教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2026年3月号

北海道教区報・東北教区報 共通巻頭言 「主の食卓を囲み」

 

 

「飲みニケーション」なんて言葉を今の世の中で使うと、即ハラスメント案件になってしまいそうですが、、お酒を飲むかどうかはともかく、この「食卓を囲んでコミュニケーションを取る」という概念は、今の世の中にむしろ必要なのではないかと強く感じています。

 

 

現代社会において重視されるのはタイムパフォーマンスやコストパフォーマンスだと言われています。だから自分の近しい人とですら割に合わないと感じれば直接出会うことはせず、SNSやメールで十分と済ませてしまうことが多い。ましてこれが関係性が薄い人、自分の知らない人とのものであればなおさらのことでしょう。かくいう私自身も、そんな感覚が分からなくもない部分があるのですが、同時にイエスならそうではないだろうとも思うのです。

 

聖書に見られるイエスは、少し調べると分かることですが、至る所で様々な人々と食事を共にしています。そこは5000人の供食やカナの婚礼、徴税人マタイとの食事やザアカイとの食事(宿泊)、有名な弟子たちとの最後の晩餐、あるいは当時敵対していたファリサイ派の人々とすら食事をしています。このようにイエスは至る所で初めて会う人とも、意見が違う人とも直接顔を合わせて食事をとり、語り合っていたようです。それこそ周りの人間に「あいつは大酒飲みの大食漢だ、なんと罪深い」と陰口を言われるほどでした。では、何故イエスはそれほどまでに食事を共にすること、人々と「食卓を囲むこと」を大切にしていたのでしょうか。それはきっと、色々な意味で食事をともにするということが、人間が生きていく上で必要なことであったからでしょう。

 

食事をするということは、言うまでもなく生命活動に必要なことです。しかしそれ以上に聖書的に言うなれば、それは「喜び」「神と人との和解」「永遠の命」の象徴であるのです。中でも今この時大切なのは「和解」の象徴としての食事です。イエスは当時罪人とされていた人とも食事をし、彼らを神との和解、正しい生き方へと導きました。あるいは対立関係にあった人との食事でも、その根底には彼らとの和解も求めていたのかもしれません。

 

きっとイエスは神と人との関係ももちろんですが、人と人との間にあっても分かり合うため、共に生きていくためには、「食卓を囲む」ということ、もっと言えば食事がどうのというよりも、直接出会っておもりを聴き合うことが必要不可欠であると誰よりも知っていたのだと思います。

 

私たちもそれは同様なのでしょう。どんなに夜の技術が発達しても、人の営みの根っこの部分は変わらないのだと思います。だからこそ私たちはイエスのみ跡を歩むものとして、様々なな人と「出会い」「食卓を囲み」「分かり合う」ことを諦めずに進みたいと願っています。

 

そして今の私たちがまず「主の食卓を囲んで分かり会う」ことが必要なのが、北海道と東北の仲間たちであるのでしょう。文化や生活環境、あらゆるものがy違う私たちが、イエスの食卓を共に囲み、お互いを知り合い、共に生きていく道を見いだしていけるように。お互いにイエスを見習って、沢山の出会いを実現していき、大きな喜びに向かっていければと願っています。

 

 

司祭 パウロ 渡部 拓(秋田聖救主教会牧師・大館聖パウロ教会管理牧師)

 

 

 

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