教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2025年4月号

巻頭言 イースターメッセージ「復活の朝」

 

 

イースターおめでとうございます。ご復活の主の祝福が皆様にありますように!

 

 

金曜日に十字架に掛けられて息を引き取られたイエス様は、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモがユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んで、その日のうちに慌ただしく墓に葬られました。何故ならユダヤ人の安息日、つまり土曜の前日であり、11人の弟子たちはユダヤ人を恐れ隠れてしまったからです。マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、一緒にいた他の女たちは、ご遺体に丁寧に接し、手厚く葬りの用意をしたかったけれども叶いませんでした。

 

2日を過ごし、週の初めの明け方早くになりました。安息日が明けるのを待ちかねて早々に、朝まだ早くに墓に出向いて、せめて香料をお塗りしよう、せめて亡骸を目にして触り、お別れをしたいという気持ちでいっぱいでした。ところが、ご遺体を目にすることができない戸惑いと、打ちのめされた感じで途方に暮れました。

 

その時、神さまからのお声が聞こえてきました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 

これは、最も重要なメッセージであり、またイエス様の生前のお言葉です。彼女らはイエス様の言葉を思い出しました。人はそのお方が語られた数々の言葉を思い出します。その中でも一番強く深く残っている言葉があり、それが宝物です。

 

 

14年前の東日本大震災巨大津波によって大勢の方が流されて行方不明になりました。突然、何の前触れもなく身内の身体が取り去られたのです。目の前から消されたのです。愛する人を失った方々は、深い、大きな嘆きを経験しました。時間が空しく過ぎることも経験しました。今日まで、愛する人の魂の平安を祈ることしかできなくそれは、それは長い、長い時間を過ごしておられます。大震災後1ヵ月、2ヵ月、3ヵ月、半年、1年、そして14年が経ちました。

 

やがて被災者の中には、あの人を決して忘れないこと、世を去られた人のいのちを忘れないこと、そのいのちの分まで大事に生きること、それが遺された者がなすべきことだと考え、自分を納得させる方もおられます。山元町にある、震災で園児と職員を失ったふじ幼稚園園長先生はそう考えて、嘆きを生きる力に変え、回復して前を向いて園を再開し、保育を進めています。

 

 

復活とは「そこにとどまらない、そこに縛られない、キリスト・イエスの言葉を思い起こす」ことです。かつてイエス様が約束されたように、復活の主はあなたがたの現実生活の中に必ずや共にいてくださいます。ご復活の主は、いつも共にそして永遠にいてくださいます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」

 

主イエス様のみ言葉を胸に抱き、ここから歩み出して行きましょう。主にある皆さんとともに新しい朝、復活の朝に目覚めてまいりましょう。栄光に輝くイエスさまの光に照らされて、光を見つめながら導かれてまいりましょう。
 

 

教区主教 フランシス 長谷川 清純

 

 

 

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あけぼの2025年3月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「人は誰かのために泣くことが出来る」

 

 

14年前の3月11日、あの地震が発生した時に、当時神学校への入学を控えていた私は、指導司祭と共に車を運転しておりました。そして時計の針が14時46分を指したとき、突然の大きな揺れと共に、目の前の渡ろうとしていた橋が蛇のようにうねるという衝撃的な映像が目に飛び込んできたのです。慌てて来た道を引き返した私たちは、何とか難を逃れることが出来ましたが、その道すがら見える割れたガラス、倒れた壁、一瞬にして崩壊した日常を目の前に、えもいわれぬ恐怖を感じたことを、今でも覚えています。

 

その後私自身も色々と大変な思いもそれなりにしましたが、それよりも印象的に残っているのが、自分が行く先々で目にした人々の優しさと強さでありました。水の配給に行けばお年寄りのお手伝いをする青年、他人同士で物資を分け合う姿が見られる所もあれば、ボランティアで訪ねた先では、ご自身も大切な人を亡くされているにもかかわらず、他の悲しむ人に寄り添い、その人のために働く人もいたのです。

 

 

聖書には「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)という聖句があります。これは私たち人間が他者と一緒に愛を持って生活するために必要な指針であり、簡単に言えば人と「共感」する力の大切さを説いているのだろうと思います。しかし人と人とが、それも全くの他人同士が「共感」するということは、それはとても大変なことでもあるのだろうと思います。ましてそれが、自分自身も悲しみや苦しみといった苦難の中にいる時であればなおさらです。しかしながら14年前のあの時、大変な状況にあったはずの東日本の地では、この共感する力が溢れていたと思うのです。誰もが悲しみを共有し、しかし一方で本当に些細な喜びを分かち合い、それを希望にしていた。それが生きることへの、復興への原動力になっていたと思います。

