教区報
教区報「あけぼの」 - だいじに・東北の記事
「『特別活動』から 日々の祈りと働きへ -これからもだいじに・東北」 2015年5月号
「いっしょに歩こう!プロジェクト」の2年間、「だいじに・東北」の2年間、計4年間にわたって東日本大震災被災地において奉仕された方々、訪ね祈り、多くのものを捧げてくださった方々の数は数え切れません。また国内外各地で被災地を思い続け、奉仕と祈りを続けられた方々の数はさらに多く、心からの感謝を申し上げます。同時に、被災地にある教区・教会として、どれだけのことが出来たかという点では、申し訳なく恥ずかしく思います。しかしご承知の通り、極めて支援活動や社会的な視点をもった活動に疎く、行動力の乏しいわたしや東北教区の限界をはるかに超えて、各教区から多数のスタッフが「いっしょに歩こう!プロジェクト」に参加し、また「だいじに・東北」でも、お二人の専任スタッフ、事務長として松村豊さん(東京教区・聖アンデレ教会信徒)、支援室長補佐として福澤眞紀子さん(東京教区・聖マーガレット教会信徒)が大きな力となってくださいました。東北教区信徒の活動への参加も、地道に、しかし止まることなく続いてきました。それも大切なことであったと思います。
「だいじに・東北」も計画通りこの5月末をもって終了します。しかし「終わるけど・終わらない」のです。今年の3月11日、大震災4周年の記念礼拝の際に配布された東北教区のパンフレットは、「これからも・だいじに 東北!」となっています。大きな予算を与えられ、専任・専従のスタッフを置き、事務所を構え、多くの台数の車を保持して運用するような意味での「特別活動」は終わります。しかし被災地の労苦は決して終わってはいませんし、それどころか原発事故からの避難生活が長期化する多くの方たち等、困難さと労苦が増し加わっているようにさえ思います。そういう中で終わりはありません。「特別活動」は終了しますが、被災地にある教区・教会としてわたしたちの日常、宣教、祈りの事柄として大震災を覚え続け、祈り続け、また可能な働きを続けていきます。
4周年を迎えた3月11日、東北教区全教役者も集まり、ゲストもお迎えした主教座聖堂・仙台基督教会での記念礼拝だけではなく、各地の教会、幼稚園・保育園でも記念の祈りが捧げられていました。例えば、仙台の聖クリストファ幼稚園では、120人もの園児やその家族、教職員、信徒らが集まって祈りと黙想が捧げられました(司式・笹森伸兒司祭)。同幼稚園ではその前にも「いっしょに歩こう!プロジェクト」のDVDを、日曜学校と園児保護者向けに2度上映する機会が設けられており、関心はむしろ高まってきているようです。そのようなこと、東北教区の各教会、諸施設の日常の中で、いつも覚え続けていくようなことが、これから本当に大切なのではないかと思っています。
大きな災害や多くの人の犠牲、悲しみは東日本大震災だけではありません。各地において、教会や関連施設は、それぞれの地域の課題を担い、覚えて祈り、働いておられることと思います。東北教区もその中にあって、大きな苦難を抱く地域にある教区として、主の御心を祈り求め、歩み続けてまいります。どうぞこれからもお祈りください。
主教 ヨハネ 加藤 博道
あけほの2015年5月号
(写真は3月11日に行なわれた聖クリストファ幼稚園の礼拝)
「共 生」2015年3月号
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」創世記の神様の創造の一節で、少しでも聖書に触れたことのある人なら知っている箇所であると思います。聖書におけるこの創造の一節を、私はこれまであまり気に留めたことはありませんでした。しかし震災の経験と、神学校において、様々な神学に触れるうちに、創造における人のあり方というものについて、思い悩むようになっていったのです。
東日本大震災と津波は、本当に大きな物的・人的被害をもたらしました。その地震と津波による直接の被害ももちろんですが、同様に衝撃を受けたのが福島第一原子力発電所の事故と、その後の放射性物質による汚染でした。地震と津波の脅威が去った後でも残り続ける目に見えない脅威。そして、自然界への影響を考えると、その被害の大きさは想像も出来ません。
