教区報

教区報「あけぼの」

「十字架の道と断食のこと」2017年6月号

今年も聖金曜日の正午から、「十字架の道行」の祈りを行ないました。イエス様が十字架を背負って歩かれた道での出来事は、長い歴史の中で伝説が生まれ、脚色されたものが多々あるのですが、黙想のために用意されたテキストがよく出来ています。一つ一つの言葉が、深い洞察に導かれていて、魂を洗われる思いがします。

 

エルサレムに行きますと城壁に囲まれた旧市街(Old city)があります。その旧市街の中にヴィア・ドロローサVia Dolorosa(ラテン語:悲しみの道)とかヴィア・クルキス(Via crucis 十字架の道)と呼ばれる道があります。北東側のイスラム教徒が住んでいるライオン門付近から、ゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会まで、道筋の14か所には留(ステーションstation)があります。いわく〈ピラトに裁かれた場所〉〈鞭打たれ十字架を背負った場所〉〈クレネのシモンに助けられた場所〉等々と、エピソードを伝えています。

 

エルサレムは石で出来ていますから、家を建てるときには、崩れた石の上に建てます。時代が過ぎるとまたその石の上に家が建てられますから、実際にイエス様が歩かれた道ははるか地下にあり、発掘されています。現代の道は実際に歩かれた道とはまったく違うのですが、巡礼で訪れる人々が十字架を背負って祈りながら歩いています。

 

エルサレムの神学校に行った際、コースの終わる頃「考古学的には根拠は無いけれど、私たちも十字架を背負って歩いてみよう!」と先生に言われ、歩いたのですが、何とも言えない複雑な気持ちを味わいました。皆が見ている中で十字架を背負って歩くのは、勇気がいるものです。気恥ずかしくて、決して単に肉体の痛みだけではなかったんだと気付かされました。

エルサレムまで行くのは難しいので、このような十字架の道が教会や修道院の境内に造られています。郷里の山梨県の清里聖アンデレ教会から清里聖ルカ診療所まで十字架の道があって、各留毎に小さな聖像が飾られていました。

 

東北教区の中にも、どこかにこのような十字架の道があったらいいのにと思います。

 

さて、聖金曜日は断食日ですから空腹に耐えながら、イエス様の苦しみとはまるで違うけれど、わずかばかり体でも十字架の苦しみに思いを寄せることができ感謝です。

 

英語で朝食をbreakfastと言い、その語源は「断食(fast)を破る(break)」というのです。断食明けの朝に胃の負担を考えて、お粥をいただくとき、何千年も続く諸先達の慣れ親しんだこの習慣に、私もつながっていることをしみじみ思います。

 

何の道具もいらない場所も選ばない、こんな簡単な方法の効果が絶大であることを、先人は身を持って体験したのでしょう。断食の時を過ごす度に、私たちが何のために生きているのかを考えさせられ、大事なものを見失わないように教えてくれます。

 

日本ではまだあまり知られていませんが、断食の健康への効果もいろいろな場面で語られています。絶食療法を科学的に検証した「絶食療法の科学」というフランスで製作された番組が、日本でもテレビで紹介されました。医師の指導の下でこの療法を用いることにより、実際に効果がある症例もあるようです。

 

司祭 フランシス 中山 茂