 

しかし今はどうなのでしょうか。もちろん14年が経過した今でも、被災地へ寄り添い共感し、活動を続けている人々が大勢います。私たちの教会だってそうであると思います。でも一方で、日々の報道では14年前の「悲しみ」にはあまり触れられなくなってきている。復興の「喜ばしい」ニュースはこぞって伝えますが、「未だ苦しみや悲しみの内にいる人々の声」は聞こえにくくなっているように思えてなりません。

 

であるからこそ、私たちは今こそ「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ことが出来る共同体であること、そんなイエスの弟子の在り方を思い起こす必要があるのです。これは何も東日本大震災に限った話ではなく、やはり私たちの教会は世界の「声なき声」を聴き、共感することが出来なければならないのです。

 

そしてそんな「誰かの声を聴いて共感すること」ということは、大それた何かをするということではなく。それこそどんなに小さなことでも共に喜び、そして悲しみを抱えている人と一緒に泣くということに帰結するでしょう。

 

 

震災から14年経ったこと被災の地にある教会共同体として、イエスのみ跡を踏む者として、私たちが何を成していけるのか。誰の声を聴き、誰と共に喜び泣いていくのかを、今この時だからこそ祈り、考えていければと思います。

 

そしていつか、全ての悲しみが喜びへと変わることも、祈ってまいりたいと思います。

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

 

 

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あけぼの2025年2月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「シメオンとアンナ」

 

 

幼子の誕生から四十日、若い両親は赤ん坊イエスを連れて、エルサレムの神殿へとやってきました。誕生四十日目のいわば宮参りです。神殿といっても厳粛というよりは、いろいろな用件で各地から来た人々でごったがえしていたのではないかと想像します。その時、一人の老人が両親と幼子のもとへ近づいてきています。「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた」老人シメオンです。彼は両親の手から幼子イエスを抱き取ると「私はこの目であなたの救いを見た。これは万民の前に備えられた救い、異邦人を照らす啓示の光」と神を賛美します(「シメオンの賛歌」)。それからマリアに向かって大変なことを言います。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」どんでもないお爺さんです。しかし、すごい預言です。キリストの生涯の出来事と意味を鋭く言い切っています。シメオンはまだほんの小さく無力に見える幼子のうちに神の救いの業の始まりを見抜くのです。

 

そこにまたアンナという女預言者が登場します。夫と死別して84歳になっていました。そして「神殿を離れず、昼も夜も断食と祈りをもって神に仕えていた」女性でした。彼女も近づいてきて神に感謝を献げ、人々に幼子のことを伝えます。預言者であり宣教者です。女預言者は旧約聖書にも見られます。出エジプトの後、アロンの姉ミリアムが女たちと共にタンバリンを手に踊りながら歌う賛歌が『出エジプト記』第15章にあります。「主に向かって歌え。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」(「ミリアムの歌」)。パワフルです。

 

降誕日から四十日目、「被献日」(2月2日)の出来事です。今年は2月2日が主日なので、教会全体でこの福音書(『ルカによる福音書』第2章)を読むことになります。幼子イエス、若い両親、そして相当高齢なシメオンとアンナ。世代を超えた出会いの場面です。

 

 

教会の高齢化を憂える声がときどき聞かれます。しかしシメオンとアンナの高齢者パワーはそんなことを吹き飛ばします。私たちの教会にもたくさんのシメオンとアンナがおられます。豊かな経験を持ち、信仰の厚い情熱を保ち続けてきた方々です。実際、身体的にも精神的にも昔とは十年二十年違うでしょう。今ある教会のエネルギーを十分に生かしたらよいのだと思います。もちろん、若者も中年も負けずに。

 

聖霊降臨日、ペトロはヨエル書を引いて語ります。「あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(『使徒言行録』第2章)。「老人は夢を見る」。ヴィジョンを持ち、夢を語るのです。

 

 

教会という共同体の特徴、強みは他の社会(学校や職場)以上に、赤ん坊から老人まで世代を超えた出会いと交わりがあることです。また現在の生活の状況や事情も人それぞれ異なるでしょう。それでも信仰によって結びついた共同体は、やはり不思議な、そして豊かな存在です。その豊かさを生かしつつ、喜びをもって歩む教会の、この一年でありますようにと祈ります。

 

 

元東北教区主教 主教 ヨハネ 加藤博道

 

 

 

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