教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

あけぼの2022年12月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「神は人を自分のかたちに創造された。(創世記より)」

 

 

10月に人生初の入院をしました。左掌に瘤状のものができ、関節や腱を滑らかに動かすための滑油が溜まる「ガングリオン」という腫瘤だろうと思いしばらく放置していましたら、人差し指と中指にしびれや痛みがおこりだしました。右手は使えるのですが仕事や生活に支障をきたすようになり受診したところ、「血管腫」という腫瘍であることがわかりました。良性腫瘍でしたが、痛みなどは神経が圧迫されているからということで、手術を受けることになりました。手術は約2時間ほどでしたが総延長(?)約10センチほどメスが入ったので、家に帰ってから大量の出血があってはまずいからと1泊入院となりました。いつ退院できるのかわからないということではないので、入院とはいってもそれほど緊張することはなかったのですが、これまで入院されている方をお見舞いした時とは反対の視点で、病室の天井を見つめることになりました。しかも腕には点滴の管が刺さっていますので不自由な状態です。入院されていた方たちはこういう視点で訪れた私たちを見ておられたのだなと、少しだけですがその気持ちがわかった気がしました。

 

わたしは元来暢気すぎる傾向があり、不調を覚えてもすぐに受診することはありませんでした。しかし気が付けばもう高齢者の域に達しており、今回も術後に運転ができずに多くの方にご迷惑をおかけしてしまいました。改めて自分のためばかりではなく、体は大事にしなければいけないと思わされた経験でした。

 

話は過去に飛びますが、牧師になる前に働いていたところは教会関係の保育園で、保育士の約8割が信徒という職場でした。様々な教派の方が在職していましたが、その中には福音派の方もいて、職員旅行などでアルコールが出てきても口にすることはありませんでした。聖公会では牧師もお酒を飲んだり、タバコを吸う人がいることに驚いていましたが、ことあるごとに「神様から与えられた体を傷つけたり、汚したりしてはいけないと教えられている」と話していました。聖公会の面々は「ずいぶん厳しいね」とか「イエス様だってのんでたんだよね?」とかささやいていましたが、食物規程のようなものは別として「神様から与えられた体・命」ということは教派ごとの考えに関係なく、心に留めておかなければいけないことだと思います。もしかしたら健康に少し無頓着な私からは、いつの間にか「神から与えられた」という大事なことが抜け落ちていたのかもしれません。私ばかりではない。周りの人たちもすべて神から命を与えられた存在として見つめることができたなら、世の中はもう少し平和になるのかもしれませんね。命も体も私のものであるようで私のものではない。そのことを忘れたり、知ろうとしないのはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。

 

 

「なぜ人を殺してはいけないのか」という少年からの疑問に対して、答えに窮した大人がいたという話を聞いたことがあります。「法律で決まっているから」だけでは愛がありません。「神様がお与えくださった命だから」という答えも、すぐには受け入れられないでしょう。それでもあきらめることなく、主の平和のために伝え続けることが信仰であり、宣教なのだと思います。

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福

 

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あけぼの2022年11月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「ザアカイさんと十字架」

 

 

特定26(11月2日に近い主日・週日)の福音書に登場するザアカイから黙想します。テーマは、「本当の自分とは何者か」です。

 

彼は年齢不詳の税金取り立て役人、徴税人の頭で金持ちです。その世界では立場ある身分ですが、世間からはローマ帝国の回し者、イスラエル人から金をぶんどる悪人で嫌われ者です。親友とか気心の知れた友人はなく背が低い。それゆえにいくつものコンプレックスを持っていて、後ろめたさや申し訳なさ、不満、気後れなどが心中に鬱積していたでしょう。さびしいよと声に出さずに呻いていたかもしれません。そのように見受けられます。

 

そんな彼の前に、うわさのイエスさまが出現してきました。運良く目の前にそのお方がいます。彼は衝動に駆られます。ここぞ、とばかりに彼は走ります。彼の心の内にある呻きに突き動かされて行動となって表出します。彼は走って先回りをし、背が低いため、前に立ちはだかる人たちに遮られて見えないから、イチジク桑の木に登るのです。一生懸命になると、機転が利きます。障がいを乗り越えるのにそこにあるものを何でも利用する、そこにあるものが実は役に立つということのようです。木に登ると目線の高さが変わります。俯瞰するとそれまで見えていなかったものが見えてきます。全体を眺められると余裕も生じて、視点が変化します。こうして、彼はイエス様を発見し出会います。そして彼のもの凄く熱い視線がイエス様に降りかかっていきます。

 

人の魂に敏感なイエス様は、放射されている魂の波長を感じて、ザアカイにお声を掛けます。人の心の根底にある渇望とか要望に100%応じるイエス様がここにいます。

 