そしてこれらの出来事がきっかけとなり、「すべてを支配せよ」という聖書の言葉が、大きな違和感と共に私に迫ってきたわけです。地震という自然の前に為す術も無い人間。あまつさえ、自らが生み出した技術に首を絞められている人間。そんな存在が自然を「支配する」とは、悪い冗談のように感じました。
このようなことがあったので、私の卒業論文のテーマが「創造論」となったことは、自然なことであったように思います。そしてその中で私は、常々違和感を覚えていた創世記の「支配する」ということについて調べました。するとこの言葉を、人間は自然を支配するように神から言われていると受け取り、産業や自然開発への大義名分として解釈され、使われていた時代が続いていたこと。特に日本に於いては、この考えが特に強調されて伝わってしまっていることが分かりました。
しかし勉強を続けていくと、近年この「支配」という言葉は、「管理」するといった意味や、羊飼いが羊を「牧する」といった意味が強く、好き勝手に支配することでは無いという研究が主流であることも分かったのです。つまり創世記のこの一節の本来の意味は、支配では無く、神様が創造された世界を、責任を持って「管理する」ということであるということです。ですが私は、この「管理」という言葉にも、まだどこか人間が上に立っているような印象を受け、違和感を覚えました。そんな時に目にとまったのが、詩編百四編を扱った研究です。
その研究によると詩編百四編の中では、人間もほかの動物や被造物も同列に扱われており、世界の秩序は「共生」によって成り立つものとして描いていると言っていたのです。この考えは私に、「人間に与えられた世界での立ち位置というものは、世界に対して羊飼いのように世界によりそい、共生するということになるのではないか。そして人間は世界と「共生」するために、少し優れた知恵を与えられているのではないか?」という考えに私を導きました。
こう考えるようになってから、この問題についての見方が、自分の中で少し変わったことを感じています。地震などの自然を前に、人間は多くの部分で何もできませんし、それを止めることもできません。しかしながら、過去の教訓と普段からそれらに対しての知恵をつけることによって減災することが出来るということも事実です。このことは、人間がその知恵を用いて、世界と共生することが出来ることを示しています。
そしてそうであるならば、震災を経験した者として、私たち教会には、「その犠牲と記憶を永遠に知恵として伝え、想起していくこと。」そしてまた、この地上で起こっている問題に関して、「世界と全ての生命が共生するために、神と聖書によって立つ者として『知恵』を発信していくこと。」これらのことが私たちへの道の一つとして、示されているのではないでしょうか。
あけぼの 2015年3月号より
聖職候補生 パウロ 渡部 拓
「『それでも…』は希望の言葉」2014年11月号
「ヨブの三人の友人が、ヨブの友人たり得たのは、この最初の一週間だよね」。
大学院時代、ヨブ記をテーマにしたゼミでの恩師の言葉です。
ご存知の通り、旧約聖書のヨブ記は、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(ヨブ記1:1)ヨブに、ある日突然、次から次へと災難・不幸が襲いかかることが記されており、神が正義であるなら、なぜ正しい人が苦しまねばならないのかをテーマにした書物です。そして、その内容の大半は、「ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやってきた」(同2:11)三人の友人とヨブとの討論で構成されています。
三人の友人は、次から次へと災難が起こった理由・根拠について推測、ヨブにこれを語ります。それは、当初はヨブの苦しみを思い、おそらくは苦しみの理由を明らかにすることでヨブを立ち直らせたいという善意からの問いであり、また諭しであったのだろうと思われますが、純真無垢のヨブからすれば、語られる内容以前に、そのような理由付けが、より彼を困惑させたであろうことがうかがわれます。そしてヨブがそのような態度を示せば示すほど、それを頑なな態度と受けとめた三人の友人の語りはエスカレートしていきます。
