教区報

教区報「あけぼの」 - 東北の信徒への手紙の記事

あけぼの2021年2月号

巻頭言「再び会いたいですね」

 

 

「教会相互の交わり・協働関係を深めます。」

 

「教区内17の幼保園(2019年現在)との協働関係を深めます」

 

 

これは東北教区宣教方針の2つの柱であるキーワード「ささげる」、「開く」の内の後者の具体的な行動指針として示されているものです。教区宣教方針が2019年11月に開催された第102(定期)教区会で決議されて早くも1年が過ぎました。

 

昨年はコロナ禍の中にあって教区の諸プログラムのほとんどが中止となりました。今年もどうなるか分かりません。

 

教会の礼拝は、感染予防をしながら再開されていますが、それ以外の事は自粛せざろうえない状況が1年近く今も続いています。皆さんと一緒に食事をして、語り合ったりする日常が特別な恵みであったことを人の出入りが減ってしまった静かな教会の会館で思います。

 

 

私自身の事を振り返っても教区の諸会議はほとんどインターネットを介したオンラインで参加しています。コロナ前は交通費や時間の節約のためにオンライン会議を教会でも取り入れていければいいなと思っていましたが、結局は話だけで終わっていました。

 

しかし、現在ではこれが日常になりつつあります。

オンライン会議はとても便利です。でも何か物足りません。何が物足りないのか。それは相手の感覚です。人間には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)があります。

人類学者である山極壽一氏が興味深い事を言っています。「人間は、視覚と聴覚を使って他者と会話すると脳で『つながった』と錯覚するらしいが、それだけでは信頼関係までは担保できません。なぜなら人は五感のすべてを使って他者を信頼するようになる生き物だからです。そのとき、鍵になるのが、嗅覚や味覚、触覚といった、本来『共有できない感覚』です。他者の匂い、一緒に食べる食事の味、触れる肌の感覚、こうしたものが他者との関係を築く上で重要」なのだそうです。

 

コロナが終息するまではなかなか自由に行き来することは難しいと思いますが、いつか必ず皆さんとお会いしたいです。
教会問答の問27に「聖奠および聖奠的諸式、その他教会の働きはだれが行いますか」とあります。答は「神の民(キリストとその教会を表す信徒と聖職)が共同体として行います」です。

 

これは「教会の働きは一人もしくは各教会単独ではなく一緒に協働していく」ことを示しているだと思います。これは大変重要な事です。

 

一人の小さな手という歌をご存じでしょうか。「ひとりの小さな手何もできないけど、それでもみんなと手と手を合わせれば何か出来る」

 

私は教会間協働、幼保園との協働を地道に着実に行っていきたいと思っています。なぜならそれが教会の働きにおいて決定的に大切なことだからです。今は我慢の時です。しかし、私たちがそれぞれの感覚を互いに感じながら再び会える時が必ず来ると信じています。

 

 

司祭 ステパノ 越山 哲也(八戸聖ルカ教会 牧師)

 

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あけぼの2021年1月号

巻頭言「サイレントナイト」

 

 

「今年のクリスマスはやめにしませんか」そんな提案を教会役員会にぶつけたのは、私が聖ペテロ伝道所に勤務していた時、近くのプロテスタント教会に勤務していた若い牧師さんでした。当然の如くに「何をいっているのだ」と役員さんたちは反発します。この牧師さん、少し言葉が足りなかったようで、いいたかったのは降誕日の礼拝をしないということではなく「例年のように派手な飾りつけや、ご馳走を囲んだパーティーをやめましょう」ということだったようです。

 

イエス様は、身重のマリアさんとヨセフさんが住民登録をするためにナザレからベツレヘムに向かう途中で、宿も取れない中で、貧しい家畜小屋でお生まれになりました。まさに「人みな眠りて、知らぬまにぞ」(聖歌第85番2節)と歌われている通りの状況でした。

 

最近知って驚いたのですが、イスラエルにも雪の積もる山があり、スキー場もあるのだとか。イエス様のご降誕が本当に12月なのかは定かではありませんが、平地でも夜は冷えた ことでしょう。暗くて寒くて静まり返った闇の中、落ち着いて赤子を寝かせることもかなわず、両親とてもゆっくりと横たわることができなかったことでしょう。想像するだけで寂しさがこみ上げてきます。

 

多くの人たちが「クリスマス」と聞いて思い浮かべる光景とは、まったく違ったみ子のご降誕の姿がそこにはありました。わたしたちは降誕日前夕の礼拝(イヴ)の中で、その時の場面を垣間見ているのかもしれません。必要最低限の光しか用いられないのは、雰囲気作りなどではなく、きっと2千年前の「その場」にわたしたちも繋がれるためではないでしょうか。神の示された「時」に確かに私たちもみ子と共に存在しているのです。クリスマスには毎年繰り返す「祭り」としての意味もあるでしょう。何度となく繰り返してきたクリスマスですが、同時に毎年私たちはみ子イエスの誕生の瞬間に招かれているということも、信仰の真実ではないかと思うのです。

