教区報
主教コラム - 礼拝堂探検隊の記事
礼拝堂探検隊 第11回「オルガン-②」
16世紀に頂点を極めたパイプ・オルガンは、ピューリタン(清教徒)革命が起こった17世紀半ばの英国で、受難の時代を迎えます。
ピューリタンは、王制と共に主教制・祈祷書による礼拝を廃止し、ステンドグラスや石造りの祭壇、祭服・祭具と共に数多くのオルガンを破壊しました。オルガンは真の信仰にとって有害だと考えたからです。その後、ピューリタン革命は20年で挫折し、それに伴って17世紀後半には、再び教会でパイプ・オルガンの音色が響き渡りました。
東北教区の多くの教会で用いられているオルガンは「リード・オルガン」です。写真は弘前昇天教会にある米国のB. SHONINGER(B・ショニンガー)社製オルガンで、1882年頃のものです。19世紀半ばにフランスで実用化されたこの種のオルガンは、しばしば「足踏みオルガン」と呼ばれています。美しい音を出すためには、ペダルをゆっくり、深く、音が揺れないよう交互に踏むことが大切だそうです。
オルガンは、私たちが心から神様を賛美する礼拝に奉仕するためにあります。また私たちの心を静かに落ち着かせ、あるいは元気づける役割りもあります。時々、礼拝堂の正面に巨大なパイプが鎮座している教会を見かけることがありますが、主役はあくまでも神様であり、準主役はその神様に感謝賛美を献げる私たちの心なのです。その意味では私たちもオルガンも、共に神様に仕える存在であることを心に留めたいと思います。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第27回「十字架」
礼拝堂の内外にある様々なものを調べてきた探検隊も、とうとう最終回になりました。
そこで今回は教会がここに在ることを示し、また礼拝堂の正面にある十字架について調べてみました。十字架はキリスト教信仰を表す最も普遍的なシンボルであり、私たちの信仰の根源でもあります。
十字架が公認されたのは、三一三年のミラノ勅令によって行列用十字架の使用が許可されたことにあります。六世紀にはシリアで祭壇用十字架が用いられるようになりましたが、西方教会で祭壇上に十字架が置かれるのは十一世紀に入ってからだそうです。
一方、苦難のキリスト像がついた十字架が出てくるのはかなり後で、ローマの地下墓地(カタコンブ)はもちろん、五世紀のラヴェンナのモザイクにも見当たらないそうです。と言いますのは、初期のキリスト者は、キリストの十字架刑を苦難としてではなく、ご復活の喜び、死に対する勝利のしるしとして捉えていたため、十字架に架けられた写実的なキリスト像には抵抗があったそうです。
ですから十字架上のキリスト像もマイターのような冠をかぶり、コロビウム(ローマ時代の下着)にチャズブルを着け、目を開いて、手もまっすぐ横に伸ばしています(鉛山聖救主礼拝堂の十字架)。
写真のような苦難のキリスト像が現れたのは、フランシスコ会の働きにより、受難の信仰が大きく発展した一二世紀から一三世紀にかけてだそうです。
苦難の十字架にせよ、栄光の十字架にせよ、私たちは十字架を仰ぐことで、イエス様の愛をしっかりと感じていきたいと思います。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第12回「クワイアー-①」
『あけぼの3月号』でチャンセル(chancel 内陣)についてお話しましたが、その中に入る前に「聖書台・説教壇」「聖歌表示板」「オルガン」と寄り道をしていました。
ということで、やっとチャンセルの中に入った今回は、「クワイアー」です。こう書きますと、「エッ、聖歌隊も礼拝堂の一部なのですか」と言われそうですが、写真の弘前昇天教会で言えば、コミュニオンレール手前の両側にある、普段は朝夕の礼拝時に司式者と補式者が座る席のことを「クワイアーchoir」と呼び、日本語では「共唱席」と訳します。
中世後期のイングランドの聖堂は、会衆席(ネイブ)と聖所(チャンセル)はスクリーンと呼ばれる石造りまたは木製の壁で仕切られていました。カンタベリー大聖堂は、大きな階段を上ると、がっしりとした石造りのスクリーンがあり、その上には、立派なパイプオルガンがのっています。また、私が訪ねたことのあるオックスフォード郊外のカデスデン村にある諸聖徒教会(12世紀の建築)も鉄格子のスクリーンがありました。
スクリーンの内部は通常二つの部分に区切られています。一番奥(東端部。コミュニオン・レールの内側。サンクチュアリー・至聖所)には主祭壇があり、文語祈祷書までは、司祭または主教が聖餐式を執行していました。