さて、三人の友人がそのような諭しを始める前、彼らはヨブの現状に語る言葉をもたなかったことが聖書には記されています。「彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(同2:13)と。
そこで冒頭の恩師の言葉です。つまり、ヨブの苦しみを共に担いたい、慰める「友」でいたいとの思いで駆けつけた彼らはしかし、ヨブの現状に話しかけることもできず、七日七晩、ただ傍らに一緒に座ることしかできなかった、それが三人がヨブにとって友人たり得た時間だったというのです。
語る言葉をもたず、ただ傍らにいるしかないのが真の友人?この日以来、私は「共感」とは何かを思い巡らしてきました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」など人間にできることなのだろうかと。「共感共苦」は、確かに耳には聞こえのいい言葉ではあるけれど、人が人と真に同じ感情をもつことはできるのだろうかと。
正直に告白すれば、私の答えは「できない」ということになります。それはパウロの言葉を否定したいのではなく、またそれを諦めているわけでもありません。ただ、たとえ家族や恋人同士であっても、別人格の人と人が完全にアイデンティファイ(自己同一化)することはできないという意味においてそう思うのです。しかし、苦しみの最中にある愛する人を思い、何とか力になりたい、何とか励ましたいのにそれができない、語る言葉を持たないという自らの悲しみと、苦しみの最中にある人の悲しみはリンクする、そこで思いを共有することは不可能ではない、今は「共感」をそんなふうに捉えています。
その意味で「共感」は、自分は本当に愛する人に寄り添えているのだろうか、他に何か方法があるのではないだろうかと正回答のない問いに悶々とし、しかしそれでも一歩踏み出し続けることではないだろうか、そう思っています。そしてそれこそが、共に重荷を担い、完全なる共感を果たすことのできるキリストの御跡を踏むことなのではないだろうかと。 そんな「揺れ動き」を受け容れつつ、それでも「前」を向いて生きる歩みを、「だいじに」していきたいと願っています。
あけぼの 2014年11月号より
司祭 ヨハネ 八木 正言
「これからも私たちにできること」2014年10月号
「いっしょに歩こう!パートⅡ だいじに・東北」の働きが始まって2年目を迎えました。被災直後のパートⅠの働きが、まず必要な物的支援から始まり、徐々に被災された方々の心に寄り添う、正に「いっしょに歩く」ことが働きの中核となって行ったことを引き継いでの働きが「だいじに・東北」の働きだとわたしは理解しています。そしてその働きを担っているのが私たち東北教区の各教会であり、そこに集う一人ひとりです。もちろん何をして行けばよいのかを探り、働きを調整してくださる事務局の働きがあり、現在も多くの教区外からのご支援もあります。しかしその働きは各教会との連携があってこそ本当に生かされていきます。うれしいことにその主旨が理解され、教区内の教会に具体的な動きが生まれ、継続されている働きも生まれています。そのひとつに「被災の地を訪ねる」ということがあります。被災直後は立ち入りを制限されている地域も数多くあり、訪ねてみたいと思っても「ただ行くだけなんて、見に行くだけなんて申し訳ない」という思いも多くの方が持たれていたことでしょう。
また、「自分たちはたいした被害も受けていないのに」という思いが被災された方々に「申し訳ない」という思いになったり、後ろめたさを覚えたりという告白を数多く耳にしました。あの大震災は直接の被害を受けた人たちにも、そうでない人たちにも多くの傷を残しているのだなと思わされます。だからこそ今は多くの人に被災の地に直接立ってほしい、その地の人たちに出会って欲しいと願うのです。