 

そう考えると、礼拝が終わり「さー、次行ってみよう!」とパーティーに切り替えるのは、なんだか惜しい気がしてしまいます。もちろんそこには宣教的な意味もあるわけですから、単純には否定できないことですが、たまにはみ子のご降誕の場に居合わせた余韻を静かに感じる時があっても良いのではと思います。冒頭で紹介した牧師さんにも、そんな思いがあったのかもしれません。

 

そういう意味で今年のクリスマスは千載一遇の時です。

 

祝会をどうするかと意見を交わすまでもなく、結果は見えてしまっています。残念といえばその通りなのですが、礼拝が終わって「残念だね」とか「さみしいね」といって感染症を呪って帰るのではなく、まさに今年の降誕節は「静かな夜・サイレントナイト」に思いを寄せてみなさいという、神様からの恵みの時なのだと捉えられないでしょうか。どんな時でも、み子のご降誕は救いの時、恵みの時であることに変わりはないのです。

 

そして今年は聖家族がヘロデからの迫害を逃れたエジプト逃避行、み子のための幼き殉教者、東方からの訪問者などにも思いを馳せ、降誕の出来事を黙想する中で、豊かな恵みが与えられそうです。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2020年12月号

巻頭言「クリスマスの旅」

 

 

主の平和が皆さんと共にありますように。

 

今年私たちは、一堂に会してはご復活日をお祝い出来ませんでした。松丘聖ミカエル教会の主教巡回は、松丘保養園面会自粛要請のため中止となりました。盛岡では仁王幼稚園・牧師館落成式を大々的に開けませんでした。飲食は控えていますから、弘前での堅信式の後でも、青森の牧師任命式の後にも祝会は開けず、どこか物足りなく感じました。主イエスが弟子たちや出会った人たちと親しく食事の席に着くのが大好きだったように、私たちも会食をしながら楽しく歓談したいとつくづく思いました。

 

新型コロナウイルス感染状況に劇的な変化がなければ、来たる降誕日も「東北教区主日礼拝ならびに宣教活動のための指針_No.7」に従い、マスク着用、手指消毒、検温、ソーシャルデスタンスを徹底し慎重な礼拝を献げ、祝会は控えなければなりません。そうだからと言って、いつものようでないクリスマスである訳ではありません。かえってそれだからこそ、クリスマスはさらに意義深くまたやって来ます。

 

今起きている出来事、自分に襲いかかっている事件が不可解で、不明な時、これから先一体どうなるのか分からない、未来が読めない時に、人は悩み、不安に支配されます。そして、そのような苦悩する人に、神様は優しく、力強くささやかれます。

 

 

イエスの両親ヨセフとマリアは、赤子出産前後2回、旅をしなければなりませんでした。それは自分たちが計画して、うきうきしながらのものではありませんでした。

 

1回目は、人頭税をかけられるための戸籍登録をしなければならないという強いられた、苦痛、屈辱のナザレからベツレヘムへの旅でした。まして身重のマリアの不安の大きさはいかばかりだったでしょうか。それでも、夫ヨセフの故郷に帰省する訳ですから、少しの誇りとわずかな興奮と期待を持った旅でもありました。

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そしてそこには、マリアを支えた言葉がありました。「マリア、恐れることはない。」「生まれてくる子は神様の祝福をいただいた、神様に喜ばれる、それこそめんこい神様の子です」。新しいいのちは人知を越えた神秘的な希望なのです。

 

2回目の旅は、出産後、3人の博士たちがヘロデ王に再会せずに帰国し、王は逆鱗し幼児虐殺を命じるに及んで、誕生間もない赤ちゃんを抱えてマリアは、ヨセフに手を取られエジプトに逃避行しなければなりませんでした。この旅は出産前と真逆で、見知らぬ土地へ、外国へ、異境の地に逃れて、孤立して生き延びなければならないものでした。その心細いこと、大きな不安定さに潰されそうになります。その最中を支える言葉がありました。「ヨセフ、逃げなさい。私があなたを呼ぶまで」です。殺戮、迫害がなくなるその時は必ず来ます。ヘロデ王にもやがて終わりがきます。

 

私たちにも語り掛けてくる言葉があります。羊飼いたちが聞かされたものです。「恐れるな。大きな喜びを告げる。聞け。今日、あなたがたのために救い主・メシアがお生まれになった。」この言葉を今も私たちは聞きます。

