教区報
教区報「あけぼの」
あけぼの2024年11月号
巻頭言 東北の信徒への手紙 「あなたがたは世に属していない(ヨハネ15章19節)」
多くの方が愛誦聖句を持っておられると思います。それぞれの心に響いた聖書の言葉、それは素晴らしい神の言葉の贈り物です。
一方で気を付けなければいけないのは、私たちは神の言葉を都合よく切り取って自分の思いの証明に使ってしまう誘惑に駆られることです。表題の聖句を「そうだ。私たちは天に属しているのだから、罪と汚れにまみれたこの世とはできるだけかかわってはいけないのだ」などと受け取ってしまうと、イエス様の思いを無にしてしまうことになります。確かに主に寄って私たちは天に属する者としていただいた、そしてその上で私たちは「わたしはあなたがたを遣わす」(マタイ10:16)とイエスのみ名によって世に遣わされているのです。世に属さない者として世に遣わされるということはとても怖いことです。事実この言葉は迫害の予告の冒頭に用いられているものです。イエス様ご自身がその姿勢を貫き「世に抗う者」として十字架に上げられました。キリストの体である教会は、弟子である私たちは、「世に属していない」という姿勢をどのように現してきたのでしょうか。もちろん私たちはイエス様と同じにはなれません。そのことはイエス様もご承知で「弟子は師にまさるものではなく、……弟子は師のように……なれば、それで十分である。」(マタイ10:24)と言ってくださってはいます。要は私たちがどれだけ主に近づこうとしているのかが大事だということでしょう。
幸いなことに、私は4つの教区の教会の皆さんとかかわる機会がありました。信徒の皆さんといろいろな話をさせていただきました。ご高齢の先輩方からは昔の教会の様子、楽しかったこと、宣教師の思い出、大変だったことなどを聞かせていただきましたが、どこの教会でも時折、人権問題になりそうな話が飛び出してきました。
過去の日本において、現代よりもさらに性差やハンディキャップを抱える人々の人権が軽視されてしまうことや、「職業に貴賎なし」との言葉が生まれるほどに職業差別や出自に対する差別が大きかった時代がありました。「そういう時代だったから仕方がない」ということもできるのでしょう。いや、仕方がないというよりもそれが「世の常識」であり、それに異を唱えることの方が奇異なことだったのかもしれません。しかし「お和えたちはそういう存在なのだ」と決めつけられた人たちが、仕方がないことだと納得していたわけではないのです。それが自然な心の動きだと思います。
「そういう時代だった」とはしばしば用いられる言い訳ですが、「世に属していない」はずの教会もそれでよいのでしょうか。もちろん人も行政も目を向けなった小さくされた人、病者、社会から邪魔者扱いされた人たちに寄り添い支えた先人たちはたくさんいました。戦時中でさえも声を挙げるのをあきらめなかったひとたちもいたのです。しかし多くの人が「世のあたりまえ」に従ってしまったか、疑問を抱くこともなかったのではないでしょうか。
今私は現在の視点から過去を眺めて書いていますが、自分がその時代に生きていたら「世に属していない者」として生きられたのだろうかと思います。それは自分も現在の「世の常識・価値観」を第一にしてしまっているのではという恐れを感じたからです。「世に属さない者」としての視点はいつの時代の教会にも大切なものなのです。
主よ、どうかみ名のみを崇めさせてください。
福島聖ステパノ教会牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福