私の教会でも昨年から被災地訪問を続けています。初めて行かれる方はやはり少し不安もあったようです。「ただ見に行くなんてことを、して良いのだろうか?」という思いはぬぐいきれません。被災地からは「見に来てくれるだけで良い。見て、知って、感じて欲しい」というメッセージも届くようになっていましたが、最初のうちは緊張の被災地訪問でした。ところが驚いたことに躊躇している私たちに先に声をかけてくださったのが地元の被災された方々でした。「どちらからいらっしゃいました?山形。遠くからありがとうございます。」そんな出会いから始まった会話、被災時の出来事のお話はもちろん軽いものではありません。情報としては知っていても、体験者から直接聞くお話は各々の魂を揺さぶるものでした。ところが別れ際には両者とも何かわだかまりが解けたような不思議な感覚を覚えたように感じています。それは「聞いて欲しい」「聞かせて欲しい」という思いが出会った時であったかもしれません。
ビートたけしの、こんな言葉を思い出しました。「(よく犠牲者の数で災害の大きさが比較されるが)そうじゃなくて、そこには一人が死んだ事件が2万件あったってことなんだよ。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えているんだから。」この言葉からこの聖句を連想しています。「その小さな者一人にしたことは、私にしてくれたことなのである」という主イエスの言葉です。「だいじに・東北」の働きには終わりの時が来ます。でもその後にもできることが私たちにはあります。これからも同じ苦しみを負わされる方は、残念ながらおられることでしょう。私たちは無力に見えます。でも祈り続けること、小さな出会いを大切にしていくこと、等々ができます。私には何ができるでしょうか。
司祭 ステパノ 涌井 康福
あけぼの 2014年10月号より
「教会のやるべきこと」2014年9月号
東日本大震災が発生したときは、大館幼稚園のお別れ会の日でした。そろそろ盛岡に帰ろうとしていた矢先に、地震が起こり、いつまでも揺れるので気味が悪かったです。管理教会の大館聖パウロ教会の天井から吊るされた電灯が、横に大きく揺れていたのが印象的でした。
少し待てば平常に戻るだろうと、高速バス停に行くと「運休」とありました。時間はかかるが今回はJRで戻ろうと思い、東大館駅に行くと「復旧の見込みがいつになるかわからない」ということでした。だんだんといつもとは事情が違うことがわかり、帰る手段がないので、そのまま牧師館に泊まりました。
先生方が味噌汁を作ってくださり、当面食べるインスタント食品を差し入れてくれました。目の前のコンビニに行くとたくさんの人がいて、あっという間に品薄になり、驚きました。皆の家には備蓄があるのだろうにと不思議に思いました。
停電の中、火を弱くして自然対流でストーブを焚き、ロウソクの火で一夜を過ごしました。ラジオが各地での惨状を伝えていましたが、にわかには信じられない内容でした。 電気は大館市中心部から間もなく復旧しましたが、いつまでも交通機関が復旧しないので、戸枝正樹兄が自動車で一般道を通り八幡平IC付近まで送ってくださり、盛岡の教会車で曽根勇司兄に迎えに来ていただきようやく盛岡にもどることができました。そのときはまだガソリンが入手困難だとは分からず、貴重なガソリンを使って送ってもらい有難かったです。
盛岡への帰途、松の幹が何本も途中で折れているのが見え、異常な光景でした。 盛岡はブロック塀に亀裂が入り、洗礼盤が移動し、会館の壁が一部崩落し、亀裂が入っていました。幼稚園の床が歪み、ホールと保育室の間の接合部の亀裂が広がり、礼拝堂の塔と階段の接合部も広がり、水道管の漏水があり…抜本的な解決には建て直すしかないとはっきりわかり、1億5千万円という途方もない金額の前になすすべがありませんでした。甚大な被害を受けていたのですが、沿岸部の被害があまりにひどいので、かき消されてしまったようです。
2週間ほど後支援物資を車に積んでようやく釜石に行き、泥に埋まった異様な臭気の中、大槌の瓦礫に埋まった街まで行きました。途中の鵜住居(うのすまい)にいたっては住居跡の基礎の土台を残すだけで、一瞬にして生活を奪われた言い得ない悲しみの光景を、それから何度も見ることとなりました。