 

私たちの人生の旅の途上で「今日、あなたにメシアが生まれ」ます。

 

 

「主よ、わが心に、宿らせたませ」(聖歌358番)

 

 

司祭 フランシス 長谷川清純(青森聖アンデレ教会 牧師)

 

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あけぼの2020年11月号

巻頭言「『すべての人を一つに』~分断の社会にあって~」

 

 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21)

 

 

これは、主イエスが十字架を目前にした時に祈られた「大祭司の祈り」の一部です。「分断の社会」という言葉をしばしば耳にする昨今、この主イエスの祈りの言葉が心に響いておりました。このお祈りの背景には、現代と同じく、主イエスにとって決して見過ごすことにできない、分断された社会構造や人間関係があったことが想像され、「すべての人を一つにしてください」という祈りの言葉は、主イエスの心の叫びと受け取ることができます。また、この祈りの直前、主イエスは弟子たちの足を洗い、弟子たちと共に最後の晩餐をとり、聖餐を制定されましたが、聖餐の奥義もまた私たちが主の命に結ばれて共に「一つになる」ことです。主は、私たちが主にあって「一つになるため」に祈られ、さらに聖餐を定められたのです。私たちはその聖餐式を行い、主の命をいただいて一つにされると信じています。そして、その聖餐式を私たちが一つになるまであきらめずに「み子が再び来られるまで」(祈祷書P175)、行ない続けてまいります。このように主イエスの祈りや思いは、世界や人々、そして私たちが一つになることにほかなりません。ただし「一つになる」ということは、「同じになること」とは違います。神様は、一人一人に同じではない命と人格、個性を与えてくださったのですから、「一つになる」ということは、それぞれ違う私たちが違うまま集められ一つとなることです。それぞれの性別、血筋、民族、主義主張、考え方や意見は違って当然の事ですし、十人十色、食べ物や色の好みも違うものです。私たち一人一人は違って良いし、違うべきだと思います。その違いを認め合って一つになる時、大きな喜びに溢れます。主は命を賭して、私たちが一つになる方法を、遺してくださったのです。しかし、主の思いに反して、民族人種差別や性差別、利己主義、いじめ、ハラスメント、人権侵害、特に最近では新型コロナウイルス感染症の拡大の中で罹患者への偏見など現代社会は分断へと進んでいます。み心は、誰もが尊重され、互いに愛し助け合い、公平、公正、平等で平和な社会をつくり上げ、一つになることのはずです。

 

ところで私たちの教会、自分自身や身近な話としてはどうでしょうか?意見や考え方の違いから人を遠ざけたり、逆に離れようとするようなことはないでしょうか?先日、東北教区展望会議で作成された自己点検チェックシートが各教会に配られ、自身と教会を見つめ直す良い機会となりましたが、それとあわせて「大祭司の祈り」を思い起こし、主イエスご自身がわたしたちのために祈り、励ましてくださっていることを覚えたいと思います。この恵みに感謝をしながら、この世にあって信仰を守り抜き、基本的なことではありますが、自分を愛するように人を愛し、すべての人に敬意を払い、歩んでまいりたいと思います。

 

 

 

司祭 ヤコブ 林 国秀(盛岡聖公会 牧師)

 

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あけぼの2020年10月号

巻頭言「ハレルヤ、主とともに行きましょう」

 

 

近頃はメールや携帯電話などで連絡を取り合うことが多くなり、教会の電話、家の電話共に鳴ることが少なくなりました。そんな中で、明らかに何かの勧誘(0120から始まる番号など)以外の、未登録の番号からの電話は「教会への問い合わせかも」と勇んで出るようになっています。

 

8月7日にそんな電話がかかってきました。夕の礼拝間近かの時間でしたが受話器を取ると、高齢の男の方で、しかも少し酔っているのか、かなり聞き取りにくい声が聞こえてきます。

 

「俺の○○(お袋?)がクリスチャンでよお。一所懸命教会に通ってたんだ。だから俺もキリスト教は好きなんだけどな。」(私)「そうなんですか。ありがとうございます。」「それでな、夕べNHKで原爆の特集やってたんだけどな、原爆積んだB29が飛ぶ前に何で牧師が祈ってるんだ。これから原爆落としに行くっていう飛行機のためにキリスト教は祈るのか!」と、急に語調が変わり、こんな思いをぶつけられました。そんなこと言われてもなぁ、という思いと、礼拝前に長くなりそうだなという思いが交差しましたが、昔のこととはいえ、好感を持っていたキリスト教の牧師が広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ号」出発に際して祈っていたということは、かなりショックだったのでしょう。しかも話を続けるうちにわかったのですが、その方は核兵器反対の運動をされている方の様でした。

