教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2024年7月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「私があなたがたを愛したように」

 

 

ある時、教会の礼拝にはじめて参加された方にしばらくして「教会はどうですか?皆さんとは仲良くなれましたか?」と尋ねますと「皆さんとても親切でお優しくしてくださいます。やっぱり教会は愛に溢れているところですね」というお答えを頂戴しました。「教会には愛がある」という言葉をとても嬉しく誇らしく思うのと同時に、そのようなお答えをいただきとても新鮮に感じている自分がいることにはっとさせられました。

 

 

主イエスがこの世を去られる前に弟子たちに最後の説教(ヨハネ14章ー16章)を語られましたが、そこで繰り返し語られたことは「互いに愛し合いなさい」でした。「これがわたしの命令である」とさえ語られ、繰り返しておられます。主イエスのお別れの説教でもありますから、これだけはシア後に言っておきたいという最も重要な教えであり、キリスト教が「愛の宗教」と言われるゆえんにも繋がる内容ですから私たちの教会に必要不可欠なものこそこの「愛」なのです。これはキリスト教保育についても同じです。

 

 

しかし、愛というものは、直接目で見て確かめ、取り出して見せるようなものではなく、「関係」の状態を示す言葉です。教会での交わりや友人との関係や家族との関係、夫婦の関係など、人と人との人格的関係、その関係や状態を表す言葉ということになります。私たちは、「そのような意味において主イエスが、愛の人、愛に満ちた人だということを知り、そのように信じており、そして、繰り返し「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じておられる中で、私たちは本当のところ主イエスのどこを見習えば良いのでしょう。

 

主イエスは優しく、どんなことがあっても怒らない、柔和で、子どもをニコニコ抱き上げられ、病気の人々、心身に重荷を負われる人々、貧しい人々、弱くされた人々の側に立ち、奇跡さえ行われる方としてのイメージが強いのですが、同時に、権力を振るう人を嫌い、正しいと思ったことは貫かれ、神殿で商売を行う屋台をひっくり返すような荒々しさもお持ちです。その主イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と教えられ、これこそが愛だとはっきりと言われるのです。

 

これは偏に十字架の愛であり、「犠牲愛」と言われる愛です。そして、主イエスは、弟子たちのため、人々のため、そして、私たちのためにも、本当に死んで慈しみに溢れた「愛」を見せてくださいました。ご自身を裏切る者をも許して愛し、突き落とす者をも愛し抜く愛です。そしえ十字架の上で苦しみ、死なれ、これが愛すると言うことだとはっきり示してくださった、痛みと苦しみを伴う愛です。その上であなた方もこのように愛し合いなさい命じておられます。しかしながら私は弱く、主イエスの様には死ねません。ただ主イエスを愛し、救い主と信じることによって、私たちの最後の時の罪状書はすでに無罪とされ救われています。この恵みに満たされ、互いに愛し合う教会として喜びに溢れた教会として宣教に励み、共に歩んでまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

 

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