自分たちのセンスのすべてを注ぎ込み、それぞれの色の中に微妙な色調を工夫して着物を染め上げ、バリエーションを楽しんだそうです。そしてこの3色の中でも、特に茶色と鼠色の中に多彩な色合いが生まれ、新しい呼び名がつけられました。海老茶、白茶、江戸茶、蒲茶、鶯茶、千載茶、団十郎茶、利休茶……。語呂合わせで四十八茶と呼んでいますが、実は茶色だけで100種を超える色があるそうです。鼠色に関しても、藤鼠、茶鼠、江戸鼠、利休鼠、桜鼠、梅鼠、源氏鼠、鳩羽鼠……と100色以上あります。

 

日本にこれほど多彩な色があるのは、足枷のある限られた自由の中で、お洒落を楽しもうとセンスを磨いてきたからといえるのではないでしょうか。微妙な色彩の違いを見極め、そこに工夫を凝らしたのです。

 

 

また、庶民でも経済力のある人は、着物の表地はお上のお触れに従って地味を装いながら、裏地には禁止されている正絹や派手な染め色を用い、隠れたところに贅を尽くすことで、江戸っ子の意地を通しました。裏地のお洒落は江戸っ子好みの「粋」であり、ちらりと垣間見えるそれを見逃さず気づくことのできる人が「通」、逆に、それをひけらかすのは「野暮」と笑われたのだとか。

 

 

環境を「呪う」のではなく、その環境に「乗ろう」とする。足枷があっても、逆にそれをゲームのルールにして遊んでしまう。日本人は楽しむ天才なのかもしれません。「獄にあっては獄の中でできることをする。獄を出たら、出てできることをする」とは彼の松田松陰の言葉ですが、どんな時にも、そこでやれることをやるだけだ、というわけです。いつでも、今やれることの積み重ねで奇跡は起こせるのかもしれません。

 

 

さて、東北教区の各教会がおかれた現況、そして未来は、普通に考えれば決して“明るい”とは言えないのかもしれません。信徒、聖職の数は減少の一途をたどり、それに伴って財政も逼迫しています。しかし、それでも……、今も、いつも、これからも、やれること=神のみ旨を求め、それに聴き、派遣された地でこれを実践することの先に、新しい扉は開かれるのかもしれない、そう信じたいと思います。

 

 

仙台基督教会牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

 

 

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あけぼの2024年8月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「反転しない正義」

 

 

 

 

今も昔もテレビに登場する正義のヒーローは子どもたちに人気があります。私がチャプレンを務める幼稚園でも、行けば子どもたちはそれらのヒーローのことを話題にあげ、その強さやかっこよさを力説してくれます。そんな子どもたちの様子を微笑ましく思う一方で、これらの正義のヒーローが語る「正義」とは一体何なのだろうかと考えてしまいます。彼らは劇中でよく敵とお互いの意見を戦わせます。その時多くの場合はヒーロー側が正論を言い、悪役側がめちゃくちゃな主張をするので、それをヒーローがやっつけて、めでたしめでたしとなるのがお決まりです。

 

 

しかし時々不思議なことが起こります。ヒーロー側が主張する意見も正しく聞こえる、でも敵側が話すことも決して間違いではない、いわゆる「どちらも正義」に見える場面があるのです。そしてそんな場合に、最終的にどうなるのかと言えば、お互いに暴力をもってその主張をぶつけ合い、ヒーロー側が勝って終わる訳です。でもこの場合、暴力で決着がついた後も、戦いは続きます。ネットの掲示板ではどちらの主張が正しかったのか議論になりますし、どちらの勢力のファンになるのかも争いになったりするのです。極端な言い方をすれば、私はこの構造がまさに人間の戦争状態なのだろうと思うのです。お互いに信じる「正義」を持っていて、それを押し通すために最終的に暴力に訴える。そして敗れた側は「悪」になる。これは戦争の構造そのものですし、いかに人間が主張する「正義」というものが移ろいやすいものであるかを示していると思います。

 

 

そんな世に溢れる正義の論争に、一石を投じるヒーローがいます。それは皆大好き「アンパンマン」です。彼を知らない日本人はいないくらい有名なアンパンマンですが、彼の生みの親である、やなせたかし氏は著書中で彼を「最弱の正義のヒーローである」と称する一方で、自分の理想とする正義を体現していると語っています。やなせ氏はこう言います。「正義は立場によって反転する、昨日まで正しかったことが、次の日には悪になる。それを自分は戦争でいやというほど経験した。しかし決して反転しない正義がある。それはアンパンマンが体現している、献身と愛である。これは決して変わらない。」と言うのです。

 

 

アンパンマンはご存知の通り自分の顔をお腹がすいている人に躊躇無く与えます。そうしてしまうと自分のパワーが弱くなってしまうことが分かっていても、それをどんな場面でも迷わずに、時には敵である「ばいきんまん」にさえそうするのです。もちろん話をおもしろくする中で戦いはあるのですが、その本質はどこまでも自身を献げて周りの人のために働くアンパンマンの正義であると、やなせ氏は主張するのです。

 

 

これはキリストに生きる私たちにも響く主張であると思います。イエスさまが聖書の中で、ご自身の生涯を通して教える「隣人を愛しなさい」ということが、私たちの信じる正義であるなら、私たちが目指すべき正義がどこにあるのか、見えてくる気がします。

 

 

この8月という時は、私たちに戦争のこと、平和のこと、正義のこと、色々と問いかけてくることと思います。そんな時に、世に溢れる正義について、アンパンマンが語る正義について、聖書が語る正義について、考えてみてはいかがでしょうか?