 

電話の向こうからは「何でだ!どうしてだ!」という声が響きます。大した知識もないことで困りましたが、「旧日本軍にも従軍僧がいたように、キリスト教国の軍隊には従軍牧師という人たちがいるのです。その牧師は原爆のことは知らなかったんじゃないかな。これから大事な作戦に出るから、乗員と作戦成功のために祈ってくれと言われたら、祈るのは当たり前だったのだと思いますよ。」と答えましたが、納得してもらえません。引き続き「それにな、俺は反対運動一所懸命やってるけど、キリスト教なんかどこも出てきたことねーじゃねーか。平和、平和とか言っても何にもやってねーだろ」とまくし立てられ、「いや、教会だってやってますよ。核兵器の問題だって世の中に、世界に向けて反対を表明してます。」このあたりから私も少し熱くなってしまい、しばらく不毛な議論が続いてしまいました。最後には「バカヤロー!死ね!」と電話を切られ、「平和運動をやってる人が、初めて話した相手に死ねとは何事か」と怒りながら礼拝堂に向かいました。落ち着かない心で礼拝することになりましたが、ふと会話の中で「(教会の)中だけでやってちゃだめなんだよ。」といわれたことを思い出しました。彼が教会のことをどれだけ知っているのかはわかりませんが、確かに教会の中だけで盛り上がって、何かを達成したかのように思ってしまっている部分がないわけではないな。と気が付かされました。

 

 

聖餐式の最後に私たちは、「ハレルヤ、主とともに行きましょう」「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」と唱えます。これは教会が目指す場所、またそれぞれが遣わされる場所に「主のみ名によって」出て行くということだと思います。それは日々の、何気ない日常の中にもあるのです。それぞれが「主のみ名によって」「私が」出て行くのはどこなのかということを念頭に置きながら「ハレルヤ!」と唱えたいものです。そしてそれが「教会を開いていく」ことにもつながっていくことを信じたいと思います。

 

 

司祭 ステパノ 涌井 康福(秋田聖救主教会 牧師)

 

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あけぼの2020年9月号

「口より行動する信仰生活」

 

 

 


「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(コリントの信徒への手紙二1:12)

 

 

コロナウイルス感染症拡大の中で信仰生活を過ごしている東北教区各教会や信徒皆さん、また地域の皆様の上に神様の豊かな恵みと祝福がありますようにお祈りいたします。

 

人々は一般的に行動より先に口を出します。また、言うのは簡単ですが行動が従わなくて失敗したり、信用を失ってしまう場合が沢山あります。

 

成功というものは、口ではなく、行に現れます。そのためには行動する生活を守らなければならないということを覚えておいてください。

 

まず、宣言は口がしますが、占領は足ですることになります。

 

足が先に行かなければならない理由があります。宣戦布告をして遠くから攻撃しても、実際にその地に旗を立てなければ占領された土地とすることができないのです。占領は、ただ、その地を足で踏むその瞬間からのものです。皆さんの成功が永遠に皆さんのものになることができるのは、行動をする場合のみ可能になります。

 

それだけでなく、口で宣言した者の責任は、行動することで責任を果たさなければなりません。皆さんが成功のために人々に話をしたとき、その宣言と行動に責任を伴っていなければ、皆さんは、多くの人々から非難を受けることになります。

 

したがって、口で述べたことの責任は行動で実践しなければならないという原理を思い出してください。成功とは、行動する者だけが味わう栄光であることを深く心に留めてください。

 

 

第二:行動は練習を介してのみ可能である。

 

言うことは簡単ですが行動は難しいものです。しかし、言葉より行動が自然に先立つには、瞬発力を育てる訓練が必要です。瞬発力は頭ではなく、感覚によって可能であり、感覚は繰り返されたトレーニングで可能となります。

 

足とは、足音を出すことだけではなく行動することで、普段繰り返された行動の習慣が自然に足を動かしています。足の動きは、皆さんが目指した成功の高みを占領するようにします。

 

 

第三:理由は行動を止める。

 

皆さんの行動を停止させ、妨害するものは理由です。いくつかの出来事が皆さんに行動してくれることを要求したとき、同時にあるものが理由です。理由はなぜ?という疑問を要求します。それで、皆さんの頭は、計算に着手し、それによって行動は、瞬発力を失い、最終的に行動にブレーキがかかってしまいます。

 

 

