教区報
主教コラム - 礼拝堂探検隊の記事
礼拝堂探検隊 第16回「聖卓・祭壇」
「聖卓・祭壇」は御言葉と共に私達の信仰生活の中心です。
初代の教父達は「聖卓」と「祭壇」という言葉を区別なく用いていますから、祭壇=主の食卓として理解していたのでしょう。
初代教会では木製の食卓を囲んで礼拝が行われていました。4世紀頃になると殉教者の墓の上で聖餐を行うようになったことから、石造の祭壇が始まったようです。その中に殉教者の遺物(聖遺物)を納める習慣も起こります。
中世に聖餐の犠牲的側面が強調されるようになると、食卓というより棺のような箱形のものとなっていきます。礼拝堂建築様式の変化や、神の超越性と絶対性が強調されるようになると、聖卓を囲むよりも、祭壇を堂内正面東奥に一段と高く据えて、神の尊い御座と御臨在を表わすようになりました。
しかし祭壇は私達のために犠牲となってくださった主キリストの御体をも表わしています。ですから祭壇の上面中央と四隅に、五つの十字架が刻まれているのは、主が十字架につけられた時の、御手・御足・御脇の傷を象徴しているのです。従って私達が聖堂に出入りするとき、また祭壇の前を通るとき、これに向かって敬意を表するのは、祭壇がこのような意味を持っているからです。
近年の礼拝改革によって、司祭と会衆が向かい合う対面聖餐式が主流になってきました。主の御体であり主の食卓である「祭壇・聖卓」を、皆で囲んで礼拝を献げます。これは単に初代教会の礼拝の回復というだけでなく、主イエスを私達の生活の中心に置くことを象徴しているのです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第1回 「掲示板」
今月から主教コラム「ほそ道から」は、ちょっと寄り道したいと思います。題して「礼拝堂探検隊」。礼拝堂には様々な物があり、それぞれに意味を持っています。それを少しずつ調べてみようと思います。
教会の扉を開けて玄関ホールに入りますと、その真正面(教会によって設置場所は異なりますが)に見えるのが、第1回で取り上げる「掲示板」です。
ところがほとんどの皆さんは、玄関ホールに入った途端、掲示板に目を向けることなく、ご自分のなさねばならないことをされます。すなわち「礼拝出席簿」にご自分の名前を書く。その後の順序は人によって異なりますが、週報棚からご自分の週報類を取る、机の上の配布物を手に持つ、祈祷書や聖歌集などの礼拝用書を持つ、などです。
そして、ホールにいるアッシャーの方や信徒の方とあいさつを交わしてから、聖堂内に入られるはずです。中には食事当番のために、脇目も振らずに台所に直行される方もおられるかもしれません。
このように、私たちの教会の中で、目立たずひっそりと玄関ホールの片隅に佇んでいるのが「掲示板」なのです。
ところで「掲示板」は聖堂に必ず備え付けなければならないものではありません。掲示板は教会法ではなく「宗教法人法」というこの世の法律によって設置が義務付けられているもので、聖堂でなく教会事務所にあっても良いのです。けれどもこれは教会が信徒や関係者の方々に公式にお知らせする公文書を10日間掲示する道具なので、みんなの目に一番触れる所が良いということになります。
教会の総会や委員選挙の公示・公告、教区から出された公示(教区会・聖職按手・人事異動など)、教区事務所だよりや献金依頼のポスターなど、あらゆる公のお知らせがここに掲示されます。
掲示板には「十字架」のような霊的な意味はありませんが、私たちが教会生活を送る上で大切な道具なのです。チラッと見て下さい。
教区主教 あけぼの2019年6月号
礼拝堂探検隊 第17回「祭壇布」
今回は「聖卓・祭壇」にかけられている布についてです。
例えば主教座聖堂(仙台基督教会)の聖卓には三枚の布が掛けられています。一番上は綿のえんじ色で、その下は白麻布、一番下、聖卓の上には白布です。
一番上の布は「ダストカバー」または「プロテクター」と言います。「塵よけ布」で、聖卓やその上に掛けられている白麻布に埃がかかることを防ぐためのものです。色の指定はなく、緑やグレーのものもあります。聖餐式の時にはこの布を外します。
その下の布は「フェア・リネン・クロス」と言い、上質薄手の白色麻布でできています。聖卓の幅と同じで、聖卓の両脇から40㎝程度垂らします。聖卓上面にあたる所には祭壇と同じく五つの十字架が刺繍されています。この布は主が葬られた時に御体を包んだ、亜麻布を象徴しているのです。
祭壇の場合は、伝統的にフェア・リネン・クロスの下に「フロンタル」と呼ばれる、教会暦の色にあわせた飾布を祭壇の前にかけ、その下には祭壇の湿気を防ぎ、万一聖血をこぼしても祭壇までとどくことを防ぐためにワックスを塗った「シアー・クロス(蝋引き麻布)」を敷きました。しかし、聖卓の場合には「フェア・リネン・クロス」だけを敷くことが多いようです。主教座聖堂では、シアー・クロス代わりに、綿布を敷いています。