日本聖公会では第7回(3月号)にも書きましたように、スクリーンのある教会は限られていますが、これを抜けて入った「クワイアー」にはどのような役割があるのでしょうか。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第13回「クワイアー-②」
チャンセルを入ってすぐの「共唱席・クワイアーChoir」は、もともとは共同体の構成員(修道士や聖職団)が二つに別れて向かい合わせに座っていました。そこで詩編を交互に唱えたり(そのことを共唱すると言う)、朝夕の礼拝やミサが行われたのです。そこは日々の礼拝の場であり、共同体全体が「聖歌隊・クワイアー」でありました。写真はカンベリー大聖堂のクワイアーですが、ここではQuireと綴ります。
中世では共唱席に着席順序があり、後列に上位者が座りました。また祭壇に向かって右側の会衆席よりの位置が共同体の長や司式者の席で、反対側は次席者の席でした。ですから現在の教会で司式者や補式者、聖歌隊がそこに位置するのは、伝統的な「共唱席・クワイアーQuire」の用い方ということになります。
しかし、スクリーン(壁)で会衆席と聖歌隊席を区切るという中世の礼拝堂構造は、会衆と聖職団を分断し、聖歌隊を専門家化することによって、会衆が礼拝に参加することから遠ざけ、聖なるドラマ(ミサ)の観客にしてしまったのです。
現在における「共唱席」の意味は何でしょうか。私は「共に―心を合わせて―唱える」、「共に―心を神様に向けて―唱える」ということではないかと思います。司式者団も、聖歌隊も、会衆も、それぞれが礼拝における役割を果たしながら、共に心を合わせ、心を神様に向けて、祈りを献げ唱える者でありたいと思います。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第14回「聖所と至聖所」
聖所(Chan-cel チャンセル)は会衆席から3段高くなった場所で、聖職が朝夕の礼拝を行う席や、昨年の11月号と12月号でお話しましたクワイアー(共唱席)があり、近年では聖卓が置かれています。
その奥、1段高くなった場所は、至聖所(Sanctuary サンクチュアリー)と呼ばれています。至聖所には祭壇(Alter オールター)が置いてあり、伝統的には聖職と祭壇奉仕者のみが入ることができるとされていました。聖所と至聖所を区分するために、祭壇の周囲がコミュニオン・レール(Communion rail 陪餐柵)で囲まれている教会が多いようです。これが写真のように一直線になっていたり、あるいはレールではなく長い座布団等が敷いてある教会もありますし、最近ではそういったもの自体をなくした教会も増えています。
と言いますのは、聖所とか至聖所という区分は、エルサレム神殿の構造と関係があるようで、たとえば東方教会の場合は、至聖所は完全に飾り壁などで仕切られ、会衆席からは一切見えない構造をしています。と言いますのは聖餐は機密(Mythterion ミステリオン)だという理由からのようです。しかし、私たちの聖公会は、このミステリオン(聖体機密)を聖餐式と呼び、感謝の祭り(Holy Eucharist ホーリー ユーカリスト)、あるいは聖なる交わり(Holy communion ホーリー コミュニオン)として位置付けています。その意味においては会衆と聖餐が執行される場は、何の仕切りもないほうが望ましいと言えるでしょう。
もっとも、ひざまずいて陪餐される高齢者の多い教会では、コミュニオン・レールに頼って立ち上がると言う効能もありますから、今までなかったのに、新たに取り付けた教会もあります。(教区主教)
礼拝堂探検隊 第15回「復活のろうそく」
復活日前夕の礼拝(復活徹宵祭)から説教壇の隣(聖所の北側)に、「復活のろうそく(パスカル・キャンドル Paschal Candle)」と言う、大きなろうそくが置かれます。
英語のパスカルという言葉は、ヘブライ語の「ペサハ(過越の祭)」のラテン語訳「パスカ」に由来しています。すなわち出エジプト記12章から14章に記された主の過越とイスラエルの民の救いの出来事に対して、イエス様の十字架の死と復活によってもたらされた「新しい過越」を祝います。パスカル・キャンドルの光は、闇と罪に対する復活の勝利を象徴しているのです。
復活日前夕の礼拝では、真っ暗な聖堂の入口に復活のろうそくを奉持した執事または司祭が立ち、祈りの後、復活のろうそくに火が灯されます。そして聖堂の入口、ネイブの中央、聖所の入口の3か所で「キリストの光(ルーメン クリスティLumen Christi)」が唱和されます。それから復活のろうそくは説教壇の隣のろうそく台に安置され、続いて聖堂内の全てのろうそくに火が灯されます。次に司式者と会衆が「ハレルヤ、キリストはよみがえられた」「キリストは本当によみがえらた」と唱和し、執事または司祭によって「復活の賛美(プレコニウムPraeconium/エクザルテット Exultet)」が歌われます。