今、私たち東北教区に必要なのは、相手の声をしっかり聞くこと、神様が与えてくださった世の中を信仰の目で見ることです。神様の声を聞こうと努力し、神様の力を経験しなければなりません。また、神様の愛を感じる信仰生活が必要です。私たち東北教区のビジョンというものは、いろんな言葉と会議による計画ではなく、神様の前で静かにお祈りをしながら、人間の声ではなくて神様の声を聞くこと、人間の計画ではなくて神様の導きを受け止める謙虚な信仰が必要です。

 

 

司祭 ドミニコ 李 贊煕(仙台聖フランシス教会 牧師)

 

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あけぼの2020年8月号

「『変化』の中で教会を考える」

 

 

先日、祭服や聖具を販売するアメリカの大手メーカーが、祭色にあわせて四色(白・赤・緑・紫)の、ストールと同じ柄のマスク販売をはじめたというニュースを知りました。そのニュースを聞いて思い出したのが、かつて、主教や司祭、執事もマニプルと呼ばれるストールを小さくしたような形のものを手に巻き、祭服の一部としていたことです。これは、もともとはスダリウムと呼ばれる「汗拭き」が形骸化したもので、主イエスが十字架につけられた際に手を縛った縄も象徴していると言われているそうですが、今ではマニプルをつけることはほぼなくなりました。時の流れと共に祭服も変化を遂げていると言えるでしょうか。その意味ではマスクも、もしかしたら近未来には当たり前のように祭服の一つとして採用されているのかも知れない、そんな想像をしました。そして考えたこと…。

 

 

幼少の頃、手塚治虫氏の描いた漫画『鉄腕アトム』が大好きでした。車が空を飛び、感情をもったロボットたちが活躍する情景は、空想の世界だからこその自由さや夢のあふれるワクワクする世界でした。

 

あれから半世紀、そんな空想の世界が現実のものとなりつつあります。自動車の自動運転実用化はもうすぐ目の前に迫っています。もしかしたら、「昔は車を運転するのに免許証が必要だったんだって」などと会話が交わされる未来がやってくるのかも知れません。ドローンを大型化したような人の乗れる“空飛ぶタクシー”の開発も進められているそうです。また巷ではAIの普及によって、近未来には人間の仕事でなくなる職業があると噂されています。まさに『鉄腕アトム』の世界です。さらに近頃では、水道の蛇口の下に手を出して「先生、水が出ません」と話す、蛇口をひねって水を出すことを知らない子ども、トイレでは自分で水を流すことを知らない子どももいると聞きます。

 

こうした変化が憂うべき現実なのかどうかは別にして、僅か半世紀の間に、日々の生活様式とそれを取り巻く「技術」は格段に進化・変化を遂げたのは事実です。

 

時代と共に生活様式が変化した一方で、キリストの教会はどうでしょうか。祭服がどのような変化を遂げたのか、遂げるのかはともかくも、主イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた聖餐は、2000年の間不変のものとして守られてきましたし、これからも守られていくでしょう。しかしその方法については、東面式から対面式になり、文語体から口語体になり、信徒が参与する場面も増えるなどキリストの教会も変革を遂げてきました。1968年ランベス会議やローマカトリックの教会の第2バチカン公会議を経てのそうした変革は、イエスという原点に立ち戻るからこそのことでした。

 

 

 

今、わたしたちは、新型コロナウイルスの蔓延という範疇を超えて、軸足をしっかりとイエスという原点におきつつ、すなわち時代の趨勢だからではなく、あらためて今の時代、この世界、社会におけるキリスト・イエスの「宣教=ミッション」とは?を解釈し続ける決意を新たにしなければならないと思います。「変えることのできるものを変える勇気と、変えてはならないものを受けいれる冷静さと、それらを識別する知恵をお与えください」(ラインホルド・ニーバー)と祈りつつ。

 

司祭 ヨハネ 八木正言(郡山聖ペテロ聖パウロ教会・若松諸聖徒教会 牧師)

 

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あけぼの2020年7月号

「人間は退化したのか?」

 

 

新型コロナウイルスが広がる世界にあって、私の頭の中で繰り返し響いてくる聖書の言葉があります。それはヨハネ福音書3章1節以下にある、所謂「イエスとニコデモ」と題されている箇所で、中でも「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」というニコデモの言葉と、イエス様の「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」という言葉に様々なことを考えさせられるのです。

 

このことのきっかけは、ある情報番組のコメンテーターの発言を思い出したからでした。それは現在の世界にはびこる「自己中心主義」「国家主義」過剰な「経済優先主義」を取り上げ、「人類は20世紀に入り、大戦や悲劇を体験しながらも、何とか生み出した自由や博愛、平等といった精神性、世界で一つになっていこうとする意識を獲得してきた、しかしせっかく獲得したその進歩が近年では失われつつある、人類は退化している。」といった主旨のものであったのです。

 