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

 

 

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あけぼの2024年7月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「私があなたがたを愛したように」

 

 

ある時、教会の礼拝にはじめて参加された方にしばらくして「教会はどうですか?皆さんとは仲良くなれましたか?」と尋ねますと「皆さんとても親切でお優しくしてくださいます。やっぱり教会は愛に溢れているところですね」というお答えを頂戴しました。「教会には愛がある」という言葉をとても嬉しく誇らしく思うのと同時に、そのようなお答えをいただきとても新鮮に感じている自分がいることにはっとさせられました。

 

 

主イエスがこの世を去られる前に弟子たちに最後の説教(ヨハネ14章ー16章)を語られましたが、そこで繰り返し語られたことは「互いに愛し合いなさい」でした。「これがわたしの命令である」とさえ語られ、繰り返しておられます。主イエスのお別れの説教でもありますから、これだけはシア後に言っておきたいという最も重要な教えであり、キリスト教が「愛の宗教」と言われるゆえんにも繋がる内容ですから私たちの教会に必要不可欠なものこそこの「愛」なのです。これはキリスト教保育についても同じです。

 

 

しかし、愛というものは、直接目で見て確かめ、取り出して見せるようなものではなく、「関係」の状態を示す言葉です。教会での交わりや友人との関係や家族との関係、夫婦の関係など、人と人との人格的関係、その関係や状態を表す言葉ということになります。私たちは、「そのような意味において主イエスが、愛の人、愛に満ちた人だということを知り、そのように信じており、そして、繰り返し「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じておられる中で、私たちは本当のところ主イエスのどこを見習えば良いのでしょう。

 

主イエスは優しく、どんなことがあっても怒らない、柔和で、子どもをニコニコ抱き上げられ、病気の人々、心身に重荷を負われる人々、貧しい人々、弱くされた人々の側に立ち、奇跡さえ行われる方としてのイメージが強いのですが、同時に、権力を振るう人を嫌い、正しいと思ったことは貫かれ、神殿で商売を行う屋台をひっくり返すような荒々しさもお持ちです。その主イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と教えられ、これこそが愛だとはっきりと言われるのです。

 

これは偏に十字架の愛であり、「犠牲愛」と言われる愛です。そして、主イエスは、弟子たちのため、人々のため、そして、私たちのためにも、本当に死んで慈しみに溢れた「愛」を見せてくださいました。ご自身を裏切る者をも許して愛し、突き落とす者をも愛し抜く愛です。そしえ十字架の上で苦しみ、死なれ、これが愛すると言うことだとはっきり示してくださった、痛みと苦しみを伴う愛です。その上であなた方もこのように愛し合いなさい命じておられます。しかしながら私は弱く、主イエスの様には死ねません。ただ主イエスを愛し、救い主と信じることによって、私たちの最後の時の罪状書はすでに無罪とされ救われています。この恵みに満たされ、互いに愛し合う教会として喜びに溢れた教会として宣教に励み、共に歩んでまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

 

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あけぼの2024年6月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「私たちの地域へ蒔く種」

 

 

最近、弘前昇天教会には多くの方が訪れています。日本全国や色々な国からの観光客もいらっしゃいますが、地元の方々もたくさん教会を訪れます。昨年は弘前市と一緒に教会訪問プログラムを計画し一日で200名くらいの方々がいらしたこともありました。しかし、教会を訪れる方々と話をすればするほど、私の心が痛くなりました。その理由は、「この教会の門はいつも閉まっていた。だから教会を観たくても観ることができない」という声を地元のたくさんの方々から聞いたからです。お

 

もちろん門を閉めていたのには様々な理由がありました。この中で一番の理由は定住牧師がいなくて信徒皆さんでは対応に限界があるからでした。

 

 

イザヤ書55章10節以下に「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には種を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた氏名を必ず果たす。」という言葉があります。このみ言葉では自然の順理が明らかになっています。

 

イスラエルの民は、自分たちが種を蒔いたとしても、その恵みを施すのは神様であると告白します。神様のご意志が必ず成し遂げられるのが創造の順理であるという言葉を心に刻みたいと思います。

 

私たちが蒔くべき種は、やはり神様から受けた恵みを他の人々が知るように努力する心です。そして行動することです。私たちが蒔いている紙さなの恵みの種がすぐにも私たちに近づいていなくても挫折してはいけません。種を蒔いてもその種がすぐに実を結び、種を蒔いた人に戻るようにはできません。それを期待するのはむしろ欲望です。

 

私たちは毎日種を蒔きます。慈悲深い神様の恵みを言葉と行動で実践することが種を蒔くことです。イエス・キリストの十字架も同じです。確かに最初は失敗のように見えますが、神様の意志は異なります。死に勝ち、完全な勝利を成し遂げるための苦痛を捧げられたのです。私たちも待っている心で、今のように種を蒔く切実な心をで暮らすなら、その実は神様がくださる恵みの贈り物になります。

 

このような人の切実な願いは主イエス・キリストが教えてくださった祈りによく出ています。神様が慈悲深いように、私たちも慈悲深く恵みを求めなければなりません。そのためには、より多くの努力をしなければなりません。神様に純粋に従う私たちが求めるものが何であるかを私たち一人一人が確認する必要があります。

 

 

最近、教会の花壇で花を見る時間が多くなりました。名前も知らない花を長い時間ずっと見る時があります。ある日なぜ花の名前を知らないか考えてみると、これまで花に対して関心がなかったからでした。関心をもって花を見ると色々な良さに気付くことができます。このように私たちが神様の宣教に関心を持って各地域で各教会に合う形はどんな形なのか。また、わたしたちが蒔くべき種はどのような種か。東北教区が、神様の前で謙遜な弟子として、祈りの中で確認する共同体になることを願います。

 

 

弘前昇天教会牧師 司祭 ドミニコ 李 贊煕

 

 

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