教区報
主教コラム - 礼拝堂探検隊の記事
礼拝堂探検隊 第4回「洗礼盤-③」
八角形の洗礼盤は5世紀頃、円形の洗礼盤は14世紀頃から始まったのですが、それ以前はどんな形だったのでしょうか。
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったのはヨルダン川でしたから、最初期は川や泉など、流れる水のある所だったようです。しかし教会の側に常に川があったわけではありませんから、3世紀頃には長方形の洗礼槽が現れました。水の深さは腰の少し下か、あるいは足首を洗う程度だったようです。
祈祷書81頁をみますと「司式者は・・・父と、子と、聖霊のみ名を唱えるごとに志願者を水に入れるか、またはその頭に水を注ぐ」とされています。この「水に入れる」洗礼方法を「浸礼」と言い、「頭に水を注ぐ」方法を「滴礼」と言います。「滴礼」も2世紀前後にはすでに行われていたようです。
「滴礼」の場合は、今まで紹介してきたような洗礼盤で十分なのですが、「浸礼」となるとそれなりの大きさの洗礼槽が必要となります。ロンドンのランベス・パレス南側にある旧ランベス聖マリア教会(現在は庭園博物館)の搭の半地下部分は、1900年頃に浸礼が行える洗礼堂に改修されたそうで、英国国教会でも二例しかないそうです。
海外聖公会はともかく、日本聖公会ではほとんど見ることができない、浸礼を行える洗礼槽が、山形聖ペテロ教会にあります。洗礼盤が置かれている洗礼堂のカーペットをめくると、その下にひっそりと存在しています。写真の左が洗礼槽で縦105㎝・横52㎝・深さ90㎝。内側はトタン板張りになっており、右奥に大きな木の栓があります。右側は司式者が立つ場所です。
この聖堂は1910年にガーディナーの指導でW・スマート執事によって建てられたものですが、その意味でも貴重な建物だと言えるでしょう。
教区主教
礼拝堂探検隊 第20回「祈祷書」
今回は「祭壇用祈祷書」です。とはいっても皆さんがお使いの祈祷書と中身は同じで大きいだけですが。
祈祷書は英語でThe Book of Common Prayer(ザ ブック オブ コモン プレイヤー)と言い、「共同の祈りのための本」という意味です。お祈りや礼拝式文が文書化されるのは3世紀になってからのようですが、今の祈祷書のように一冊本ではなく、礼拝の種類ごとに様々なものがありました。
例えば、中世には聖餐式と堅信式を同時に行う時には最低でも「ミサ典書」と「司教用定式書」が必要でした。ですから礼拝によって聖職は何種類もの礼拝書を操らねばならず、また当時の礼拝用書は非常に高価で、信徒用のものはなかったようです。
しかし宗教改革は信徒を、聖職が執り行う「聖なるドラマ」の観客から、聖職と共に礼拝を献げる者に変えました。また活版印刷術の発明は書物の大量出版と低価格化を実現しました。
1549年、英国聖公会大主教T・クランマーは中世の諸礼拝式文を一冊の本にまとめました。それが約470年にわたって、世界の諸聖公会で用いられている祈祷書の最初のものです。
クランマーは祈祷書作成にあたって、①複雑な礼拝を単純化する、②会衆が積極的に参加できる礼拝、③自国語による礼拝、④初代教会の慣習の回復、⑤聖書に基づいた礼拝用書にする、の5点を大切にしました。
祈祷書は時代の中で何度も改訂されてきましたが、このクランマーの基本方針は忠実に守られています。私たちは至宝の祈り集である祈祷書を大切にし、信仰生活を送りたいと思います。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第5回「聖堂ー①」
聖堂入口脇にある洗礼盤をちらりと見て、洗礼の約束を思い起こした私たちは、聖堂の中に入っていきます。
その前に、聖堂の全体像を見てみましょう。もっとも、初代教会の頃、キリスト者は特別な集会場所をもっていませんでした。聖パウロの頃は比較的大きな家を持っていた信徒宅が主日に礼拝場所として提供されたようです。また、迫害時代には信徒宅以外に、こっそりと人目につかない場所に集まっていたようで、ローマのカタコンベ(地下墓地)は有名です。
しかし、313年のミラノの勅令によってキリスト教が公認されると、特定の礼拝場所として聖堂が建てられるようになりました。これらはバシリカ様式と呼ばれますが、当時のローマの法廷などの建物が、そのまま教会建築に応用されたようです。
その後、時代と共に建築様式はビザンティン、ロマネスク、ゴシックなどと移り変わっていきますが、その基本はバシリカ様式にあるようです。聖公会の多くの聖堂もこの様式を基本にしていて、その最も単純な形が右の構造です。
①は祭壇が置かれているサンクチュアリー sanctuary(至聖所)、②は朝夕の礼拝が行われるチャンセル chancel(聖所または内陣)、③はネイヴnave(身廊)と呼ばれる会衆席の場所です。