私は思いました。人類という一つの種は、その進化の限界に達してしまったのだろうかと。ほんの少し前までは、人類の進歩は誰も疑っていなかった。その科学技術も精神性も、これからどんどん進歩し良くなっていくと、世界が信じていたように思います。しかしながら今現在は急激にその展望は色褪せて、どこか閉塞感が漂い、これ以上先に進むことが出来ないのではないかという恐れが鎌首をもたげる世界になりつつあるように感じる。さらにコロナウイルス禍での為政者たちの姿、自己中心主義に陥ってしまっている個々の人々の姿を目の当たりするにつけ、それは確かなもののように感じてしまうのです。

 

そしてその様な今の人類の姿は、成長することも、進むことも出来なくなった「年をとった者」であるように思えてならないのです。その様はニコデモがイエス様に言ったように「どうして新しく生まれることが出来ようか」という姿であり、普通に考えるならば、年老いたものはこれ以上成長することはなく死にゆくものであるし、進化が止まった種はゆるやかに退化して滅びていくしかないという、どこか絶望的な姿です。

 

 

しかしながら聖書はそんな絶望に希望を与えてくださいます。それが冒頭でも上げたイエス様の「新しく生まれなければ、御国を見ることが出来ない」という一見不可能に思える言葉が、同時に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉により、信仰によって可能になると転換されていることからも分かります。

 

この希望は、この世界の常識であれば、もはや緩やかな衰退を待つだけに思える私たちにあっても、神様は今この状況をすらも「新しく」することがおできになる。それもイエス様を遣わされることで、信じる人を全て新しい創造でお救いくださるという希望です。

 

 

今の世界はどこに向かうのか全く分かりません。しかし私たちが信仰を持ち続ければ、必ず神様の新しい創造の下で「天の国」に近づいていくことが出来るのだと信じて、皆で共に進んで行ければと願っています。

 

司祭 パウロ 渡部 拓(福島聖ステパノ教会・小名浜聖テモテ教会 牧師)

 

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あけぼの2020年6月号

「想いを込めた手紙に秘められた力…」

 

主キリスト・イエスからの恵み、憐み、そして平和があるように (テモテへの手紙一 1:2)

 

新型コロナウィルスの感染で自粛が続き、礼拝が制限され、2月までの日常的な普通の信徒の交わりが、閉ざされてから早2ヶ月が経過しています。改めて礼拝に参加し、聖餐に与ることが生きる糧、生きる力となっていたことを思い返させられています。

 

人はやはり聖書にある創世記の始めより一人では生きられない弱い生物だと、今回の自粛で感じています。

 

 

人生の大半顔を合わせて、お互いに安否を問い、声を掛け合い、励まし合い、訪ね合う…ことが出来ない現実と向き合っているある青年のことを紹介いたします。

 

事件を起こして刑期服役中の青年と20年近く文通を続けています。毎月一度の定期便です。囲いの外の人と会えるのは、限られた数人の方々、それも年に一度あるかないかです。彼の唯一の慰めは想いを込めた手紙を出し、現代のラインのようにタイムリーには程遠い時間をかけた応答の手紙です。僕が希望を見失わず生きることが出来るのは一通の手紙ですと告白しています。その手紙は毎回、体調はどうですか、風邪は治りましたか…毎回自分のことを話す前に必ず相手の安否を心配しての長い書き出しから始まります。

 

 

聖書に目を転じるとパウロは毎週共に礼拝が献げられないため、各教会に手紙を出しました。信徒への励まし・慰めに溢れた手紙の冒頭には必ず「主イエス・キリストの恵みと平和があなた方にありますように」の書き出しで始まります。私たちキリスト者はパウロに倣い手紙の頭に主の平和がありますようにと記します。そしてお元気ですか、お変わりありませんかと続けます。

 

以前教会の交わりから離れたある信徒の方から返信の手紙をいただきました。その中で、司祭さんから、毎回送られてきた週報にたった一行ペン書きでお元気ですかと書かれていたのが目に留まり、どれほど勇気づけられ、離れていても司祭は私のことを覚えて祈ってくれていると気づき、教会にまた復帰したいことがしみじみと書かれていました。

 

今コロナ自粛で礼拝堂にて共に主日の聖餐に与ることは叶いませんが、信徒の出席が得られなくとも牧師は毎日信徒一人一人を覚えて礼拝を献げています。祈りは必ず聞かれると確信しています。ナザレ修道院では、毎朝毎夕、病床にある人、苦しみにある人の為にその人に想いを巡らしながら、お一人お一人の名前を挙げて祈りを捧げております。105歳でこの世を去られた八千代修女さんの言葉を思いだしています。司祭さんの一番の仕事は祈ることよ!祈りは必ず聴かれるのよ!がんばって!