さて、これらの布が年に一度だけ取り除かれるのをご存知ですか。聖木曜日夕の聖餐式終了後から聖土曜日夕の礼拝の前までの間、布を外して聖卓(祭壇)を剥き出しにします。主の十字架の死を黙想するためです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第2回「洗礼盤 – ①」
教会の玄関ホールで掲示板に目を向けた後、皆さんは礼拝堂の扉を開けます。
さて、ここでクイズです。「礼拝堂を入った所に常に置いてある大切なものはなんでしょうか?」
①献金袋 ②洗礼盤 ③供え物(パンとぶどう酒)を載せる台 ④会衆席
答は②「洗礼盤」でした。確かに①や③、④も入り口近くにありますが、その配置は教会によって異なります。しかし洗礼盤だけは、多くの教会で入り口近くに置いてあります。なぜでしょうか。
それは、私たちが聖堂に出入りするたびごとに洗礼盤に目をやり、自分が洗礼を授けられた時のことを思い起こすためです。
私たちは洗礼によって、罪を赦され清められて新たに生まれ、キリストの死と復活のさまに等しくされ、神の家族である教会に迎え入れられ、永遠の命にあずからせていただきました(祈祷書278頁)。その恵みへの感謝と約束を思い起こすためなのです。
洗礼の時以外は用いられないので、しばしば見過ごしがちな洗礼盤ですが、聖堂に来られる度に祈祷書278頁を開いて、神様の恵みとご自身がなさった約束を噛み締めていただければと思います。
もう一つクイズ。「洗礼盤は真上から見ると何角形でしょうか。」(答は次回に)
教区主教
礼拝堂探検隊 第18回「ろうそく」
今回は「ろうそく」について調べてみましょう。
祭壇・聖卓の上にはろうそく(燭台)が乗っています。そして礼拝中には火が灯されるわけですが、どうして礼拝中には昼間でも「ろうそく」に火が灯されるのでしょうか。
旧約聖書にも燭台が用いられたことが記されていますから、ユダヤ教礼拝からの伝統ということができるかも知れません。
キリスト教礼拝で燭台を用いるようになった理由は、迫害時代にカタコンブ(ローマの地下墓所)で礼拝していたからだというのも説得力がありそうです。しかし、直接的にはイースター・ヴィジル(復活徹夜祭・復活日を迎えるにあたって夜を徹して礼拝が献げられ、夜明けに洗礼式が行われた。) でろうそくを灯したからだと言われています。
四世紀頃には礼拝で常に用いられていたようですが、西方教会で祭壇上に燭台を用いるように定めたのは一二世紀になってからだそうです。主教司式のハイマス(荘厳ミサ)には七本、ローマス(唱えるミサ)には二本という規程も作られました。
聖餐式をはじめとした通常の礼拝にも燭台は用いられますが、葬送式の時には棺の横に三本づつ計六本の燭台が置かれます。
これらはいずれもろうそくを「この世を照らす光、キリスト」の象徴として用いています。またろうそくは己の身を削って周囲を明るく照らします。そして私たちにも「世を照らす光」「仕える者」としての業に参与するように求めているのです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第3回「洗礼盤-②」
前回の宿題「洗礼盤は真上から見ると何角形?」。答は「八角形」でした。
なぜ八角形なのでしょうか。それは神の創造の七日目を越える第八の日、即ち復活、新しい創造を象徴するからです。
京都の聖アグネス教会を上から見ますと、聖堂の南西部に八角形の洗礼堂があり、その中に洗礼盤が置かれています。このような形は五世紀頃に現れたそうですが、他にも長方形や十字架形、六角形のものもありました。
右の写真の洗礼盤は仙台基督教会のものです。形は円形で、置かれている場所も礼拝堂入口ではなく、会衆席と聖所との間です。円形の洗礼盤は14世紀頃から始まり、新生への母胎、永遠の命を象徴するそうです。また会衆席の前に置かれているのは、洗礼盤が祭壇、説教台、聖書朗読台と共に、教会の中の中心的な「救いのしるし」と位置づけられているからです。
このように洗礼盤の形は多様です。左は英国ソールズベリー大聖堂の巨大な洗礼盤で、多分の生命の泉を象徴しているのでしょう。
教区主教
礼拝堂探検隊 第19回「ろうそく消し」
今回は、祭壇周りで使うものですが、あまり目立たないものについて調べました。その名も英語でイクスティングウィシャー(extinguisher)と言います。なんだか舌をかみそうな名前ですが、早い話はろうそくを消すための道具です。ある辞書では「(帽子形の)ろうそく消し・消灯器・消火器」と訳されていました。このイクスティングウィッシュというのは「火・明りなどを消す」という意味で、そのものズバリの名前なんですね。