「ザアカイさん、急いで降りてきたらどうです。今日は、私はあなたのお宅に泊まることになっています。」これはイエス様からのお応え、お招きの優しいお言葉です。「……ことになっています」は神の必然です。それは神のみ業ということで、イエス様とザアカイの間で神様のみ業が遂行されます。

 

この出会いでザアカイは生まれ変わります。イエス様の言葉が、実はザアカイの本当を引き出すきっかけとなります。ザアカイの本当とは、すなわち貧しい人への施し、欺していたことへの償いです。つまりは、彼の本音が飛び出してきたのです。彼の本当の喜びが見つかった瞬間です。彼の喜びの大きさが、生き方の大変化へと繋がっていくことは明らかです。

 

 

「今日、この家に救いが生じた」これは究極の宣言です。自分の本当によって生きることほど幸せなことはありません。これ以上に嬉しいお言葉はないでしょう。

 

イエス様はイチジク桑の木の下に立ち、ザアカイを見つめます。私たちは十字架の下に立ちイエス様を見上げています。十字架の下には2種類の人が立っています。「神の子なら、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とののしる人と、そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言う人です。イエス様が木に登っているザアカイの隠れた真の生の要望を満たされたように、私たちも見上げた先におられる方のみ心・み旨に触れ、目覚められたら誠に幸せです。

 

 

青森聖アンデレ教会牧師 司祭 フランシス 長谷川 清純

 

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あけぼの2022年10月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「『祈りによる交わり』-お顔を思い浮かべて-」

 

 

2020年1月以降、新型コロナ・ウイする感染症に苦しむ方々が増え始めて以来、学びと交わりの生活も大きな影響を受けてきました。それから約2年たった現在も感染症拡大と減少を繰り返しており、東北六県も8月には約32万人を超える方々が罹患されました。9月に入って少し減少傾向にありますが、まだまだ終息する気配は見えません。

 

現在、礼拝の休止に関しては、感染者数だけではなく各教会の地域の状況や、礼拝に出席されている皆さんの状況も考慮するようにお願いしていますので、2年前ほど頻繁に休止するということはなくなりました。しかし、礼拝後の茶話会や愛餐会等で食事を共にすることは、感染拡大が終息するまで休止していただくようお願いしています。

 

 

このような状況の中で、私たちの信仰生活の大切な要素である「交わり(コイノニア)」が損なわれつつあると、多くの皆さんが感じておられるのではないかと心配しています。もちろん「聖餐における交わりにあずかる」ことや、「み言葉を聞くことを通してキリストとの交わりにあずかる」ことは、神様より賜るお恵みのうちに保たれています。しかし、礼拝後の「顔と顔とを合わせて」の、信徒同士の目に見える交わりということにはなると、とても気を遣っておられることと思います。また感染症流行のためになかなか礼拝に出席することもままならない方や、病気療養中のために入院中の方々、高齢者施設で生活しておられる方々との交わりとなると、本当に困難な状況におかれています。

 

7月の教役者会で、「代祷の大切さ」ということが話題になりました。確かに「顔と顔とを合わせての交わり」は難しいところがありますが、「祈りの交わり」には制限がありません。どうぞ「祈りの交わり」のうちに、様々な距離にある方々を覚えていただければと思います。できればその方々のお顔を思い浮かべてお祈りしていただきたいのです。

 

と言いますのは、30年以上前に牧会していた教会で、日本キリスト教海外医療協力会からバングラデシュに派遣され、帰国されていた聖公会信徒のK・H医師の講演を聞いたことがありました。その講演の最後にK・H医師は、何枚ものバングラデシュの人々のスライドを見せてくださり、「この中のどなたかの顔を目に焼き付けてお祈りしてください」と言われました。出会ったことのない人でも、お顔を思い浮かべることで祈りがより具体的になるということを、その時教えていただきました。

 

 

ずっと困難な状況が続いていますが、聖書にも「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(ヘブ2・18)」という御言葉がありますように、イエス様が常に、私たちと共に歩んで下さっていることを心に刻み、「祈りの交わり」のうちに日々を過ごしていきたいと思います。

 
どうぞ皆様方には、十分にご健康に留意され、主にある慰めと励ましが豊かにありますようにお祈りいたします。同時に、一日も早い感染の収束と、入院・療養中の方々の回復、医療従事者・介護福祉施設職位の方々のお働きの上に、主の御導きと御護りをお祈りいたします。

 

 

教区主教 主教 ヨハネ 吉田 雅人

 

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あけぼの2022年9月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「天の摂理に任せましょう」

 

 