 

こんな時にこそ、主イエス・キリストの恵み、憐み、そして平和がありますように。

 

主に在って

 

 

司祭 ピリポ 越山健蔵(仙台基督教会 嘱託)

 

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あけぼの2020年5月号

「鍵をかけた心に響く主の平和」

 

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネによる福音書20:26)

 

 

新型コロナウイルス感染症蔓延予防対策のために、東北教区内すべての教会の礼拝や諸集会が休止され、教会に集まって礼拝をささげることが当たり前ではなく特別な恵みだったのだと今、皆さん誰もが思われているのではないでしょうか。

 

主の弟子たちは、イエスご自身が十字架の苦難を予告していたにも関わらず、そんなことがあるわけない、そんなことがあってはならないという心理状態であったと思います。

 

新型コロナウイルス感染症が中国で発症したという報道を昨年12月に耳にした時は正直なところ情けないのですが私にとってそれは対岸の火事で、まさかこんなことになるとは想像出来ませんでした。

 

これから大きな苦難が到来するから備えておかなければならないことは耳にはしていながら心が向き合っていませんでした。そんなことがあるわけないとこれから起こりうる出来事から逃れようとしている自分自身と主の受難の予告を受け止めない弟子たちの姿が重なります。

 

イエス様はご自身の予告通りに十字架上で死なれました。その現実を突きつけられた弟子たちの生活は変わっていきました。皆、それぞれの家に鍵をかけて閉じこもってしまいました。

 

英国の聖公会はコロナ対策のために礼拝を休止するだけでなく、物理的にも教会の扉に鍵をかけていることを知りました。教会の扉はいつでも開かれていなければならないのに、それすら出来なくなっている状況です。

 

多様な価値観を持っている人間ですから現在の状況に対してもそれぞれ考え方があって当然です。一番悲しいことはこのような生活が続くと人の心がすさんでくるのです。

 

多様性は私たちを神様に心を向けさせるものなのですが、情報が嵐のように飛び交う中で何を信じて良いのか分からず不安と恐れの中で多様性を受け止めることが出来なくなってしまい、様々な弊害によって私と神様の関係を、そして私とあなたの関係を壊していきます。

 

だからこそ、今皆さんと分かち合いたいみ言葉が冒頭の箇所です。主イエス様は真ん中に立っておられます。私たちの現実の只中に身を置かれて十字架の死、つまり私たちのすべての身勝手さをすべて受け止め身代わりに犠牲となってくださったお方が、「あなた方に平和がありますように」と「あなた」に「わたし」に宣言してくださっているのです。

 

復活されたイエス様は鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの心を否定せずに全受容し、その大きな愛の中で弟子たちのすさんだ心は徐々に開かれ、失われた日常が回復していったのです。

 

「私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることができる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン」(エフェソの信徒への手紙3:20〜21)

 

司祭 ステパノ 越山哲也(八戸聖ルカ教会牧師)

 

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あけぼの2019年12月号

巻頭言「ウェルカム・ミニストリー」

 

 

かつて英国のある主教座聖堂の礼拝に参加した時、ちょうどその日に「ウェルカム・ミニストリー」を担う信徒の人たちの祝福式(礼拝とパーティ)があり、大変印象的に思いました。日本の現状に一番近い働きでいえば「アッシャー」というところです。ただもう少し活動の範囲は広いものでした。海外の教会、とくに大聖堂に行かれた方は、何か目立つしるし(腕章等)をつけて、観光客のガイドをしている親切な、そして大体は年配の男女を見られたことがあると思いますが、あの方たちのことと思ってよいと思います。まさに「教会にようこそ」という役割です。もちろんボランティアです。

 

「教会を開く」ということが、今東北教区の大事なテーマになっていますが、私は例えばですが、教会の扉を、ともかく毎日開けておく、誰でも入れるようにしておくことだけが「開かれた教会」ではないと感じています。逝去された野村潔司祭がかつてカナダに留学され、その帰国の報告を伺ったことがあります。カナダで、もし教会の扉を常時開けていたら、礼拝堂はたちまちホームレスの人たちの住居になると言われていました。そして教会も扉を開けているのであれば、それを前提に、教会に社会福祉士のような人を配置して前向きに対応していると(すべての教会ではないでしょう)。
いきなり、私たちもそうすべきだと言う積りはありません。しかし私見では、毎日ただ扉を開けておくよりも、例えば「火曜・木曜・土曜は午前10時から午後4時まで教会の玄関は開いています。そして信徒のボランティアがお待ちしています」と言えた方が、余程よくはないかと思うのです。もちろん誰もいない礼拝堂で一人祈りたい方もあるでしょう。扉が開いていることが無意味だとは決して申しません。しかし扉は開いているけど誰もいません、「今日は牧師がいないので、何もお話は出来ません、聞けません」というのはあまり「開いている」感じはしないのです。週に一度でも、交代で信徒のボランティアが教会の中に居られたら。人が来ない時は何か教会の事務(誕生日カードや逝去記念カードの宛名書きとか)をされたらよいのではないか(すでにそうされている教会もあるでしょう)。ここまで話をしたら「いや~、それは信徒には無理です」と言われたことがありました。牧師がいないと駄目だというわけです。確かに専門的なカウンセリングのような応対は誰でも出来るわけではないでしょう。しかし専門的な話ではなく、この教会はこういう所ですよ、わたしもこんな感じで教会に来ているんですよ~、と普通の会話でいいと思います。それ以上の特別な悩み、課題があれば、それこそ牧師はいついついますからその時に、と訪問予約をしてもいいのではないでしょうか。

