教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2025年1月号

巻頭言 新年メッセージ 「主に受け入れられる年を告知する」

 

 

主の平和が皆さんと共にありますように

 

 

新年のお慶びを申し上げます。この一年も全能の神様に守られ導かれて、それぞれの信仰生活、教会生活が豊かにされますようにとお祈りいたします。

 

四半世紀前は、世界中の人々の間でミレニアム(千年紀)が話題になりましたが、1990年に「ジュビリー2000債務帳消し」運動が始まっていました。その目的は「21世紀をすべての人が人間らしく生きられる世界にするため」でした。途方もなく難解な理想ですが、そのためにまず20世紀が生み出した10億人超の貧困を根絶することと、貧困の最大原因の一つである途上国が抱えている巨額債務を帳消しにすることでした。

 

当時の最貧国では人々が飢餓や病気で亡くなり、子どもの3人に1人は栄養失調で死亡する一方で、債務返済のために医療や教育に十分なお金が使えません。アフリカの年間債務返済は国家予算の30%にも上り、医療予算の2倍に達していました。ですから、重債務貧困国の債務帳消しを実行してすべての人たちが生きられるようにしましょうと先進国に要望したのです。英国聖公会は中心的な存在でした。

 

このキャンペーンの根拠は聖書にあります。旧約聖書レビ記25章10節以下に「ヨベルの年」が記されています。50年目の聖なる年(ヨベル=ジュビリー)には奴隷は解放され、借金を帳消しにし、穀物を収穫しないで野に生えたものを食するようにと書かれています。
「50年目の年を聖別し、その地のすべての住民に解放を宣言しなさい。それはあなたがたのためのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有の地に帰ることができる。」(レビ25:10)

 

当時、私は仙台基督教会副牧師で聖ペテロ伝道所に住んでおり、仙台市内のキリスト教会、特にカトリック教会の信徒たちと「ジュビリー2000債務帳消し」運動に関わりました。子どものいのちを代償として返済される債務は不公正であり人権の侵害です。貧困に喘ぐ人たちを解放することこそが、その時の時代の要請でした。

 

あれから25年です。重要な出来事から25年、50年、60年、75年経過した時に催される記念行事や祝祭も「ジュビリー」と言います。現在の世界では貧富格差が増し、人権侵害が絶えず、飢餓に苦しみ、日本の人口と同じ1億2千万人以上の難民が彷徨い、戦争では数えられない程のいのちと地球を破壊しています。現実にはヨベルの年は宣言されない世界です。

 

しかしながら、まことの光である主イエスは病み、破れ、傷つき泣いている世に来て、すべての人を照らします。そのお方がこの世に来られたのは、「主の恵みの年を告げるため」(ルカ4:18-21)です。「主の恵みの年」は直訳では「主に受け入れられる年」です。つまり虐げられている人が神様に受け入れられるようなことが起こる年が告げられます。イエスはその時を宣言します。「貧しい者たちに福音が伝えられ、囚われた者たちに解放を、叩き潰された者たちを解放して行かせる」と宣言します。

 

 

私たちも主の福音を宣べ伝えてましょう。主のおとずれの良き知らせを告知しましょう。あらゆる意味での解放を宣言し、解放の実現のための一年にしたいと願い祈りましょう。

 

 

教区主教 フランシス 長谷川 清純

 

 

 

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あけぼの2024年12月号

巻頭言 クリスマスメッセージ 「この命は人の光であった」

 

 

クリスマスは光の祭典といわれていますように、あちこちでイルミネーションが美しく飾られ、冬の夜に輝く光は特に美しく見えます。暗く寒い夜に輝く光景は、周りが暗ければ暗いほど、明るく輝いて見えます。教会でもツリーを飾り、イルミネーションをつけ、キャンドルの火を灯し輝かせてクリスマスをお迎えします。このようにクリスマスがいつの間にか光の祭典のように祝われるようになったのには、深い訳があります。それは、新約聖書ヨハネによる福音書の最初に記されています。

 

「この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(中略)その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」(聖書協会共同訳ヨハネによる福音書1章4、5、9b節)

 

クリスマスが光の祭典になったのは、このようにイエス・キリストがすべての人の光として、世に来たという聖書の宣言によります。イエス・キリストはすべての人を照らすまことの光、そして、この光は闇の中に輝いていると宣言されています。

 

私たちは経験上、闇が深ければ深いほど、光は明るく強く輝くということを知っていますが、ヨハネの語る闇は人の心の闇をも指し、そして人は誰もが心に闇の部分を持っているとしています。その闇は、悲しみであったり、失望であったり、孤独であったり、はたまた、ねたみであったり、憎しみであったり、迷いであったり、疑いであったり、人生のありとあらゆる心の痛みと苦しみを、闇という言葉で表現できると思うのです。そしてそんな私たちの心の闇にもキリストが光をもたらしてくださるということは、私たちがこの人生を闇の力に支配されることなく、闇に打ち勝つ光が私たちの心を照らしてくださる。そして闇の中で悲観的になることもなく、どんなにこの世が右も左も真っ暗闇であったとしても、キリストと共に生きるなら、そこに「ポッ」と明りが灯っている人生を生きることができるという宣言に他なりません。そして、何よりもイエス・キリストとの決定的な出会いによって、自分の生きる意味を見つめ直し、そしてその道がはっきりと示されるというのが、クリスマスの出来事です。