イエス様は多くの悩みの中で12人の弟子たちを選ばれました。つまり、旧約聖書の12部族を代表していると思います。ところが12人の中にイエス様を裏切る人も選ばれたということです。どうして全能な方が弟子一人を間違って選んだのか?考えると、私たちも生きている中で「あ!あの友だちがいない方が、私たちのコミュニティはいいのに…。」と思うことがあります。

 

しかし、絶対に神様があきらめないのは、私たち自身がイエス様のようになることができるという希望です。これは、イエス様が贈り物としてくださった自由意志を通して成し遂げられるのです。したがって、イエス様は一度与えられたこの贈り物を奪われないのです。

 

この自由意志を通してイエス様を裏切ることもでき、イエス様のために命を捧げることもできるのです。完全にイエス様がくださった贈り物なので、神様はこの自由意志を侵害しません。ところが欲望は罪を生み、罪は死を生み出すように、人間は神様を裏切り、神様が贈り物として与えられた自由意志を互いに侵害します。

 

イスラエルの民が侵害しないのは土地です。神様から受けたので、売買ができないということです。

 

北イスラエルのアハブ王は宮殿の隣にあるナボトのブドウ畑を売るように言います。ナボトは「先祖から受け継いだ値をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません」(王上21:3)と言います。

 

その言葉に腹を立て宮殿に戻ったアハブ王に異邦人の王妃であるイゼベルは、アハブ王の名で手紙を書いて彼の印章で封印し、その手紙をナボトが住む町の長老たちと貴族たちに送り、「神と王様を呪った」という理由でナボトを殺させました。

 

そしてアハブ王にそのブドウ畑を占拠するように言います。しかし、ブドウ畑に行ったアハブ王に、神はエリヤを送り、「その罪に災いを下し、子孫を掃き捨て、アハブに属する男は自由人であっても、イスラエルから取り除いてしまう」と言われます。アハブ王はこの言葉を聞くと、自分の服を引き裂き、裸体に粗布をかけて断食に入ります。

 

すると主は彼が生きている間はそのままにしておき、彼が死んだ後、この世代でその報いを受けるようにします。

 

同様に、私たちに与えられた自由意志は、神様が奪われなかった特権です。その自由意志を侵害した瞬間、関係性が崩れ不幸が始まるのです。人間関係の中で、私が誤った欲望に従うと、他人の自由意志を侵害するようになります。

 

ではどうやって生きるべきですか?まず、キリストのように考え、話し、行動できるよう修練しましょう。人は生まれたくて生まれたのではなく、死もまた同じように、私の体は私のものではありません。瞬間だけが私のものです。

 

私の瞬間をイエス様に奉献しましょう。それ以外のものは主の摂理に任せましょう。

 

そうしたとき、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラ5:22-23)という聖書の9つの実を結ぶことができるのです。

 

 

仙台聖フランシス教会 牧師 司祭 ドミニコ 李 贊煕

 

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あけぼの2022年8月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「青なのに止まる 赤なのに進む」

 

 

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

 

 

赤信号は止まる。青信号なら進んでもよい。小学校に上がる前の子どもでも知っている交通ルールです。しかしもしもあなたが横断歩道を渡っている途中で信号が赤に変わったらどうするでしょうか。ルールに従ってその場に止まらず、渡り切ってしまうのではないでしょうか。

 

逆に、目の前の信号が青になったとしても、車が通りそうなら進むのではなく立ち止まり、安全を確保して進むと思います。この交通ルールの本質は「赤だから止まる、青だから進むを絶対に守る」ことではなく「命を守る」ことが大前提なのです。

 

 

この世にはたくさんのルールが存在します。法律や条例は、逮捕されるから守るのではなく、他者に迷惑をかけてしまうから守ることが本質です。例えば廊下を走ってはいけないのは先生に怒られるからではなく、危険だからです。

 

イエス様が地上で活動されていた周りにはファリサイ派や律法学者などがよく登場するとおり、ユダヤ教が中心で、イエス様も弟子の多くもユダヤ教徒として生活していました。ユダヤ教の律法は有名な十戒を除いても600以上のルールがありました。この律法遵守に対して厳格な人たちは、律法違反者に対して罰を与えたり、ひどく責めていました。イエスさまは律法のために人がいるのではなく、人のために律法があるのだと教えられています。人を守るために神さまが作られたルールがいつしか人を裁くためのものになってしまったのです。

 