もっとも、ろうそくを消すためだけではなく、ろうそくを灯すための灯心が先端に組み込まれ、機能的に作られていますから、「ろうそく消し」という名称は正確ではないかもしれませんね。
かつてはろうそくが祭壇の高い所に6本も置かれていたため、それを灯したり消すための長い柄がついています。ろうそくは祭壇に向かって右側のもの(6本以上ある時は中央から)から順次火を灯し、消す時には逆に左側(外から内へ)消していきます。これは世を照らす光がキリストの象徴である十字架から出るということを現しています。
さてこの道具は普通ベストリーか聖所奥の脇の方に置いてありので、あまり目立ちません。辞書によると、イクスティングウィッシュ フェイス(extinguish faith)というと「信仰を失わせる」という意味になってしまいますから、やはり目立たない方がよいようです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第4回「洗礼盤-③」
八角形の洗礼盤は5世紀頃、円形の洗礼盤は14世紀頃から始まったのですが、それ以前はどんな形だったのでしょうか。
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったのはヨルダン川でしたから、最初期は川や泉など、流れる水のある所だったようです。しかし教会の側に常に川があったわけではありませんから、3世紀頃には長方形の洗礼槽が現れました。水の深さは腰の少し下か、あるいは足首を洗う程度だったようです。
祈祷書81頁をみますと「司式者は・・・父と、子と、聖霊のみ名を唱えるごとに志願者を水に入れるか、またはその頭に水を注ぐ」とされています。この「水に入れる」洗礼方法を「浸礼」と言い、「頭に水を注ぐ」方法を「滴礼」と言います。「滴礼」も2世紀前後にはすでに行われていたようです。
「滴礼」の場合は、今まで紹介してきたような洗礼盤で十分なのですが、「浸礼」となるとそれなりの大きさの洗礼槽が必要となります。ロンドンのランベス・パレス南側にある旧ランベス聖マリア教会(現在は庭園博物館)の搭の半地下部分は、1900年頃に浸礼が行える洗礼堂に改修されたそうで、英国国教会でも二例しかないそうです。
海外聖公会はともかく、日本聖公会ではほとんど見ることができない、浸礼を行える洗礼槽が、山形聖ペテロ教会にあります。洗礼盤が置かれている洗礼堂のカーペットをめくると、その下にひっそりと存在しています。写真の左が洗礼槽で縦105㎝・横52㎝・深さ90㎝。内側はトタン板張りになっており、右奥に大きな木の栓があります。右側は司式者が立つ場所です。
この聖堂は1910年にガーディナーの指導でW・スマート執事によって建てられたものですが、その意味でも貴重な建物だと言えるでしょう。
教区主教
礼拝堂探検隊 第20回「祈祷書」
今回は「祭壇用祈祷書」です。とはいっても皆さんがお使いの祈祷書と中身は同じで大きいだけですが。
祈祷書は英語でThe Book of Common Prayer(ザ ブック オブ コモン プレイヤー)と言い、「共同の祈りのための本」という意味です。お祈りや礼拝式文が文書化されるのは3世紀になってからのようですが、今の祈祷書のように一冊本ではなく、礼拝の種類ごとに様々なものがありました。
例えば、中世には聖餐式と堅信式を同時に行う時には最低でも「ミサ典書」と「司教用定式書」が必要でした。ですから礼拝によって聖職は何種類もの礼拝書を操らねばならず、また当時の礼拝用書は非常に高価で、信徒用のものはなかったようです。
しかし宗教改革は信徒を、聖職が執り行う「聖なるドラマ」の観客から、聖職と共に礼拝を献げる者に変えました。また活版印刷術の発明は書物の大量出版と低価格化を実現しました。
1549年、英国聖公会大主教T・クランマーは中世の諸礼拝式文を一冊の本にまとめました。それが約470年にわたって、世界の諸聖公会で用いられている祈祷書の最初のものです。
クランマーは祈祷書作成にあたって、①複雑な礼拝を単純化する、②会衆が積極的に参加できる礼拝、③自国語による礼拝、④初代教会の慣習の回復、⑤聖書に基づいた礼拝用書にする、の5点を大切にしました。
祈祷書は時代の中で何度も改訂されてきましたが、このクランマーの基本方針は忠実に守られています。私たちは至宝の祈り集である祈祷書を大切にし、信仰生活を送りたいと思います。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第5回「聖堂ー①」
