教区報

教区報「あけぼの」

あけぼの2025年3月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「人は誰かのために泣くことが出来る」

 

 

14年前の3月11日、あの地震が発生した時に、当時神学校への入学を控えていた私は、指導司祭と共に車を運転しておりました。そして時計の針が14時46分を指したとき、突然の大きな揺れと共に、目の前の渡ろうとしていた橋が蛇のようにうねるという衝撃的な映像が目に飛び込んできたのです。慌てて来た道を引き返した私たちは、何とか難を逃れることが出来ましたが、その道すがら見える割れたガラス、倒れた壁、一瞬にして崩壊した日常を目の前に、えもいわれぬ恐怖を感じたことを、今でも覚えています。

 

その後私自身も色々と大変な思いもそれなりにしましたが、それよりも印象的に残っているのが、自分が行く先々で目にした人々の優しさと強さでありました。水の配給に行けばお年寄りのお手伝いをする青年、他人同士で物資を分け合う姿が見られる所もあれば、ボランティアで訪ねた先では、ご自身も大切な人を亡くされているにもかかわらず、他の悲しむ人に寄り添い、その人のために働く人もいたのです。

 

 

聖書には「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)という聖句があります。これは私たち人間が他者と一緒に愛を持って生活するために必要な指針であり、簡単に言えば人と「共感」する力の大切さを説いているのだろうと思います。しかし人と人とが、それも全くの他人同士が「共感」するということは、それはとても大変なことでもあるのだろうと思います。ましてそれが、自分自身も悲しみや苦しみといった苦難の中にいる時であればなおさらです。しかしながら14年前のあの時、大変な状況にあったはずの東日本の地では、この共感する力が溢れていたと思うのです。誰もが悲しみを共有し、しかし一方で本当に些細な喜びを分かち合い、それを希望にしていた。それが生きることへの、復興への原動力になっていたと思います。

 

しかし今はどうなのでしょうか。もちろん14年が経過した今でも、被災地へ寄り添い共感し、活動を続けている人々が大勢います。私たちの教会だってそうであると思います。でも一方で、日々の報道では14年前の「悲しみ」にはあまり触れられなくなってきている。復興の「喜ばしい」ニュースはこぞって伝えますが、「未だ苦しみや悲しみの内にいる人々の声」は聞こえにくくなっているように思えてなりません。

 

であるからこそ、私たちは今こそ「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ことが出来る共同体であること、そんなイエスの弟子の在り方を思い起こす必要があるのです。これは何も東日本大震災に限った話ではなく、やはり私たちの教会は世界の「声なき声」を聴き、共感することが出来なければならないのです。

 

そしてそんな「誰かの声を聴いて共感すること」ということは、大それた何かをするということではなく。それこそどんなに小さなことでも共に喜び、そして悲しみを抱えている人と一緒に泣くということに帰結するでしょう。

 

 

震災から14年経ったこと被災の地にある教会共同体として、イエスのみ跡を踏む者として、私たちが何を成していけるのか。誰の声を聴き、誰と共に喜び泣いていくのかを、今この時だからこそ祈り、考えていければと思います。

 

そしていつか、全ての悲しみが喜びへと変わることも、祈ってまいりたいと思います。

 

 

秋田聖救主教会牧師 司祭 パウロ 渡部 拓

 

 

 

あけぼの2025年3月号全ページはこちら

あけぼの2025年2月号

巻頭言 東北の信徒への手紙 「シメオンとアンナ」

 

 

幼子の誕生から四十日、若い両親は赤ん坊イエスを連れて、エルサレムの神殿へとやってきました。誕生四十日目のいわば宮参りです。神殿といっても厳粛というよりは、いろいろな用件で各地から来た人々でごったがえしていたのではないかと想像します。その時、一人の老人が両親と幼子のもとへ近づいてきています。「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた」老人シメオンです。彼は両親の手から幼子イエスを抱き取ると「私はこの目であなたの救いを見た。これは万民の前に備えられた救い、異邦人を照らす啓示の光」と神を賛美します(「シメオンの賛歌」)。それからマリアに向かって大変なことを言います。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」どんでもないお爺さんです。しかし、すごい預言です。キリストの生涯の出来事と意味を鋭く言い切っています。シメオンはまだほんの小さく無力に見える幼子のうちに神の救いの業の始まりを見抜くのです。

 

そこにまたアンナという女預言者が登場します。夫と死別して84歳になっていました。そして「神殿を離れず、昼も夜も断食と祈りをもって神に仕えていた」女性でした。彼女も近づいてきて神に感謝を献げ、人々に幼子のことを伝えます。預言者であり宣教者です。女預言者は旧約聖書にも見られます。出エジプトの後、アロンの姉ミリアムが女たちと共にタンバリンを手に踊りながら歌う賛歌が『出エジプト記』第15章にあります。「主に向かって歌え。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」(「ミリアムの歌」)。パワフルです。