聖堂は原則として祭壇のある部分が東方になるように建てられました。そこで祭壇のある方を「東(Liturgical East リタージカル イースト)」と呼びます。聖堂が実際には東西方向に建っていない場合でも、祭壇のある方を「東」と呼び、その反対方向を「西」と呼ぶのが慣例です。ですから祭壇の方を向くことを「東面する」と言います。
教区主教
礼拝堂探検隊 第21回「チャリス・パテン」
今回は聖餐式の時に聖別されたぶどう酒を入れるチャリスと、パン(ウエファース)を入れるパテンです。金または銀で作られていますが、それは酸による腐食を防ぐためだそうです。
初期の時代のパテン(paten 聖皿)は、会衆から献げられた大きなパンを受けるためにかなりの大きさだったようです。しかし中世中期になりますと、パン(聖体)が種なしの薄いものになった関係で、パテンも小さくなったようです。
初期の時代のチャリス(Chalice 聖杯) はガラス製が一般的でしたが、ほかの素材(木製など)を使うこともありました。チャリスの最も古い形は、カタコンベに描かれているもので、二つの取っ手がついた、柄(ステム)のないボウル状だったそうです。
4世紀に入ると金製や銀製が一般的になり、それに宝石などを嵌めたものも作られました。もっとも9世紀頃までは陶磁器や木製のものもあったそうです。映画の「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」で登場した聖杯も木製でしたが、宗教改革者ツヴィングリも木製のものを使ったそうです。現在のような形になったのは14世紀だそうです。
最後の晩餐の記事のように、聖別されたぶどう酒は一つの杯より飲むのが正当とされています。なぜなら主イエスは「皆、この杯から飲みなさい」(マタイ26:27)と言われたからです。プロテスタント教会で個人用のカップを用いる所がありますが、主として衛生的見地から19世紀に米国で始められたものです。しかしこれでは「分ち合う」という意味を弱めてしまうと言う批判もあります。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第6回「聖堂ー②」
日本聖公会の多くの聖堂は、英国の典型的な大聖堂を縮小し、簡略化した構造をしているものが多いようです。
このような大聖堂は、上から見ると十字架型をしているものが多いのですが、東北教区の教会で明らかに十字架型をしているのは、山形聖ペテロ教会の聖堂です。
この十字架の横木の部分をトランセプト transept(翼廊)と呼び、縦木の会衆席の部分をネイブ nave(身廊)と呼びます。山形聖ペテロ教会では、右側のトランセプトにオルガンを置いています。翼廊の部分を小聖堂として用いている教会もあります。
ネイブ naveというのはラテン語のナヴィス(navis・船)からきた言葉で、教会をこの世の嵐の中を漕ぎ渡る船にたとえています。マルコ4・35に嵐の中、腕枕をして眠っておられたイエス様の話がありますが、このことを思い起こさせます。つまり、会衆席は「救いの箱舟・安心して居ることのできる場所」を象徴しているとも言えるでしょう。
左の写真は弘前昇天教会のネイブから祭壇方向を見たものですが、上下逆にしてみてみると、天井部分がなんとなく古代船(ローマ帝国時代の船)の船底構造に見えませんか。
教区主教
礼拝堂探検隊 第22回「クリーデンス・テーブル」
祭壇の左側(東面の時は右側)に置いてある小さなテーブルのことを「クリーデンス・テーブル(credence table)」と呼びます。
教会では、聖餐式に用いるパン・ぶどう酒などを用意しておくテーブルのことを指しますが、クリーデンスという英語は、「信用・信頼」という意味で、ラテン語のクレド(credo 私は信じます)が語源だそうです。もともとは味見や試食のための食物を置いたサイドテーブルを指す言葉だったようです。
さて、このテーブルの上に置かれるパン(信徒用のウェファース)を入れる容器を「ブレッド・ボックス(bread box)」と呼び、読んで字のごとく「パン箱」です。またぶどう酒と水を入れる容器のことを「クルエット(cruet)」と呼びますが、これも単なる「小さな水差し」という意味です。ちなみにブレッド・ボックスの右側にあるのは、ラバボ・タオル(lavabo towel)とラバボ・ボール(lavabo bowl)です。ラバボとは「洗手」という意味です。
つまり、クリーデンス・テーブルも含めて、その上に置かれる各々の容器は特別なものではなく、ごく一般的・日常的なものであることが分かります。
ですから大切なことは、それらの容器に入れられたもの、つまりパンとぶどう酒と水が献げられ、感謝聖別の祈り・聖霊を求める祈りのうちに、キリストの御体と御血とされ、私たちを養ってくださるということではないでしょうか。また私たちの日常性が、祈りと聖霊の働きを通して聖なるものとされるということでもあると思います。
