教区報
教区報「あけぼの」
「丁寧な関係を大事に」2014年8月号
スーパーや総合病院の入り口のフロアなどでよく見かけるもので「お客様の声」「患者様の声」というコーナーがあるのをご覧になったことがありますか? 私もたまに見ることがあります。
「お褒めの言葉」「お叱りの言葉」「改善して欲しい要望」など、たいてい3つに分けられていることが多いように思います。私はその中でもお叱りの言葉が気になります。そこには正直「?」と思うような内容も書かれてはおるのですが、多くはごもっともなご指摘のように感じます。
特に病院においては、患者や家族にとっては深刻な訴えが書かれていることがあります。病院側の回答を読むと、その声に対して真摯に受け止め反省し、お詫びの言葉が述べられ、改善に努めることを約束しています。 賞賛の声を頂くのは嬉しいことです。前へ進むための大きな活力にもなると思います。 批判や怒りの声は正直、受け止める側はしんどく、出来れば避けたいものなのかもしれません。しかし、むしろ批判の声こそ真実の叫びなのではないのかと思うのです。
だからこそ、お店や病院の経営、運営において批判やご指摘の言葉は、むしろ「天の声」として大事にしていくのだと思います。そして、さらに言うならば批判をするということはまだ関心があるという裏返しなのであって、人は困難なとき、苦しい時は、怒ることによって批判することによって、自分自身を何とか保つことが出来ている一面もあるのではないでしょうか。
それよりももっと深刻なことは、人は怒りや批判を越えると失望し、絶望し何も言わずに静かに去っていってしまうのです。東日本大震災発生から3年が過ぎ、生きる希望を失い、絶望のうちに誰にも知られず亡くなっていく方、自ら命を絶つ方が後を絶えません。仮設住宅に住まわれていた方も次の住む場所や仕事など将来に希望を見いだし、新たな道を一歩踏み出した方もいれば、全く未来に希望を持てずに苦しんでおられる方もたくさんいらっしゃいます。それでも皆さん必死に前を向いて生きようとされています。この現実を重く深刻に受け止めなければならないと思います。しかし、一方で何も出来ない「私」もここにいることを認めます。
私たちの日常や教会の現実も、全く同じことが言えるのではないでしょうか。その現実を受け止め、丁寧に心を向けていくことが「だいじに・東北」の中心にあると信じています。主イエスご自身のご生涯も辛酸をなめつくしたものでありました。むち打たれ、辱められ、十字架にかけられて死なれました。
全くの無力の死であったのです。徹底的に絶望されたのです。震災後ある方が、「私たちはこの現実にもっと怒り、徹底的に絶望することなくして前に進むことはありえない」とおっしゃった言葉が私の心に残っています。まさに、主イエスが体験された絶望的な苦しみに、私たちはもっと心を寄せなければならないのではないかと思うのです。そのような生涯を送られたイエスが言われた「互いに愛し合いなさい」の教えを私たちがしっかりと心に留め、現実から目を背けずに歩み出すときに、そこに必ず希望が示されていくと信じたいと思います。 ※挿画は、テゼ共同体創始者ブラザー・ロジェが愛した「友情のイコン」。修道院長メナの肩に手を回しているキリストが描かれている。
あけぼの 2014年8月号より
司祭 ステパノ 越山 哲也