間もなく仁王幼稚園に東松島からお子さんが転園してきました。お父様は病院の先生で皆を避難させ、最後に逃げる際に被災して津波に流されて亡くなったそうです。その子を目の前にして、私はノアの箱舟の話ができなくなりました。それまで得意な話だったのですが、流されて命を失った人が悪い人だったとは言えないのです。反対にそれまで不得意だったガリラヤ湖の上を歩くイエス様の話が大事な話となりました。神様は自然界に起きる出来事の上におられる方なのだと。
むつ会衆の礼拝の際に、恐山に行くと菩提寺の境内に大きな四角い柱が建てられていました。東日本大震災の犠牲者を覚えて建てられた鎮魂の碑の脇には「破夢…」と文字がありました。霊場に訪れた縁者は、この碑を見て、無念までも覚えて祈ってくれていることに気付くでしょう。教会のやるべきこともこれだなと思った瞬間でした。
あけぼの 2014年9月号より
司祭 フランシス 中山 茂
「丁寧な関係を大事に」2014年8月号
スーパーや総合病院の入り口のフロアなどでよく見かけるもので「お客様の声」「患者様の声」というコーナーがあるのをご覧になったことがありますか? 私もたまに見ることがあります。
「お褒めの言葉」「お叱りの言葉」「改善して欲しい要望」など、たいてい3つに分けられていることが多いように思います。私はその中でもお叱りの言葉が気になります。そこには正直「?」と思うような内容も書かれてはおるのですが、多くはごもっともなご指摘のように感じます。
特に病院においては、患者や家族にとっては深刻な訴えが書かれていることがあります。病院側の回答を読むと、その声に対して真摯に受け止め反省し、お詫びの言葉が述べられ、改善に努めることを約束しています。 賞賛の声を頂くのは嬉しいことです。前へ進むための大きな活力にもなると思います。 批判や怒りの声は正直、受け止める側はしんどく、出来れば避けたいものなのかもしれません。しかし、むしろ批判の声こそ真実の叫びなのではないのかと思うのです。
だからこそ、お店や病院の経営、運営において批判やご指摘の言葉は、むしろ「天の声」として大事にしていくのだと思います。そして、さらに言うならば批判をするということはまだ関心があるという裏返しなのであって、人は困難なとき、苦しい時は、怒ることによって批判することによって、自分自身を何とか保つことが出来ている一面もあるのではないでしょうか。
それよりももっと深刻なことは、人は怒りや批判を越えると失望し、絶望し何も言わずに静かに去っていってしまうのです。東日本大震災発生から3年が過ぎ、生きる希望を失い、絶望のうちに誰にも知られず亡くなっていく方、自ら命を絶つ方が後を絶えません。仮設住宅に住まわれていた方も次の住む場所や仕事など将来に希望を見いだし、新たな道を一歩踏み出した方もいれば、全く未来に希望を持てずに苦しんでおられる方もたくさんいらっしゃいます。それでも皆さん必死に前を向いて生きようとされています。この現実を重く深刻に受け止めなければならないと思います。しかし、一方で何も出来ない「私」もここにいることを認めます。
私たちの日常や教会の現実も、全く同じことが言えるのではないでしょうか。その現実を受け止め、丁寧に心を向けていくことが「だいじに・東北」の中心にあると信じています。主イエスご自身のご生涯も辛酸をなめつくしたものでありました。むち打たれ、辱められ、十字架にかけられて死なれました。
全くの無力の死であったのです。徹底的に絶望されたのです。震災後ある方が、「私たちはこの現実にもっと怒り、徹底的に絶望することなくして前に進むことはありえない」とおっしゃった言葉が私の心に残っています。まさに、主イエスが体験された絶望的な苦しみに、私たちはもっと心を寄せなければならないのではないかと思うのです。そのような生涯を送られたイエスが言われた「互いに愛し合いなさい」の教えを私たちがしっかりと心に留め、現実から目を背けずに歩み出すときに、そこに必ず希望が示されていくと信じたいと思います。 ※挿画は、テゼ共同体創始者ブラザー・ロジェが愛した「友情のイコン」。修道院長メナの肩に手を回しているキリストが描かれている。