その意味で、それらを用意する机が「クリーデンス(私は信じます)テーブル」と呼ばれるのは、奥深い意味があるように思いますが、いかがでしょうか。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第7回「聖書台・説教壇ー①」
今回は会衆席の奥、チャンセル(内陣・祭壇や司式者席等がある一段高くなっている所)から少し会衆席の方に張り出している聖書台と説教壇を見てみましょう。
その前に、チャンセル(chancel)とはラテン語のcancellus カンチェルス に由来する言葉で、「格子戸」と言う意味です。それはネイブ(身廊・会衆席部分)とチャンセル(内陣)の境に格子戸があったことからきているそうです。この「格子戸」は日本聖公会ではほとんど見られませんが、山形聖ペテロ教会と北関東教区の日光真光教会に残っていました。
さて、多くの教会では聖書台は祭壇に向かって右側、説教壇は左側に置かれています。また現在の山形聖ペテロ教会のように、聖書台と説教壇の機能を兼ねた聖書台が、中央に置かれている教会もあります。
伝統的には祭壇に向って右側を使徒書側(Epistle side)と呼び、左側を福音書側(Gospel side)と呼びます。
朝夕の礼拝をはじめとする諸礼拝で、聖書は一般的に右側の聖書台で朗読されます。しかし、文語祈祷書の聖餐式では、右側の聖書台で使徒書が読まれた後、昇階唱か聖歌を歌っている間に、サーバーが祭壇用祈祷書を恭しく左側に移動させていました。その後、司祭は祭壇中央から左側に移動し、そこで会衆の方を向いて福音書を拝読していました。(つづく)
教区主教
礼拝堂探検隊 第23回「サンクトゥス・ベル」
聖餐式の途中、司祭が感謝聖別の祈りを唱えている静寂の中で、突然チリンチリンチリンとベルが鳴り始めて驚かれたことはありませんか。
あのベルのことを、私たちは「サンクトゥス・ベル sanc-tus bell 聖なるかなの鐘」と呼んでいますが、それ以外にも「セイクリング・ベル sacring bell 神聖な鐘」とか「オールター・ベル Alter bell 祭壇の鐘」という言い方もあるそうです。
このベルをサーバーが何のために鳴らすのかといいますと、「聖餐式の中の特定の瞬間を強調し、会衆の注意を喚起するため」なのです。「サンクトゥス・ベル」と呼ばれるのは、一同で唱える「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神 主の栄光は天地に満つ」の「聖なるかな」のところで3回鳴らすからで、この習慣は十五世紀からだそうです。
もう一か所は、司祭が「主イエスは渡される夜」で始まる聖餐制定語を唱える時で、「わたしを記念するため、このように行いなさい」と言って一礼した後、パンを高く掲げ、それをパテン(聖皿)に置いた後一礼する動作(ぶどう酒の時も同じ。この動作をエレベーションと言います)の時に、3回ずつ鳴らします。この習慣は十二世紀に始まったと言われています。
このような習慣は、中世の礼拝で用いられた言葉がラテン語だったため、一般の人々には何を祈っているのか理解できなかったので、「ここは大事だよ」ということを知らせるためだったのでしょう。
ほかにも聖餐制定後を唱える直前とか、司祭が陪餐した後、信徒が祭壇の前に進むことができる時を示すために鳴らすこともあるようです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第8回「聖書台・説教壇ー②」
文語祈祷書時代には、なぜ祭壇用祈祷書(福音書)を左側に移動し、そこから読まれたのでしょうか。
これには諸説ありますが、初期の西方教会で、キリストの福音が地中海側(南側、即ち右側)から異民族の住んでいた大陸内部(北側、即ち左側)に宣教されていく有様を現しているそうです。現在ではしばしば福音書は会衆席の真ん中で朗読されます。これは、世界の中で福音が宣言されることを意味しています。
そのことから考えますと、聖書台から聖書が朗読されるということは、神様の御言葉が世界に向かって宣言されるということであり、それを聞く私達は御言葉に養われることを意味します。
また説教壇が左側(福音書側)にあるということは、説教とは現在の状況の中で説教者の口を通して語られる御言葉(福音)の解き明かしだということです。本当にそうなっていれば良いのですが。
さて、これらに共通することが一つあります。それは聖書も説教も、そのどちらもが「聴く」ものであるという点です。誰もが聖書を読めるようになったのはたかだか五百年。それまで聖書は読むものではなく聴くものでした。「聴」という字は、耳を大にして、十方四方に心を配って聴く姿勢だそうです。
その意味で聖書日課朗読者は聖堂の一番後にいる人にも届くような読み方に心掛け、私達は礼拝の中で御言葉を「聴くこと」に徹しますと、今までとは別の響きで聴けるのではないでしょうか。