ある冬の寒い日、僧侶のいる寺に一人の旅人が訪ねてきました。送料は宿で貸せるような寺ではないから、今晩だけにしてほしいと言って、その旅人を本堂に泊めました。夜中に、僧侶は何かが焼ける匂いで起きました。本堂に行くとその旅人は本堂の中でたき火をして暖をとっていたのです。僧侶はすぐに止めに行きましたが、その旅人はあまりの寒さに死にそうになり、耐えられなかったと説明しました。僧侶がふと周りを見渡すといつも置いてある木で彫られた仏像がないことに気付きました。旅人に尋ねると、なんと薪の代わりに、たき火の中に入れて燃やしたというのです。僧侶は激怒し、旅人を追い出しました。夜が明けるころ、大僧侶にそのことを報告しに行くと大僧侶は言いました。「悪いのはあなたのほうだ。あなたは凍え死にそうな生きている旅人ではなく、すでに入滅しておられる仏像を大切にしたからだ。」

 

確かにこの旅人のとった行動は非常識で正しい行動ではありませんでした。しかし、命を優先できなかった僧侶もまた、正しい選択をできなかったのです。

 

 

決まりを守ることに固執しすぎると本質を見失うことがあります。教会の中でも伝統的なルールや暗黙の了解のような文化は度々見られます。それら一つ一つは大切にするべきことですが、一番は私たちの信仰が守られること、神さまとの関係が守られることです。「これは絶対にこうでなくてはいけない」ではなく、神さまの愛のように寛容で柔和で人に優しい心を意識したいものです。

 

 

八戸聖ルカ教会 副牧師 司祭 テモテ 遠藤 洋介

 

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あけぼの2022年7月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「新しく創造される」

 

 

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤの信徒への手紙6章15節)。このみ言葉は2000年前のイエス様の復活と聖霊降臨から始まった教会が、その最初期の宣教の現場にあって、過去のユダヤの伝統や決まり事(律法)の間で四苦八苦しているのに対して、パウロが送っている言葉です。これは同じ教会の中にあってもいまだ古い伝統(割礼)に拘り、新しい一歩を踏み出せずにいる人々がいることに対して、本当に大切なことは主イエスの十字架の他に誇るものが無い、新しい道へと創造されていくことこそが大切であるとの教えであると思います。

 

それはまさに古いものが一度壊されて、新しいものが創造され始まっていく。そんな最初期の教会が歩んだ道を示唆するものであり、現在の私たちもまた、その新しい創造されたものとして同じ道に入っているのでしょう。しかしここでふと思うことがあります。それはこの聖書の中で起こっている「新しく創造されること」とは、実は今も起こり続けていることであり、起こり続けていなければならないことではないかということです。

 

 

料理人や伝統芸能・工業などの世界に「守破離」という言葉があるそうです。これは人が修行して行く過程を示すもので。「守」はひたすら伝統を守りその教えを吸収すること。「破」はその伝統や教えを一度壊すこと、そこに拘らないで取り組むことを意味し、「離」で自分自身という「個」を完成するということだそうです。

 

ここで面白いのは、こういった伝統あるものについて。外から見る私たちにとってのそれは、実はあまり変わっているようには見えないことが多いという点です。それは長い伝統があるものほどそう見えます。でも実際にはその伝統の中では、脈々と「守破離」が繰り返されて、新しい破壊と創造が行われている。目にはみえにくい部分で確かに「変わり続けている」からそこ、それらのものは、現実を生きる私たちにも受け入れられ「良いもの」とされているということです。

 

これは私たちもそうなのではないでしょうか。私たちの教会・教区あるいは故人の信仰にはそれぞれ歴史があり、そこには伝統と呼べるものがたくさんあることでしょう。でもそれは決して「不変」のものでも「不壊」のものでもなく、「変わり続けていく」「新しく創造され続けていく」ことが大切なのだと思います。

 

またもう一つ大切なことは、この「守破離」をなしていく上で大切なのは「確かな芯」がなければならないということです。どんな伝統あるものでも、そこに確たる「芯が」なけえれば、「守破離」の課程でそれは全く別のものに変質してしまうことでしょう。でもそうはならなかったから、それらは今も存在し続けている。

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そしてそれは私たちの教会にあっては、最も確かな「主イエスという芯」があることも示しています。どんなに私たちが、それぞれ「守破離」をしても、そこに主イエスという「芯」があり続ける限り、それは「良いもの」であり続けることでしょう。

 

 

今私たちは色々な意味で過渡期を迎えているように思います。そんな時代の中で私たちが「イエスの弟子」として立ち続けるためにも、一度それぞれの「守破離」と「新しく創造されること」に思いを寄せてみては如何でしょうか?