これらの儀式がいつ、どこで始まったかははっきりしませんが、4世紀には北イタリアで行われていたようです。
ろうそくの表面には、十字架の印、ギリシャ文字のアルファとオメガ、その年が記入され、キリストの5つの傷を意味する5粒の香が十字架に差し込まれています。
復活のろうそくは復活節の間と聖洗式、葬送式、逝去者記念式の時に灯されます。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第16回「聖卓・祭壇」
「聖卓・祭壇」は御言葉と共に私達の信仰生活の中心です。
初代の教父達は「聖卓」と「祭壇」という言葉を区別なく用いていますから、祭壇=主の食卓として理解していたのでしょう。
初代教会では木製の食卓を囲んで礼拝が行われていました。4世紀頃になると殉教者の墓の上で聖餐を行うようになったことから、石造の祭壇が始まったようです。その中に殉教者の遺物(聖遺物)を納める習慣も起こります。
中世に聖餐の犠牲的側面が強調されるようになると、食卓というより棺のような箱形のものとなっていきます。礼拝堂建築様式の変化や、神の超越性と絶対性が強調されるようになると、聖卓を囲むよりも、祭壇を堂内正面東奥に一段と高く据えて、神の尊い御座と御臨在を表わすようになりました。
しかし祭壇は私達のために犠牲となってくださった主キリストの御体をも表わしています。ですから祭壇の上面中央と四隅に、五つの十字架が刻まれているのは、主が十字架につけられた時の、御手・御足・御脇の傷を象徴しているのです。従って私達が聖堂に出入りするとき、また祭壇の前を通るとき、これに向かって敬意を表するのは、祭壇がこのような意味を持っているからです。
近年の礼拝改革によって、司祭と会衆が向かい合う対面聖餐式が主流になってきました。主の御体であり主の食卓である「祭壇・聖卓」を、皆で囲んで礼拝を献げます。これは単に初代教会の礼拝の回復というだけでなく、主イエスを私達の生活の中心に置くことを象徴しているのです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第1回 「掲示板」
今月から主教コラム「ほそ道から」は、ちょっと寄り道したいと思います。題して「礼拝堂探検隊」。礼拝堂には様々な物があり、それぞれに意味を持っています。それを少しずつ調べてみようと思います。
教会の扉を開けて玄関ホールに入りますと、その真正面(教会によって設置場所は異なりますが)に見えるのが、第1回で取り上げる「掲示板」です。
ところがほとんどの皆さんは、玄関ホールに入った途端、掲示板に目を向けることなく、ご自分のなさねばならないことをされます。すなわち「礼拝出席簿」にご自分の名前を書く。その後の順序は人によって異なりますが、週報棚からご自分の週報類を取る、机の上の配布物を手に持つ、祈祷書や聖歌集などの礼拝用書を持つ、などです。
そして、ホールにいるアッシャーの方や信徒の方とあいさつを交わしてから、聖堂内に入られるはずです。中には食事当番のために、脇目も振らずに台所に直行される方もおられるかもしれません。
このように、私たちの教会の中で、目立たずひっそりと玄関ホールの片隅に佇んでいるのが「掲示板」なのです。
ところで「掲示板」は聖堂に必ず備え付けなければならないものではありません。掲示板は教会法ではなく「宗教法人法」というこの世の法律によって設置が義務付けられているもので、聖堂でなく教会事務所にあっても良いのです。けれどもこれは教会が信徒や関係者の方々に公式にお知らせする公文書を10日間掲示する道具なので、みんなの目に一番触れる所が良いということになります。
教会の総会や委員選挙の公示・公告、教区から出された公示(教区会・聖職按手・人事異動など)、教区事務所だよりや献金依頼のポスターなど、あらゆる公のお知らせがここに掲示されます。
掲示板には「十字架」のような霊的な意味はありませんが、私たちが教会生活を送る上で大切な道具なのです。チラッと見て下さい。
教区主教 あけぼの2019年6月号
礼拝堂探検隊 第17回「祭壇布」
今回は「聖卓・祭壇」にかけられている布についてです。
例えば主教座聖堂(仙台基督教会)の聖卓には三枚の布が掛けられています。一番上は綿のえんじ色で、その下は白麻布、一番下、聖卓の上には白布です。
一番上の布は「ダストカバー」または「プロテクター」と言います。「塵よけ布」で、聖卓やその上に掛けられている白麻布に埃がかかることを防ぐためのものです。色の指定はなく、緑やグレーのものもあります。聖餐式の時にはこの布を外します。