聖堂入口脇にある洗礼盤をちらりと見て、洗礼の約束を思い起こした私たちは、聖堂の中に入っていきます。
その前に、聖堂の全体像を見てみましょう。もっとも、初代教会の頃、キリスト者は特別な集会場所をもっていませんでした。聖パウロの頃は比較的大きな家を持っていた信徒宅が主日に礼拝場所として提供されたようです。また、迫害時代には信徒宅以外に、こっそりと人目につかない場所に集まっていたようで、ローマのカタコンベ(地下墓地)は有名です。
しかし、313年のミラノの勅令によってキリスト教が公認されると、特定の礼拝場所として聖堂が建てられるようになりました。これらはバシリカ様式と呼ばれますが、当時のローマの法廷などの建物が、そのまま教会建築に応用されたようです。
その後、時代と共に建築様式はビザンティン、ロマネスク、ゴシックなどと移り変わっていきますが、その基本はバシリカ様式にあるようです。聖公会の多くの聖堂もこの様式を基本にしていて、その最も単純な形が右の構造です。
①は祭壇が置かれているサンクチュアリー sanctuary(至聖所)、②は朝夕の礼拝が行われるチャンセル chancel(聖所または内陣)、③はネイヴnave(身廊)と呼ばれる会衆席の場所です。
聖堂は原則として祭壇のある部分が東方になるように建てられました。そこで祭壇のある方を「東(Liturgical East リタージカル イースト)」と呼びます。聖堂が実際には東西方向に建っていない場合でも、祭壇のある方を「東」と呼び、その反対方向を「西」と呼ぶのが慣例です。ですから祭壇の方を向くことを「東面する」と言います。
教区主教
礼拝堂探検隊 第21回「チャリス・パテン」
今回は聖餐式の時に聖別されたぶどう酒を入れるチャリスと、パン(ウエファース)を入れるパテンです。金または銀で作られていますが、それは酸による腐食を防ぐためだそうです。
初期の時代のパテン(paten 聖皿)は、会衆から献げられた大きなパンを受けるためにかなりの大きさだったようです。しかし中世中期になりますと、パン(聖体)が種なしの薄いものになった関係で、パテンも小さくなったようです。
初期の時代のチャリス(Chalice 聖杯) はガラス製が一般的でしたが、ほかの素材(木製など)を使うこともありました。チャリスの最も古い形は、カタコンベに描かれているもので、二つの取っ手がついた、柄(ステム)のないボウル状だったそうです。
4世紀に入ると金製や銀製が一般的になり、それに宝石などを嵌めたものも作られました。もっとも9世紀頃までは陶磁器や木製のものもあったそうです。映画の「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」で登場した聖杯も木製でしたが、宗教改革者ツヴィングリも木製のものを使ったそうです。現在のような形になったのは14世紀だそうです。
最後の晩餐の記事のように、聖別されたぶどう酒は一つの杯より飲むのが正当とされています。なぜなら主イエスは「皆、この杯から飲みなさい」(マタイ26:27)と言われたからです。プロテスタント教会で個人用のカップを用いる所がありますが、主として衛生的見地から19世紀に米国で始められたものです。しかしこれでは「分ち合う」という意味を弱めてしまうと言う批判もあります。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第6回「聖堂ー②」
日本聖公会の多くの聖堂は、英国の典型的な大聖堂を縮小し、簡略化した構造をしているものが多いようです。
このような大聖堂は、上から見ると十字架型をしているものが多いのですが、東北教区の教会で明らかに十字架型をしているのは、山形聖ペテロ教会の聖堂です。
この十字架の横木の部分をトランセプト transept(翼廊)と呼び、縦木の会衆席の部分をネイブ nave(身廊)と呼びます。山形聖ペテロ教会では、右側のトランセプトにオルガンを置いています。翼廊の部分を小聖堂として用いている教会もあります。
ネイブ naveというのはラテン語のナヴィス(navis・船)からきた言葉で、教会をこの世の嵐の中を漕ぎ渡る船にたとえています。マルコ4・35に嵐の中、腕枕をして眠っておられたイエス様の話がありますが、このことを思い起こさせます。つまり、会衆席は「救いの箱舟・安心して居ることのできる場所」を象徴しているとも言えるでしょう。
左の写真は弘前昇天教会のネイブから祭壇方向を見たものですが、上下逆にしてみてみると、天井部分がなんとなく古代船(ローマ帝国時代の船)の船底構造に見えませんか。
教区主教