 

 

福島聖ステパノ教会 牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

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あけぼの2022年6月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「ロザリオの祈り」

 

 

あまり聖公会では、「ロザリオの祈り」という古くからの教会の伝統の中で行われてきた信心業について語られたり行われたりしませんが、定年退職後数年、私はこの「ロザリオの祈り」に凝っています。毎朝起床後すぐにまずこの「ロザリオの祈り」を祈り、私の一日が始まるのです。

 

「ロザリオ」とは、“バラの花冠”という意味で、“アヴェ・マリアの祈り”を一輪のバラとみなし、数珠になっているロザリオの珠を繰る時、イエスさまの生涯のおもな出来事が“アヴェ・マリアの祈り”を背景にして魂の目の前で繰り広げられます。これらの出来事は、〈喜びの神秘〉〈光の神秘〉〈苦しみの神秘〉〈栄えの神秘〉と4つの神秘にまとめられていて、それを曜日ごとに分けて行われ、私たちが主をよりよく知り、より深く愛することが出来るように、整えられて黙想が出来るのです。

 

教皇フランシスコは、“ロザリオの祈り”に関して次のように言っておられます。「ロザリオの祈りは、わたしたちを神に開く効果的な方法の1つです。それはエゴイズムを克服し、家族と社会と世界に平和をもたらすのを助けるからです」と。

 

 

先日次のようなことがありました。ロシアによるウクライナへの武力侵攻は世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを踏みにじる形で自体が展開していきましたし、今も続いています。

 

教皇フランシスコは、いのちの危機に直面している状況を憂慮され、平和を求めるために様々に努力を続けておられて、去る3月25日「神のお告げの祭日」(聖公会では、「聖マリヤへのみ告げの日」)に、教皇はヴァチカン聖ペトロ大聖堂で、ロシアとウクライナを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献されました。その際に教皇は、全世界の司教たちに、又司教を通じてすべての信者に、この奉献に一致して祈るように、出来れば教皇の祈りと同じ時間に祈りを捧げるようにと招かれ、呼びかけられました。

 

この呼びかけに応えて日本カトリック教会も、教会も、教皇によるローマでの奉献の時間が日本では夜になることから各教区で様々な工夫をしながら祈りの時が持たれました。大阪大司教区ではその「祈りの時」に参加して、世界の教会が同じ趣旨で同時に一致して祈るというこの機会に参加したい望みを持ちました。この「祈りの時」での公式の祈りは比較的長文の祈りでしたが、各国の言葉にすぐ翻訳されて世界中の教会が心を合わせて祈る祈りでしたし、「祈りの時」のベースは「ロザリオの祈り」でした。日頃少しは慣れ親しんできていた「ロザリオの祈り」でしたので、私でも参加しやすかったです。

 

このように「ロザリオの祈り」は、個人的信心業を越えて、「神の民=教会共同体の祈り」として全世界の教会が一致して祈ることが出来るという主なる神からの“招き”に気づかされましたし、その恵みに感謝した次第でした。

 

 

小名浜聖テモテ教会 嘱託 司祭 パウロ 松本 正俊

 

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あけぼの2022年5月号

巻頭言 東北教区の信徒への手紙 「あから働く、あるいは生きる」

 

 

以下は、ある単語を辞書で調べた際の説明です。ある単語とは何かおわかりでしょうか。

 

「立場上当然負わなければならない任務や義務」「自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと」「法律上の不利益または制裁を負わされること。特に違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担」。

 

そう、ある単語とは「責任」です。しかし、これでは今一つ腑に落ちないと考えるのは私だけでしょうか。そこでその理由を考えてみました。そして思い至った結論は…。

 

これらの説明はすべて「義務」という言葉の説明にも置き換えられそうだからです。しかし「責任」を「義務」とまったく同義語としてしまって果たしていいのだろうか。そう思います。なぜなら聖書に学ぶ「責任」は「義務」とは対極にある「自由」という概念から生じた言葉で、「人として支え合い活かし合いながら、共に豊かな生を生きることを求め続けるための俯瞰的な視点」をもつことだと思うからです。

 

 

ダビデ王の時代に、ダビデの息子ソロモンによって神殿建設が進められることになりました。そのためにダビデは莫大な量の金、銀、青銅、鉄、木材などを寄進し、また民にも寄進を呼びかけました。結果、おびただしい量の資材が献げられましたが、その際のダビデの言葉「取るに足りない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29章14)は、自らの行為を果たすべき義務としてではなく、神の恵みに対する自由意思の応答として捉えています。これこそが、「人として支え合い活かし合いながら、共に豊かな生を生きることを求め続ける俯瞰的な視点」をもった聖書の教える「責任」だと思うのです。

 

新約聖書の「タラントンのたとえ」(マタイによる福音書25:14~)では、「責任」についてのさらに明確な対比が示されています。旅に出る主人が僕たちそれぞれに5タラントン、2タラントン、1タラントン預けるこの譬え話において、自由意思の応答として自らの「責任」を考えたのは、商売をしてさらに5タラントン、2タラントンを儲けた僕たち、義務としてしか自らの「責任」を考えられなかったのは、1タラントン預かって穴の中にそれを隠した僕です。すなわち、義務としてのみ捉える「責任」は常に、「言われたからやった」「嫌々やった」「そうしなければならないからやった」などの言葉で装飾され、かつ自分の保身がその中心にあるのに対して、自由意思による応答として「責任」は、「こうしたら喜んでくれるだろうから」「こうするとみんなが便利だから、嬉しくなるだろうから」などそこに義務感はなく、他者の存在を視界に入れていなければ出てこない発想です。中心にあるのは他者の存在でありその幸せとであるとも言えるでしょうか。