教区主教
礼拝堂探検隊 第24回「聖所灯」
聖堂に入ると、昼夜を問わず灯っている光があります。聖卓の上に灯っている赤いランプのことで、「聖所灯(サンクチュアリー・ランプ)」と言います。これは一体何のために灯されているのでしょうか。
この灯りはご聖体(聖別されたパン)が保存されているしるしで、十三世紀からの習慣です。ご聖体の保存そのものは古代教会時代から行われており、病気の方に捧持して聖餐に与らせるためでした。ご聖体を保存する容器をピックスと言い、それは聖櫃(せいひつ・タバナクル)と呼ばれる箱の中に安置されました。
この聖櫃の前に灯りをともす習慣は、英国では1240年にウースター教区のウォールター・ド・カンティループ司教が「ご聖体の前では昼も夜もランプが燃えていなければならない」と命じたことによるそうです。
東北教区の多くの教会には聖櫃がありますが、聖櫃そのものがない教会もあります。また聖櫃があっても聖体を保存していない場合もあります。にもかかわらず聖所灯は灯っている・・・。そもそも聖所灯は、「ご聖体が保存されているから敬意を払いなさい」との注意を促すしるしです。ですから常時ご聖体を保存していない場合には、聖餐式を行う時に点灯し、それ以外は消しておくのも方法かもしれません。
しかし聖所灯に与えられた意味を再解釈することが許されるなら、次のように考えることもできるでしょう。即ち聖所灯が灯っている場は、「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」を覚えて主に感謝する場、主と一つに結ばれる場です。このことを憶えて、主に一歩一歩近づいていきたいと思います。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第9回「聖歌表示板」
チャンセルに上がる前に目に入るのは「聖歌表示板」。この正式名称は分かりませんが、その日の礼拝で歌う聖歌の番号を知らせる道具です。形は教会によってさまざま、最新式では電光掲示板式のものもあります。
聖歌番号を知らせるという意味では、別になくてもよいかも知れません。聖歌番号は週報に印刷してありますし、歌う直前には司式者やサーバーが番号を告げるのですから。
しかし教会は目の不自由な方、耳の不自由な方にも開かれています。高齢の信徒の方々が増えるにつれて、今の聖歌集では重過ぎるという声もありますし、アナウンスの声が聞こえにくくなったという方もおられるでしょう。
そこで教会によっては、パソコンとプロジェクターなどを用意して、少しでも見やすくなるような工夫をしているところもあります。また一人一人の人に音が聞こえるように、会衆席に小さな個人用スピーカーを着けているところもあるそうです。あるいは手話通訳者がおられる所もあります。「聖歌表示板」はその中でも、最も古くから愛用されている「会衆をサポートする道具」なのかもしれません。
それともう一つ、この表示板は聖歌番号だけでなく、その主日の名称も示しています。これは今がどのような時(神様の時―カイロス)かを知らせているのです。
いずれにせよ、福音はすべての人に開かれています。神様はすべての人に福音がとどくことを望んでおられます。そのために私たちのできること、神様の宣教の業に奉仕できることを見出していきたいものです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第25回「聖櫃/タバナクル」
前回、聖所灯についてお話しました時に「聖櫃」という言葉を用いました。これは「せいひつ」と読み、英語ではタバナクルと言います。聖別されたパン(聖体)を入れた容器(ピックスやシボリウム)を安置するための箱状の器です。聖別されたワインや聖油を入れることもあります。
タバナクルという言葉はラテン語のtabernaculum(テント/幕屋)に由来し、礼拝堂内の様々な天蓋付きの構造物の呼び名でしたが、特に祭壇の中央に置かれる箱に適用されるようになり、16世紀以降、保存聖体(reserved sacra-ment)を安置する箱のことを指すようになりました。
英国聖公会では保存聖体を用いて病床聖餐を行う聖職と、その慣習は聖書的でないとして認めない聖職がいました。しかし19世紀半ばから始まった「オックスフォード運動」以降、このような聖体保存は一般的になったようです。
日本聖公会では『1959年祈祷書』で、病者にあらかじめ「聖別された聖品」を奉持して授けることが認められました。そして2011年の「み言葉の礼拝と陪餐」式文の認可に伴い、司祭不在の主日礼拝で保存聖体を用いて礼拝することが認められました。
タバナクルは一般的には木で作られますが、金属製でもかまわず、その場合にはポプラや杉で内張をするようです。また設置場所も弘前のように主祭壇の上か、仙台のように至聖所内の壁に取り付けることもあります。
(教区主教)