あけぼの 2014年8月号より
司祭 ステパノ 越山 哲也
「忘れない 私たちの経験を無駄にしないために」2014年7月号
2011年3月11日の東日本大震災の発生から3年3ヵ月が過ぎました。この震災によって最愛のご親族を失われたご家族のため、また、今なお行方の分からない方々のご家族をはじめ、東京電力福島第一原子力発電所事故により故郷を追われた方々、被災された全ての方々に、心から主のみ守りをお祈り申し上げます。
東北教区では去る2014年3月11日に東日本大震災3周年にあたり盛岡聖公会、仙台基督教会、福島聖ステパノ教会、釜石神愛教会において、また、各地の教会で礼拝が捧げられました。そして、地震発生の午後2時46分の時刻に合わせて黙想の一時を得ました。
東日本大震災3周年記念礼拝には多くの方々が集い祈りを捧げましたが、それぞれがあのいまわしく忘れることのできなくなった「3月11日」を思い起こされたことでしょう。震災で犠牲となった皆さんのために、また、この世の不条理に疑問を抱きつつ神様のみ力を求め、そして遅々として進まない復興の中にあっても希望を願い求める祈りが捧げられました。
2011年の大斎始日から2日後の3月11日、私は仙台基督教会の牧師として勤務中でしたが、1週間前に患った感染性胃腸炎からようやく回復し、仕事への復帰を喜んでいました。その日は、午後3時に松島にほど近い利府町での約束があり、当時神学校入学前の渡部拓聖職候補生を伴って、仙台基督教会を午後2時に車で出発いたしました。利府町は、海にも近く、後から考えてみますとわざわざ震源の近くへと向かっていたのでした。海に向かって車を走らせていた途中、晴れているにも拘わらず、遠く海の方に帯状の黒雲が横に拡がっているのが見え、二人で「不吉さ」を感じた瞬間、大地は大きく揺れ動き、前を走る車が宙に浮くのが見えました。それが私にとっての「東日本大震災」の始まりとなり、その瞬間、すべての予定や生活、思いがリセットされ、刻々と伝えられる被災地の状況に心揺さぶられる日々へと突入したのでした。発災後、祈りを捧げることの他に何をしたらよいのかわからず、時間だけが過ぎていく中、大震災発生から3日後、旧東北教区会館ホールの入口に教区主教によって「東北教区災害対策本部(仮)」の看板が掲げられて我に返りました。そして皆で手を取り合い、輪になって祈ったとき、復活の主が部屋にこもっていた弟子たちの真中に立って、聖霊の息吹を吹きかけられたのと同じ経験によって皆の力が結集され、教会・教区による支援活動が始まったと思っています。
その後、周知の通り2011年5月末に「日本聖公会いっしょに歩こう!プロジェクト」が設置され、働きが整えられていきましたが、大震災発生から約2ヵ月を要したことになります。「いっしょに歩こう!プロジェクト」の活動やスローガン・方針は本当にすばらしいものでした。残念ながらこの働きは2年をもって終えましたが、その精神は「だいじに・東北」に受け継がれ、そして発災後3年が過ぎた今も私たち一人一人に、発災直後と同じく日々「何ができるのか」が問われています。同時に私たちは何時何処で大災害が起きてもおかしくないといわれる国に住んでいますので、今回の経験(例えば組織図やスローガン・活動方針等)が大きな宝として残されて今後にぜひ生かされ、そして有事にこそ教会の働きは急ぎ求められ、必要とされることを忘れずにいたいと思います。
あけぼの 2014年7月号より
司祭 ヤコブ 林 国秀
「小さいことでも何かをやっていきたい」2014年6月号
「だいじに東北」から昨年12月に福澤真紀子姉が、そして今年2月に松村 豊兄が、それぞれ影山敬信兄をアシスタントに連れて秋田聖救主教会で学びの時・懇談の時を持ってくださいました。「自分たちに何ができるか?」が初回のテーマになっていましたが、2回目には「自分たちにできること」がテーマになっていたと思います。それは『「だいじに・東北」の働きは被災地と教会を結ぶこと』とのメッセージを頂いたことにあるように思います。