 

私たちは、役割や機能や義務に偏らず、同じ星に棲む者同士、希望や夢を共有するために自分に何ができるのかを探し求め続けること、そこに招かれています。そうして働くこと、生きることこそが、キリストに倣う人間としての「責任」だと思うのですが如何でしょうか。

 

 

仙台基督教会 牧師 司祭 ヨハネ 八木 正言

 

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あけぼの2021年12月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「天国の鍵とみ言葉の剣」

 

 

私の奉職する福島県にある郡山聖ペテロ聖パウロ教会は、郡山市街地の中心に位置する麓山の上に建っています。聖堂は、1932年(昭和7年)に、当時のジョン・コール・マキム司祭が尽力されて建立し、ビンステッド主教により聖別されました。鉄筋コンクリート造ゴチック様式の荘厳で神聖な趣が今も保たれ、登録有形文化財に指定されています。そして2011年の東日本大震災の際には、地震の大きな揺れに加えて、地域全体が原発事故による放射性物質の被害に見舞われ、大変な苦難を負わされました。その時、日本聖公会の取り組みの拠点となるべく、セントポール会館が建てられ活動が行なわれました。現在は、信徒会館としての機能や幼稚園関係の集会だけでなく、地域に開らかれた施設として英会話教室、学習教室、生け花教室、諸団体の会議などに用いられています。すばらしい聖堂が建てられたことや聖ペテロ、聖パウロという二人の偉大な使徒の名前が命名されたことは、先人たちの宣教伝道への意気込みとして今も受け継がれています。そして聖堂内部の聖書台の前には、その象徴となるべく高さ30cmほどの聖ペテロと聖パウロの像が並べて安置されています(写真)。

 

 

聖ペテロは、主イエスの最初の弟子となり、「あなたがたは、わたしを何者だというのか。」と主イエスから問われ、真っ先に「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をし、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(マタイ16:19)と言われました。それゆえこの像の聖ペテロも立派な鍵を抱えており、聖ペテロが教会を「守る」使徒という思いが湧いてきます。しかしその聖ペテロは、主の十字架の際、主の仲間であることを三度も否定するという罪と汚点を残してしまいます。一方聖パウロの像は、左手に剣を持ち、右手には聖書を抱え、み言葉を武器に何事をも恐れずぐんぐんと前に切り開いて進む、力強いイメージが沸き上がります。パウロの持つ剣と聖書は「霊の剣、すなわち神の言葉」(エフェソ6:17)を表し、さらにその剣は「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4:12)と証されています。しかし聖パウロは他の使徒とは異質で、回心し、主に従う以前は主の働きに加わる人々を迫害して捕らえ、殺しさえする人物だったことが包み隠さず伝えられていることを加えます。教会は、信仰や礼拝を「守る」一方で、外に向かって切り「開く」姿勢を持ちますが、聖ペテロのもつ鍵と聖パウロのもつ剣は、教会に備わるべきその二つを表しているといえます。

 

聖ペテロと聖パウロの働きが全く違う性質のようにも記しましたが、二人には前述のように人間の弱さから犯した罪を「神様に赦され、愛に包み込まれた人」という大きな共通点があります。それは復活の主との出会いの中で変えられ、その後自らも人を赦し、希望に満たされ立ち上ったという点で同じです。さらに偉大な使徒にも拘わらず人間としての弱さや負の人生も包み隠さず聖書に残したことや神様に愛された喜びを証したことが、この二人の偉大さであることに気づきます。私たち誰もが、主イエスとの出会いの中で神様に赦され、その恵みによって歩み、愛され立っている者です。私たちも懸命に信仰を守り、心を開き、捧げ、主イエスの愛の生きた証し人、その肢として教会の働きを共に強めてまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会 牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

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あけぼの2021年11月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「諸聖徒日によせて~憶えて祈る~」

 

 

秋も徐々に深まり、11月1日には「諸聖徒日」という祝日を迎えます。

 

教会が諸聖徒日を守るようになったのは、5世紀始め頃のシリアの教会で、よく知られている全ての殉教者と、全く知られていない殉教者を記念して祝ったのが、その始まりだそうです。そして後には全ての逝去者を憶えて祈るようになりました。

 