 

こういうことが出来る教会と、もはや人数的にもとても無理だという教会とがあるだろうことは承知しています。

 

私の申し上げたいことは「教会が開いている」ということの一つの側面として、物理的な扉だけではなく、信徒の方たちが教会について、自分の信仰について、もう少し積極的に語る、ということもあるのではないか、ということです。

 

主教 ヨハネ 加藤博道(磯山聖ヨハネ教会牧師)

 

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あけぼの2019年11月号

巻頭言「365日が祭り」

 

少し季節外れの話題なのですが、先日あるインターネット番組を視聴していた時に、ある社会学者の方が、日本の「お祭り」について面白いことを述べていました。そこでは「日本のお祭りとは、元来自然信仰から始まっている訳ですが、何故そのようなお祭りが連綿と続いているのかというと、お祭りという行為によって人間が正気を保つためであるから。」とし、人間は古代から現代に至るまで、常に神の領域(自然)を侵し続け、破壊し続けている、自然と神としつつもそれを壊している現実がある。そんな自分たちの現実を一度意識してしまうと、その罪悪感と葛藤から人間は正気を保てなくなり、ついには刹那的に「自分さえ(人間さえ)良ければ」という志向に囚われ暴走を始めてしまう。そこにストップを掛けるために年に一度祭りを行い、自分たちのすべてを献げる気持ちで神々を祀る、その瞬間だけはすべてを神に委ねてその裁きすら受け入れる覚悟をもってお祭りをする。そうすることで自分たちの罪悪や葛藤と折り合いをつけて、正気を保って生活を続けることが出来るようになるという考察でした。

 

 

なかなか面白い考察だなと思う一方、その「お祭り」の性質は、私たちとは正反対でもあるとも感じました。私たちキリスト者がいう所の「祭り」とは、祈祷書の聖餐式中で「み子が再び来られるまでこの祭りを行います。」とあるように、聖餐式を代表とする日々の祈りであり、神の国を実現するための献身、宣教そのものであると私は思います。それは日曜日だけでも52(53)回あり、さらに日々の祈りや聖書を開く時、宣教者として生きる生活を考えれば、それは一年365日の時を占めるものである。そしてその「祭り」は、むしろ自分たちの罪深さを「忘れるため」ではなく、「記憶し続けること」、そして自身を神の国のために「献げ出し続けること」を私たちに求めます。また「折が良くても悪くても励みなさい」(テモテⅡ 4:2)と教えられている通り、私たちの「祭り」という名の祈りと宣教は、自分の都合で止めるものでも、止めていいものではなく、まさに「年に一度」ではなく「常に」であり、そこにある働きも正反対であるのです。

 

 

しかしそうなると、ただでさえ弱い私たち人間はその突きつけられる罪、担わされた任務、献げることへの躊躇で潰れてしまいそうになる。でもそこに私たちの「祭り」と日本の「お祭り」の決定的な違いとして、ともに歩くイエス様がいることが見えてくるのです。人間では耐えられない罪も、不可能な献身も任務も、共にイエス様が担ってくださると知るときに、私たちが続ける「祭り」は一時の贖罪でも重荷でもなく、喜びを伴う救いと希望の発露であることが分かります。

 

あるいはそれは、分かりやすく「楽になる」といった救いとは違うかもしれません。しかしこの「祭り」を献げ続けることは、真の救いになる、人にとっても世界にとってもその場しのぎではない救いであり、前進となるでしょう。現在のw足したいを取り巻く状況は決して易しいものではありませんが、この「祭り」を一人一人が「献げ続ける」ことで、イエス様と共にある私たちの道は開けていくと信じています。

 

司祭 パウロ 渡部 拓(福島聖ステパノ教会副牧師)

 

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