秋田聖救主教会婦人会は教区婦人会の任も担っています。日本聖公会婦人会(日聖婦)との関係を通じて南相馬との関わりを築き、仮設住宅の女性たちの手作り品を教会婦人会の協力を得て取り寄せ、教会バザーで販売とPRを致しました。今もその活動を続け、手作り品や書籍を紹介しています。
『いっしょに歩こう!プロジェクト』が2年間の働きを終え、昨年より『いっしょに歩こう!パート2』に移行し、「だいじに東北」と「原発と放射能に関する特別プロジェクト」の二本柱で動き出しました。「だいじに東北」は主に東北教区の活動となりましたが、お伺いすることもできず、その教区の働きに関われずにおり、どうしたらいいだろうか?との思いを持っておりました。その状況の中で2回目の「だいじに東北」との学びと懇談の時を持ち、それぞれが持っている関係を大切にしていくことを通しての支援の大切さと前述のメッセージを頂き、また、手作り品の販売等も行っているとの情報も得、それらを紹介しPRして行くことも十分な関わりであることに励ましを頂きました。でも矢張り被災地をお訪ねすることをしたい、との思いも強くなり、今、それに向けて準備している所です。
私は今まで、支援活動には大きく関わっていませんでした。先日、あるきっかけで福島県人会とコンタクトを取りました。この県人会は秋田へ避難している方々をサポートすることを目的としています。そこで紹介された「第5回秋田県内避難者情報交換・交流会」に出席する機会を得ました。教会から比較的近い所にある県の施設が「秋田県避難者交流センター」となっていること、また、そのような会がもう5回も開かれていることを初めて知り、その席に同じ郷里の方々が「避難して来ている」ことを目の当たりにして、自分のアンテナの受信力の弱さに改めて気付かされています。そして県人会の方に協力を申し出ました。何かしらでも教会としての関わりに繋がればと思います。
避難区域解除のニュースが流れています。ニュースで映し出される風景は、私が高校時代に同期生たちの家に遊びに行った所も含まれています。「あいつ、どうしてるかな?しばらく帰っていない実家も線量はどうなったかな?」との思いがニュースを見るたびに頭を過ります。
被災者の方々が一日も早く安心して暮らせるようになることを日々の祈りの中でこれからも覚えて行きたいと思います。
あけぼの 2014年6月号より
司祭 アントニオ 影山 博美
「今、私たちに必要なのは」2014年4月号
私が住んだ「清州(チョンジュ)」という町は、韓国ではあまり大きくない町です。今から30年前には最も高い建物は7階でした。もちろん、今では50階程度の建物もあります。 2年前、東北教区訪問団と一緒に大田教区を訪問した時、私が子どものころ住んでいた町の前を通って行きました。通り過ぎて行く前に多くの期待をしました。「清州も多く成長したので、私が住んでいた近所も多く変わった」という期待感がありました。しかし、その期待はすぐに失望に変わりました。15年前、引っ越しをした時と今の姿はあまり変わらずにそのままでした。子どものころ友だちと遊んだ家の前の道もそのままだったし、建物もほぼそのままでした。
その日の夕方に宿に帰って、なぜ私はそんなに失望をしたか考えてみました。その理由 は明らかになりました。これは、過去15年の間引越しした後、一度もその町に行かなかったからでした。それで、私は頭の中で考えていた姿と現在の町の姿が違う姿があったので失望をしていたようです。
ヨハネによる福音書1章35節以下を見ると、イエス様がヨハネの弟子たちに「何を求めているのか」と言われた時、その弟子たちは、「先生どこに泊まっておられるのですか」と言いました。その質問に、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そうです。我々はそこに行って見る前に、私がそれを経験する前に、私の考えが自分自身を支配しています。 経験というのは非常に重要なことです。それゆえ、運動選手たちも多くの試合に参加して経験をします。試験を準備する学生は、試験の前に多くの準備を通じて試験の経験をしたりします。