 

 

「この命は人の光であった」という聖書の宣言は、すべての人々に与えられている神様からの贈り物です。そしてクリスマスは、神様からの最大の贈り物である神のみ子イエス・キリストが、私たちに与えられたという最高の良い知らせです。ユダヤのベツレヘムという村で、幼子イエスは宿にも泊まれず家畜小屋でお生まれになりました。そして、牛や羊の餌箱である飼葉おけの中に寝かされたと聖書に記録されています。そんなイエス・キリストは最後には、私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって、十字架につけられて殺されてしまいました。しかし、神はこのイエスを3日目に死からよみがえらされました。このキリストを信じる人々の中でキリストはよみがえり、宿られ、光となって救い主として導かれます。今年のクリスマス、多くの皆さんとご一緒に、み子イエス様をお迎えして、まことの光に照らされ、導かれて、希望を持って進んでまいりましょう。

 

 

郡山聖ペテロ聖パウロ教会牧師 司祭 ヤコブ 林 国秀

 

 

 

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あけぼの2024年11月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「あなたがたは世に属していない(ヨハネ15章19節)」

 

 

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多くの方が愛誦聖句を持っておられると思います。それぞれの心に響いた聖書の言葉、それは素晴らしい神の言葉の贈り物です。

 

一方で気を付けなければいけないのは、私たちは神の言葉を都合よく切り取って自分の思いの証明に使ってしまう誘惑に駆られることです。表題の聖句を「そうだ。私たちは天に属しているのだから、罪と汚れにまみれたこの世とはできるだけかかわってはいけないのだ」などと受け取ってしまうと、イエス様の思いを無にしてしまうことになります。確かに主に寄って私たちは天に属する者としていただいた、そしてその上で私たちは「わたしはあなたがたを遣わす」(マタイ10:16)とイエスのみ名によって世に遣わされているのです。世に属さない者として世に遣わされるということはとても怖いことです。事実この言葉は迫害の予告の冒頭に用いられているものです。イエス様ご自身がその姿勢を貫き「世に抗う者」として十字架に上げられました。キリストの体である教会は、弟子である私たちは、「世に属していない」という姿勢をどのように現してきたのでしょうか。もちろん私たちはイエス様と同じにはなれません。そのことはイエス様もご承知で「弟子は師にまさるものではなく、……弟子は師のように……なれば、それで十分である。」(マタイ10:24)と言ってくださってはいます。要は私たちがどれだけ主に近づこうとしているのかが大事だということでしょう。

 

幸いなことに、私は4つの教区の教会の皆さんとかかわる機会がありました。信徒の皆さんといろいろな話をさせていただきました。ご高齢の先輩方からは昔の教会の様子、楽しかったこと、宣教師の思い出、大変だったことなどを聞かせていただきましたが、どこの教会でも時折、人権問題になりそうな話が飛び出してきました。

 

過去の日本において、現代よりもさらに性差やハンディキャップを抱える人々の人権が軽視されてしまうことや、「職業に貴賎なし」との言葉が生まれるほどに職業差別や出自に対する差別が大きかった時代がありました。「そういう時代だったから仕方がない」ということもできるのでしょう。いや、仕方がないというよりもそれが「世の常識」であり、それに異を唱えることの方が奇異なことだったのかもしれません。しかし「お和えたちはそういう存在なのだ」と決めつけられた人たちが、仕方がないことだと納得していたわけではないのです。それが自然な心の動きだと思います。

 

「そういう時代だった」とはしばしば用いられる言い訳ですが、「世に属していない」はずの教会もそれでよいのでしょうか。もちろん人も行政も目を向けなった小さくされた人、病者、社会から邪魔者扱いされた人たちに寄り添い支えた先人たちはたくさんいました。戦時中でさえも声を挙げるのをあきらめなかったひとたちもいたのです。しかし多くの人が「世のあたりまえ」に従ってしまったか、疑問を抱くこともなかったのではないでしょうか。

 

 

今私は現在の視点から過去を眺めて書いていますが、自分がその時代に生きていたら「世に属していない者」として生きられたのだろうかと思います。それは自分も現在の「世の常識・価値観」を第一にしてしまっているのではという恐れを感じたからです。「世に属さない者」としての視点はいつの時代の教会にも大切なものなのです。

 

 

主よ、どうかみ名のみを崇めさせてください。

 

福島聖ステパノ教会牧師 司祭 ステパノ 涌井 康福

 

 

 

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