よく知られている殉教者逝去者を記念することは、それほど難しいことではないでしょう。それは丁度、自分の親族や知人の死を記念する時のように、それらの人々の痛みや苦しみ、あるいは暖かい最後の交わりの時などを思い起こすことができるからです。けれども、全く知らない人を記念することは、とても難しいと思います。しかしそれが難しいと言って、私たちが記念しないなら、私たちにとっては、それらの人々は無に等しくなってしまうでしょう。

 

父なる神様はそのようなことをお望みではないと思います。イエス様は人が無視してしまうような「これらの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と言われ、私たちが知っていようといまいと、一人ひとりの人を大切にすることを望んでおられるのです。私たちが知っていようといまいと、その人の人生があり、死があるのです。その事実は空しいものではなく、私たちが考える以上にイエス様、神様にとって大切な人生なのです。そのことに私たちの想像力を、思いを巡らせることが大切なのだと思います。

 

 

2005年の夏、「聖公会国際礼拝協議会」に出席するために加藤主教様とチェコのプラハに行ったことがありました。その協議会終了後、私たちは2つの経験をしました。

 

1つは、8月6日、旧市内の聖ミクラーシュ教会で、広島の犠牲者を憶えるレクイエム・コンサートが開かれていたことです。日本から遠く離れた中欧の教会が、60年前のヒロシマの出来事、原爆犠牲者の苦しみを憶えて祈って下さる。とても感激しました。

 

もう1つは、翌日に訪れたユダヤ人町の会堂(シナゴーグ)で見た出来事です。プラハに残る6つのシナゴーグの1つに、ピンカス・シナゴーグがあります。そのシナゴーグの壁面一杯に、人の名前と生年月日が書かれていたのです。(写真)それはナチスの大量虐殺によってチェコで殺されたユダヤ人犠牲者、約7万8千人の名前だそうです。それは人々の生きていた証しであり、痛みと苦しみの記憶でもあると思いました。まさにここでも人々は「憶えて祈り続けられて」いるのです。

 

 

諸聖徒日(に近い日曜日)、私たちはそれぞれの教会で神様のもとに凱旋された方々のお名前を呼んでお祈りします。それらの方々は私たちがよく知っている人、記憶に新しい人たちであると同時に、私たちが直接には知らない多くの信仰の先達たちです。その祈りは私たちの祈りだけではなく、すでに召された方々も天上の教会でイエス様と共に私たちを憶えて祈ってくださる、共同の祈り、交わりの祈りです。この世で神様と隣人を愛して生きられた一人ひとりの人生を憶えて祈り、神様がその人々を迎え入れてくださっていることを感謝して祝う時、そこには真実の聖徒の交わりがあるのではないでしょうか。

 

 

東北教区主教 主教 ヨハネ 吉田雅人

 

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あけぼの2021年10月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「私たちは何かを信じ、何かに賭けて、前に進む」

 

 

コロナ禍自粛で先が見えない中で、冒険は遠ざかり、確実性を探し求めて生きるようになってきました。

 

夢と希望を追い求めた熱気に満ちた青春時代、そして今私は無駄なものをそぎ落してシンプルな生き方のゴールドエージを迎えました。しかしこの状況のなかでは思うような人生設計は叶いません。さらに心に映る景色が変わりました。

 

 

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

(ヘブライ人への手紙11章)

 

今信じることの不確実性に耐えがたいジレンマを感じています。私たちは少なくとも信じるものが存在しないと生きる力は湧いてきません。今顔の見える関係が希薄になってきました。見えない事実を日々確認したいのです。

 

合うことが出来れば例え貧弱な会話でも相手の顔の表情、ふるまいで心が通じます。他所とのふれあい、出会いを通して私たちは癒され、前に踏み出すことが出来ます。

 

前に出るということは冒険の旅に出かけることです。それこそ片道切符を手に握りしめて夜汽車に乗り込む心境です。目が覚めたらそこに何が待っているかわかりません。それでも信じるものに賭けて失敗を恐れず、全身で時間の止まった確実性の世界から飛び出して行きたいと思うのです。信じることを離れては何事も成すことは出来ません。生まれてすぐの赤ちゃんは全幅の信頼を母親に委ねます。この信頼が幼子の生きる力となります。

 

 

「私たちはいつまでも残るものを待っていると知っているので、財産を奪われても喜んで耐え忍んだのです。だから自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるには忍耐が必要なのです」

(ヘブライ人への手紙10章)

 

私事ですが39年間東北教区でご奉仕に与り、その間、言語に尽くせない多くの体験を皆さまのご支援をいただきながらいたしました。時に忘れることの出来ない、忘れてはいけない2011年3月11日の東日本大震災は私が生きてきた人生に疑念を抱かせることになりました。

 