今、皆さんに最も必要なものは何ですか?それは、経験です。直接被災地に来て、見る経験が最も必要なときです。 2011年3月11日、大震災以降、日本聖公会中心だった「一緒に歩こう!プロジェクト」が、2013年6月にすべての活動を終え、7月から「一緒に歩こう!パートⅡ」として、「だいじに東北」を設置し、去年10月12日仙台聖フランシス教会で「だいじに・東北」の活動を開始する礼拝をささげて新たな活動を展開しています。
今、私たちに最も必要なことは、イエス様がヨハネの弟子たちに言われたように「来て、見る」ことです。来て見ればわかります。イエス様がいらっしゃるところに、来なくては、イエス様の愛がどんなものか、イエス様がどんな方であるかを正確に知ることができないように、被災地に来て、見なくては正確なことを知ることができません。文書で読むこと、他の人から聞くことより重要なのは、私が直接その場所に立って被害状況を見て、被災者から直接話を聞くこと、それが最も必要なものです。 まだ被災地を一度も訪問していなかったら、今からでも「だいじに東北」を通じて「来て、見て」ください。
あけぼの 2014年4月号より
司祭 ドミニコ 李 贊熙
「私たちはどう関わるか」2014年3月号
2014年3月11日、私たちは東日本大震災3周年を迎えます。「石の上にも3年」という諺があり、まあ3年も辛抱すればなんとかなる、3年食いしばって努力していたら何かしらものになってくるものです。
さて大震災後3年経った今日私たちは何を経験しているでしょうか。それは分断、格差、不公平、不平等、失意、落胆そして友情、親愛、絆、未来、夢と希望です。
今更言うまでもなく、被災地は一瞬にしてズタズタに切り刻まれ、特に放射性物質影響下にある地域コミュニティーは分断、人々は離散させられました。地域と住民は徹底的に破壊され、そこからの再生は並大抵ではありません。
しかし、ばらばらに引き裂かれたところにこそ、良きおとずれはやってくるし、お大事に=愛が生まれるのです。復興進捗の格差の増大、仮設や 避難先で暮らす皆さんの複雑 さを増す心情、高まる焦燥感があるけれども、それでも良きおとずれが告げられています。なぜなら、イエスさまのみ心は「わたしたちが一つとなるために」世を去られたからです。(ヨハネ伝17:11)イエスさまがかの地で葛藤している住民に語りかけ、抱擁し、同席し食事をされた行為こそ私たちの模範です。
「センターしんち」は被災者支援の中心な場所です。さきあみコースターやいちごストラップ、十三浜ワカメ、障がい者施設まどかやワークショップひまわりの製品購入支援は、全国の信徒との繋がり、遠方からの心が寄せられている証明で被災された皆様を元気づけます。ひまわりの所長さんは、会うたびごとに満面の笑顔で繰り返し感謝を口にされます。
現地を直接訪ねる巡礼や、それぞれの教会で祈ることは信徒の務めです。「だいじに・東北」を通じて教会信徒や幼稚園・保育園施設関係者が、被災された人との関係を持ち続けていく事は信仰上の大切な問題です。関係していくことは奉仕であり、尊い行為に他なりません。数ヶ月前、仙台市太白区にあるまどかカフェに、仙台基督教会と仙台聖フランシス教会の信徒がお客さんになり、その後は5日間、女性たちは繭玉オーナメント作りを手伝いました。これこそは教会の精神です。
昨年12月23日、外国人のための日本語学校で学んでいたフィリピン人女性たちと家族約30人はクリスマス会をしました。仙台基督教会仮礼拝所での聖餐式は、タガログ語で朗読、代祷は英語、聖歌にはフィリピン人におなじみの1曲が歌われ、なんとも国際的な礼拝でした。「だいじに・東北」オフィスでの昼食祝会は楽しすぎて、新聖堂完成後も礼拝と集いを催していきします。
「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ伝17:23)
教区の各教会が被災地での平和のメッセンジャーとして福音宣教奉仕にかかる時生じる費用は、「だいじに・東北」から援助する仕組みができました。遠慮なくオフィスまで問合わせください。だいじに・東北のポスターとパンフレットが配布されますから多いにご活用いただければ誠に幸せです。
あけぼの 2014年3月号より
支援室室長 司祭 フランシス 長谷川 清純