その下の布は「フェア・リネン・クロス」と言い、上質薄手の白色麻布でできています。聖卓の幅と同じで、聖卓の両脇から40㎝程度垂らします。聖卓上面にあたる所には祭壇と同じく五つの十字架が刺繍されています。この布は主が葬られた時に御体を包んだ、亜麻布を象徴しているのです。
祭壇の場合は、伝統的にフェア・リネン・クロスの下に「フロンタル」と呼ばれる、教会暦の色にあわせた飾布を祭壇の前にかけ、その下には祭壇の湿気を防ぎ、万一聖血をこぼしても祭壇までとどくことを防ぐためにワックスを塗った「シアー・クロス(蝋引き麻布)」を敷きました。しかし、聖卓の場合には「フェア・リネン・クロス」だけを敷くことが多いようです。主教座聖堂では、シアー・クロス代わりに、綿布を敷いています。
さて、これらの布が年に一度だけ取り除かれるのをご存知ですか。聖木曜日夕の聖餐式終了後から聖土曜日夕の礼拝の前までの間、布を外して聖卓(祭壇)を剥き出しにします。主の十字架の死を黙想するためです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第2回「洗礼盤 – ①」
教会の玄関ホールで掲示板に目を向けた後、皆さんは礼拝堂の扉を開けます。
さて、ここでクイズです。「礼拝堂を入った所に常に置いてある大切なものはなんでしょうか?」
①献金袋 ②洗礼盤 ③供え物(パンとぶどう酒)を載せる台 ④会衆席
答は②「洗礼盤」でした。確かに①や③、④も入り口近くにありますが、その配置は教会によって異なります。しかし洗礼盤だけは、多くの教会で入り口近くに置いてあります。なぜでしょうか。
それは、私たちが聖堂に出入りするたびごとに洗礼盤に目をやり、自分が洗礼を授けられた時のことを思い起こすためです。
私たちは洗礼によって、罪を赦され清められて新たに生まれ、キリストの死と復活のさまに等しくされ、神の家族である教会に迎え入れられ、永遠の命にあずからせていただきました(祈祷書278頁)。その恵みへの感謝と約束を思い起こすためなのです。
洗礼の時以外は用いられないので、しばしば見過ごしがちな洗礼盤ですが、聖堂に来られる度に祈祷書278頁を開いて、神様の恵みとご自身がなさった約束を噛み締めていただければと思います。
もう一つクイズ。「洗礼盤は真上から見ると何角形でしょうか。」(答は次回に)
教区主教
礼拝堂探検隊 第18回「ろうそく」
今回は「ろうそく」について調べてみましょう。
祭壇・聖卓の上にはろうそく(燭台)が乗っています。そして礼拝中には火が灯されるわけですが、どうして礼拝中には昼間でも「ろうそく」に火が灯されるのでしょうか。
旧約聖書にも燭台が用いられたことが記されていますから、ユダヤ教礼拝からの伝統ということができるかも知れません。
キリスト教礼拝で燭台を用いるようになった理由は、迫害時代にカタコンブ(ローマの地下墓所)で礼拝していたからだというのも説得力がありそうです。しかし、直接的にはイースター・ヴィジル(復活徹夜祭・復活日を迎えるにあたって夜を徹して礼拝が献げられ、夜明けに洗礼式が行われた。) でろうそくを灯したからだと言われています。
四世紀頃には礼拝で常に用いられていたようですが、西方教会で祭壇上に燭台を用いるように定めたのは一二世紀になってからだそうです。主教司式のハイマス(荘厳ミサ)には七本、ローマス(唱えるミサ)には二本という規程も作られました。
聖餐式をはじめとした通常の礼拝にも燭台は用いられますが、葬送式の時には棺の横に三本づつ計六本の燭台が置かれます。
これらはいずれもろうそくを「この世を照らす光、キリスト」の象徴として用いています。またろうそくは己の身を削って周囲を明るく照らします。そして私たちにも「世を照らす光」「仕える者」としての業に参与するように求めているのです。
(教区主教)
礼拝堂探検隊 第3回「洗礼盤-②」
前回の宿題「洗礼盤は真上から見ると何角形?」。答は「八角形」でした。
なぜ八角形なのでしょうか。それは神の創造の七日目を越える第八の日、即ち復活、新しい創造を象徴するからです。
京都の聖アグネス教会を上から見ますと、聖堂の南西部に八角形の洗礼堂があり、その中に洗礼盤が置かれています。このような形は五世紀頃に現れたそうですが、他にも長方形や十字架形、六角形のものもありました。
右の写真の洗礼盤は仙台基督教会のものです。形は円形で、置かれている場所も礼拝堂入口ではなく、会衆席と聖所との間です。円形の洗礼盤は14世紀頃から始まり、新生への母胎、永遠の命を象徴するそうです。また会衆席の前に置かれているのは、洗礼盤が祭壇、説教台、聖書朗読台と共に、教会の中の中心的な「救いのしるし」と位置づけられているからです。
このように洗礼盤の形は多様です。左は英国ソールズベリー大聖堂の巨大な洗礼盤で、多分の生命の泉を象徴しているのでしょう。
教区主教