2万人近くの尊い命が奪われ、33万人の方々が仮設等で片寄せ合って、生活していました。先の希望は見えず、放射能汚染で、家族はばらばらにされ、帰りたい故郷には一歩も近寄れないでいる多くの現実がありました。一見元気そうに見える方も悲しみと辛さを耐えて頑張っていました。しかし仮設から一歩外に出ると、一見前と変わらない景色の中で、私を含めて多くの人々が生活していました。被災者の方々から時々言われたことを思い出します、「帰る家があること…いいよな!」と。日常の平和な生活、平凡な生活、特に変化は無いが仕事がある生活…3月11日を境にすべてが一変した多くの方々。平和な日常は夢の又夢となりました。

 

コロナ禍は再び3月11日のあの日々を思い出しました。先が見えない耐えがたい苦難と悲しみを背負ってこの10年を生きてきた震災の当事者の方々に想いを馳せます。

 

大震災から、コロナ禍の自粛生活から見えてきたものがあります。決して忘れてはいけないもの、信じること、諦めないこと、そして忍耐を伴うが自分の確信を決して捨てないことだと思います。

 

何も出来ない、助ける術もわからない、力も能力もない、そんな時イエスがそっと寄り添って「だいじょうぶだよ」と祈りの中で天の声が聞こえてきます。

 

 

打ちひしがれた時にこそ、主の豊かな恵みに触れ、約束されたものを受けることを信じて一歩でも前に進めますように…。主に感謝

 

 

仙台基督教会 嘱託 司祭 ピリポ 越山健蔵

 

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あけぼの2021年9月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「祈り続ける教会」

 

 

今現在、私は「朝の礼拝」「昼の祈り」「夕の礼拝」を、毎日献げる恵みと幸いと喜びを享受しています。

 

祈祷書の「朝の礼拝」冒頭に次のような言葉が記されています。“毎日聖書を朗読し、詩編を歌って神をほめたたえ、祈りをささげて日々の生活を神と人とのために清めることは、初代教会からの営みであった。わたしたちも「朝の礼拝」「夕の礼拝」によってこの営みに加わるのである。”とあります。

 

“毎日聖書を朗読する”ということは、ただ沈黙で聖書を黙読するのとは違って、様々なことに気づかせてくれます。例えば、誰に向かって朗読するのか?その方に声は届いているのだろうか?そのためにどのような朗読の仕方がふさわしいのだろうか?等々……。そしてそのような営みを通して、だんだん聖パウロの言う〈キリストを着る〉(ガラテヤ3:27)とか〈キリストがあなたの心の内に住む〉(エフェソ3:17)ということが体感できるような気がしてくるのです。

 

“詩編を歌う”ということについて、私が通っている聖グレゴリオの家で学んだ言葉があります。それは『詩編は、すべてキリストの言葉であり、詩編から我々はキリストの声、キリストについての声、キリストへの声、教会の声、教会についての声を聞くことが出来る。』と。そう教えられて、心を込めて味わいながら詩編を唱える(実際には歌わないが、自然にリズムが整えられる。)と今まで持っていた“詩編理解”から何か新たな目覚めを感じています。

 

さらに、某修道・神父が「詩編を祈る」という本の冒頭で次のようなことを書いていらっしゃいます。『詩編は実際、二千数百年以上もの昔から〈神の民の祈り〉として集められ、伝えられ、そして文字通りに一日もやむことなく歌われていた。――パレスチナの寒村や豪華な得るセムの神殿の中で、さすらいのバビロニアの花の都で、さらにキリスト教の時代になってからは、ローマのカタコンブの地下聖堂や大都会のカテドラル、そして、最後に、喧噪に満ちた大東京の団地や、最果ての北海道の山奥の静かな修道院で――あらゆる種類の男女、〈神の民〉となったひとりひとりの心と口から、一日も絶えることなく歌われて続けてきた。』と。私は二千数百年前から一日もやむことなく絶えることなく歌われ続けてきたなんて、今さらながら“詩編の歴史”はすごい!と思いました。この歴史の流れに実を任せる信仰を教会は主なる神からのご恩寵として受け取り実践してきたのです。

 

言うまでもなく、私たちの信仰は”教会の信仰”です。〈キリストの神秘的なからだである教会の私たちはその肢体である〉という信仰です。この教会で毎日「公祷」として捧げられる神への賛美と感謝、祈り続けられている教会の姿は、初代教会からの尽きること・絶えることのない素晴らしい伝統・歴史です。

 

そのような伝統・歴史を踏まえて、教会共同体〈神の民〉のメンバーとして、私たちは自覚をもって教会生活を送りたいものだと思います。

 

 

小名浜聖テモテ教会 嘱託司祭 司祭 パウロ 松本正俊

 

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