 

降誕日から四十日目、「被献日」(2月2日)の出来事です。今年は2月2日が主日なので、教会全体でこの福音書(『ルカによる福音書』第2章)を読むことになります。幼子イエス、若い両親、そして相当高齢なシメオンとアンナ。世代を超えた出会いの場面です。

 

 

教会の高齢化を憂える声がときどき聞かれます。しかしシメオンとアンナの高齢者パワーはそんなことを吹き飛ばします。私たちの教会にもたくさんのシメオンとアンナがおられます。豊かな経験を持ち、信仰の厚い情熱を保ち続けてきた方々です。実際、身体的にも精神的にも昔とは十年二十年違うでしょう。今ある教会のエネルギーを十分に生かしたらよいのだと思います。もちろん、若者も中年も負けずに。

 

聖霊降臨日、ペトロはヨエル書を引いて語ります。「あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(『使徒言行録』第2章)。「老人は夢を見る」。ヴィジョンを持ち、夢を語るのです。

 

 

教会という共同体の特徴、強みは他の社会(学校や職場)以上に、赤ん坊から老人まで世代を超えた出会いと交わりがあることです。また現在の生活の状況や事情も人それぞれ異なるでしょう。それでも信仰によって結びついた共同体は、やはり不思議な、そして豊かな存在です。その豊かさを生かしつつ、喜びをもって歩む教会の、この一年でありますようにと祈ります。

 

 

元東北教区主教 主教 ヨハネ 加藤博道

 

 

 

あけぼの2025年2月号全ページはこちら

あけぼの2025年1月号

巻頭言 新年メッセージ 「主に受け入れられる年を告知する」

 

 

主の平和が皆さんと共にありますように

 

 

新年のお慶びを申し上げます。この一年も全能の神様に守られ導かれて、それぞれの信仰生活、教会生活が豊かにされますようにとお祈りいたします。

 

四半世紀前は、世界中の人々の間でミレニアム(千年紀)が話題になりましたが、1990年に「ジュビリー2000債務帳消し」運動が始まっていました。その目的は「21世紀をすべての人が人間らしく生きられる世界にするため」でした。途方もなく難解な理想ですが、そのためにまず20世紀が生み出した10億人超の貧困を根絶することと、貧困の最大原因の一つである途上国が抱えている巨額債務を帳消しにすることでした。

 

当時の最貧国では人々が飢餓や病気で亡くなり、子どもの3人に1人は栄養失調で死亡する一方で、債務返済のために医療や教育に十分なお金が使えません。アフリカの年間債務返済は国家予算の30%にも上り、医療予算の2倍に達していました。ですから、重債務貧困国の債務帳消しを実行してすべての人たちが生きられるようにしましょうと先進国に要望したのです。英国聖公会は中心的な存在でした。

 

このキャンペーンの根拠は聖書にあります。旧約聖書レビ記25章10節以下に「ヨベルの年」が記されています。50年目の聖なる年(ヨベル=ジュビリー)には奴隷は解放され、借金を帳消しにし、穀物を収穫しないで野に生えたものを食するようにと書かれています。
「50年目の年を聖別し、その地のすべての住民に解放を宣言しなさい。それはあなたがたのためのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有の地に帰ることができる。」(レビ25:10)

 

当時、私は仙台基督教会副牧師で聖ペテロ伝道所に住んでおり、仙台市内のキリスト教会、特にカトリック教会の信徒たちと「ジュビリー2000債務帳消し」運動に関わりました。子どものいのちを代償として返済される債務は不公正であり人権の侵害です。貧困に喘ぐ人たちを解放することこそが、その時の時代の要請でした。

 

あれから25年です。重要な出来事から25年、50年、60年、75年経過した時に催される記念行事や祝祭も「ジュビリー」と言います。現在の世界では貧富格差が増し、人権侵害が絶えず、飢餓に苦しみ、日本の人口と同じ1億2千万人以上の難民が彷徨い、戦争では数えられない程のいのちと地球を破壊しています。現実にはヨベルの年は宣言されない世界です。

 

しかしながら、まことの光である主イエスは病み、破れ、傷つき泣いている世に来て、すべての人を照らします。そのお方がこの世に来られたのは、「主の恵みの年を告げるため」(ルカ4:18-21)です。「主の恵みの年」は直訳では「主に受け入れられる年」です。つまり虐げられている人が神様に受け入れられるようなことが起こる年が告げられます。イエスはその時を宣言します。「貧しい者たちに福音が伝えられ、囚われた者たちに解放を、叩き潰された者たちを解放して行かせる」と宣言します。

 

 

私たちも主の福音を宣べ伝えてましょう。主のおとずれの良き知らせを告知しましょう。あらゆる意味での解放を宣言し、解放の実現のための一年にしたいと願い祈りましょう。

 

 

教区主教 フランシス 長谷川 清純

 

 

 

あけぼの2025年1月号全ページはこちら